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Alice-Mana's Nursery  作者: 遠藤ほうり
第1話 迷子

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黒猫 4

 少年と少女は、狭く薄暗い路地裏を走っていた。真魚は黒猫を抱えて、新はそんな彼女の手を引いて。

 果たして、いったいどれだけ走ったのだろうか。ふたりは深幸に案内された道を遡るように逃走を続け、彼が目を覚ました場所すらもを通り過ぎ、やがて知らない領域にまで足を踏み入れて久しい。

 深幸はふたりを逃がすために、ラーの元へと単身残り戦っている。今そんな彼女のために出来ることは、少しでも遠くへと逃げることだけ。どこまで行けば終わるのか、そんなこともわからないまま、とにかく足を止めないためだけにふたりは進んでいる。

 だが、いつまでも走り続けることなど出来はしない。

 新の身体が、急に後ろへと引っ張られる。バランスを崩して倒れそうになるのを踏みとどまり後ろを振り返れば、すぐさまその理由は明らかになった。

 彼が手を引いていた真魚が、足をもつれさせたのだ。そもそも、彼女の体力はとうに限界を迎えていて、本来ならもう動かせない足を勢いに任せて無理やりに前へと進めていただけ。

 しかし、真魚の身体が地面に投げ出されることはなかった。前のめりに倒れかