第19話 鉄華と仁の365日間戦争
本話は『鷹峰 鉄華』視点で進みます。
3歳の頃、母親が男と逃げた。
当時の事はよく覚えていない。
ただ、ぽっかりと穴が開いたような胸の痛みだけは記憶に残っている。
「おい、鉄華。こっち来い」
狭いアパートの一室。
空き缶の転がる畳の上で、父親がしゃがれた声を出す。
幼い鉄華は、肩を震わせた。
「……や、やだ」
「あ?」
父親の眉がつり上がる。
鉄華は慌てて逃げようとしたが、小さな体では間に合わない。
「あうっ……!」
伸びてきた手に腕を掴まれ、そのまま畳を引きずられる。
痛い、怖い、苦しい。
家に安息などなく、酔っ払った父親に目を付けられないよう、押し入れの中で息を潜めて朝が来るのを待つ。
そんな日が、ずっと続いた。
変わったのは、鉄華が中学に上がった頃だ。
「鉄華ァ! こっちに来ねえか!」
「いやっ……!」
いつものように父親が拳を振り上げた。
鉄華は身を守ろうと、反射的に手を突き出す。
「ぐあっ!?」
父親は、どすんと尻もちをついた。
――その体に、鉄華は一切手を触れていないのに。
(な、何……これ……)
鉄華は自分の手を見た。
普段と何ら変わりない掌だ。
しかし、何かに目覚めたのを感じた。
今までに無かった力。
誰にも踏みにじられることなく、誰にも押さえつけられない力だ。
父親はそれ以来、鉄華に手を出さなくなった。
しかし、平穏な人生を歩めるようになったわけではない。
むしろ真逆だ。
――誰も、アタシを止められない。
そう知ってしまったから。
「――オラァ!」
鉄華の拳が男の顔面にめり込んだ。
路地裏に鈍い音が響く。
「次来いよ!」
相手は五人いた。
敵対する不良グループの連中だ。
それに対し鉄華はたった一人。
だが、数など鉄華の前では何の意味も持たなかった。
「――『震天動地』!」
叫びながら両手を伸ばす。
鉄華を取り囲んでいた不良たちは、一斉に吹き飛んだ。
「……何だよ、もう終わりか?」
鉄華は倒れた一人の胸倉を掴み、持ち上げた。
「ひぃ……」
男の顔が恐怖に歪む。
鉄華はそれを見て、笑みを浮かべた。
怖がられるのは、気分が良い。
自分は弱くない。
もう虐げられることはない。
誰に頼らずとも独りで生きていける。
誰かが自分を見て怯えるたびに、心の穴が少しだけ埋まる気がした。
「歯ぁ食いしばれ」
「やっ、やめ……!」
鉄華は握り拳を作った。
そこへ魔法の力を乗せると、拳の周囲の大気が震えだす。
これを顔面に叩き込めば、ただでは済まないだろう。
分かっていたが、止める気はなかった。
(……向こうから、しかも複数で襲い掛かってきたんだからな。当然、殺される覚悟で来てんだろ?)
心の中で冷たく吐き捨て、拳を大きく振りかぶる。
そして、男の顔面へ――
「――っ!?」
叩き、込めない。
何者かに腕を掴まれた。
振り向くと、背後に一人の男が立っていた。
軽くウェーブした黒い長髪。
くたびれた服。
やる気の無さそうな眼。
どこからどう見ても浮浪者だ。
「んだよ、おっさん」
「おっ……!? い、いや、ちょっと待てよ。俺まだ28だぞ……」
「知らねえよ。アタシからすりゃジジイだ」
「もっと酷く言うなよ……って、そうじゃなくて」
おっさんは面倒くさそうに頭を掻いた。
「そんな魔法ぶち込んだら、そいつ死ぬぞ」
「……だから何だよ」
「やめとけって言ってんだよ」
鉄華はおっさんを睨んだ。
説教をする大人は嫌いだったから。
「止めたきゃ力ずくで止めてみろよ」
「あ、いや、そこまでではないかな」
「んなっ……」
おっさんは鉄華の腕をあっさりと離した。
そして、路地の奥を指さす。
「あそこに行きつけの呑み屋があってな、たまたま通りかかっただけ」
見ると、赤いのれんを下げた店がある。
おっさんは「そんじゃ」と手をひらひらさせながら、店に向かって歩き始めた。
鉄華の脳は一気に沸騰する。
説教をする大人は嫌いだが、余裕のあるフリが上手いだけの臆病な奴は、もっと嫌いだ。
「店までぶっ飛ばしてやるよ!」
鉄華は不良を掴んでいた手を放し、おっさんに背後から殴りかかる。
後頭部に、魔法の乗った拳が直撃する――と思った瞬間。
視界が、ひっくり返った。
――ドォン!
「かはっ……!」
背中が地面に叩きつけられる。
肺の中の空気が全部押し出された。
鉄華は始め、何をされたのか分からなかった。
数秒経って、投げ飛ばされたのだと気づく。
「し、しまった……つい……! 大丈夫か?」
おっさんはしゃがみ込んで、鉄華の頬をぺちぺち叩く。
「…………うそ」
目を瞬かせつつ、鉄華はぽつりと呟いた。
(こんなに強い人がいるんだ……)
自分より遥かに上を行く人間がいる。
その事実が、18歳という思春期真っ只中の脳を、強烈に焼いた。
「な、なあ……アンタ」
「お、怪我とかはなさそうだな。良かった良かった」
「アンタ、名前は……?」
仰向けに寝そべったまま、鉄華はおっさんのズボンの裾を握った。
逃がしてはならないと、そう感じたから。
「名前って、何でだよ」
「つ、次は……次は必ず勝つからだ……!」
「えっ。これ次あるの?」
おっさんは心底嫌そうな顔をしてから、渋々名を名乗った。
鷹峰 鉄華、18歳。
御影 仁、28歳。
それが、二人の出会いだった。
「うぉらぁ! 喰らいやがれぇ!」
「またお前かよ!」
振り向きざまに殴り飛ばされ、鉄華は負けた。
「今日こそぶっ飛ばすからな!」
「へいへい、懲りねえなあ」
次の日も負けた。
「逃げんなよおっさん!」
「こんだけぶっ飛ばされて、よくそのスタンスで来れるな……」
その次の日も、さらに次の日も負けた。
鉄華は毎日仁の後をつけ、勝負を挑んだ。
公園で、河川敷で、コンビニの駐車場で、行きつけの呑み屋で。
隙を見つけては襲い掛かり、そのたび一瞬で倒された。
そしてある日、いつも通り仁の後を付けていた鉄華は、ダンジョンゲートの前の協会職員に止められた。
「すみません、ダイバー資格を提示してください」
「資格ぅ?」
「ここはC級以上のダイバーでなければ入場できません」
「ああ、それなら大丈夫だ。アタシは強ぇから」
「そっ、そういう問題ではありませんよ!」
「うるせえ! いいから通せよ!」
鉄華が職員にずいっと詰め寄る。
すると、先に進みかけていた仁が、入場ゲートの方へ戻ってきた。
「……何、お前ダンジョンに興味あんの?」
「ダンジョン……?」
鉄華は思わず復唱した。
てんで的外れだ。
ダンジョンに興味などはない。
興味があるのは仁そのものだ。
だから「そんなわけねーだろ!」と突っぱねてもよかったのだが、仁が初めてまともに自分を見た気がして、反射的に叫んでいた。
「――ある! めっちゃくちゃある!」
「へえ……」
仁はしばらく鉄華を見ていた。
それから、こくりと頷く。
「資格を取る気があるんなら、少しだけ面倒見てやってもいいぞ」
「マジか!」
鉄華の胸がどくんと跳ねた。
「ただし途中で投げ出すなよ?」
「おうよ! 望むところだ!」
「……わかってんのか、本当」
仁はそう言って、また面倒臭そうにため息を吐いた。
けれど鉄華には、そのため息すら嬉しく思えた。
初めて仁が自分に時間を使ってくれるから。
だが、それからの日々は、幼少期とは違った意味で地獄だった。
戦闘訓練はまだよかった。
戦う事は得意中の得意だ。
問題は、それ以外だ。
「まずは挨拶だな」
「……あ? 必要ねえだろそんなもん」
「必要ある。ダイバーは一人じゃやっていけない。職員からサポートを得るのはもちろんだが、時には初対面のダイバーと組むこともある。その時にそんな顔で睨んでみろ、連携もクソも無いぞ」
「…………睨んでねえよ」
「睨んでるよ。もっと目尻を下げて、眉間の皺を消せ」
「アタシはこれが普通なんだよ」
「じゃあ笑顔を普通にしろ。そんで『おはようございます』っつってみ」
言葉遣い、他人との距離感、悪い事をした時の謝り方、相手を威圧しない方法に、傷つけない方法。
全部、鉄華には無縁のものだった。
仁はそれを、一から十まで丁寧に教えた。
ある日、仁は鉄華を近所の弁当屋に連れていった。
カウンターの奥の若い店員が、鉄華を見るなりびくっと肩を震わせる。
(……どうせ、無理なんだよ。アタシには)
鉄華はその店員の様子を見て、さらに顔をむっとさせた。
だが、隣の仁は小声で言う。
「練習だぞ」
「……分かってるよ」
鉄華はカウンターの前に立った。
店員の顔は恐怖に歪み、腰も引けている。
鉄華は一度深呼吸をしてから、ぎこちなく口を開いた。
「――か、唐揚げ弁当を……お二つ、寄越っ……くださいませ……?」
かあっと顔が熱くなる。
落ち着かない、恥ずかしい、ちゃんと言えただろうか。
何より不安なのは、斜め後ろに立つ仁が「ぷふー」と噴き出したこと。
店員はしばらくポカンとした後、少しだけ笑った。
「はい。唐揚げ弁当をお二つですね」
「え、あ……そ、そうだ!」
大きく頷く鉄華の横腹を、仁が肘でつつく。
鉄華は慌てて言い直した。
「――じゃなくて……そうで、っす」
「ふふ。少々お待ちくださいね」
店員はにこやかに対応した。
怯えた顔でも困った顔でもなく、他の客と変わらぬ態度で。
鉄華は、胸の奥が変な感じになった。
「はい、唐揚げ弁当です。お待ちどおさま」
弁当を受け取る鉄華に、仁が小さく言う。
「ほら、最後」
「あん……?」
「礼だよ」
「あっ。ありがとう……ございます……っす」
ぎこちなく、頭を下げる。
店員はにこっと微笑んで、「ありがとうございました」と礼を返した。
店を出た後、仁がにやにやしながら鉄華に問う。
「どうだった?」
「……怒鳴ってないのに、弁当が貰えた」
「普通は怒鳴らずに買うもんだ」
「…………そっか」
鉄華は手に下げた袋を見下ろした。
温かい。香ばしい匂いが立ち上る。
ただの弁当なのに、なぜだか妙に嬉しかった。
「良かったぞ、さっきの」
仁が鉄華の背をポンと叩きながら言う。
「……マジか」
鉄華は顔を上げた。
「大マジ。ま、敬語はめちゃくちゃだったけど」
「う、うっせえよ!」
「言い方」
「っ……うっせえっす!」
「何か違うような気が……まあいいか」
仁が呆れたように笑う。
鉄華はその横顔を見て、また胸の奥が変な感じになった。
熱いような、痛いような、楽しいような、苦しいような。
それは、今まで経験したことのない何かだった。
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「ギィヤアアアアァァァ……」
等々力ダンジョンの回廊に、魔物の断末魔が響く。
鉄華は後方から仁の戦いを見ていた。
(あの頃より、何倍も強くなってるっすね……)
胸の中でそう呟く。
結局、鉄華が仁と過ごしたのはきっかり一年間。
365戦し、365敗を経た次の日に、仁は鉄華の前からいなくなった。
それから、もう七年が経つ。
大きく成長した自負はある。
数えきれない程ダンジョンへ潜り、世界ランク12位という場所まで来た。
だからこそ、分かる。
――仁の動きは、おかしい。
魔物が動き出す前に、攻撃をそこへ置いてきている。
剣を振るのも、魔法を使うのも、必要な分だけ。
(どれだけの鍛錬を積めば、そうなれるっすか……?)
仁はいつもそうだった。
普段はフラフラしている。
いっつも面倒くさそうでだらしなくて、酒浸りのおっさんに見える。
だが、日々の鍛錬だけは欠かさない。
それも前向きな努力という感じではなかった。
何かに怯えているような。
自分の身体へ無理やり強さを刻み込んでいるような。
(……きっと、あれからずっと、自分を追い込んできたんすね)
昔の鉄華には、その凄さが理解できなかった。
ただ、強いな、速いな、カッコいいな……と、それだけだった。
しかし、今は違う。
自分も同じ道を歩み始めたからこそ、痛感してしまう。
御影 仁という男が、どれほど長く、果てしない道の先にいるのか。
「――おい、鉄華。行かないのか?」
いつの間にか戦闘を終えていた仁が言う。
「あっ、すみませんっす! ちょっと考え事してて!」
鉄華は慌てて駆けだした。
「考え事……? お、お前が……?」
「むむっ、失敬な。アタシだって考える事くらいあるっすよ」
鉄華は頬を膨らませながら、内心で付け加える。
(例えば『今のアタシはどこまでアニキと戦れるだろう』……とかね)




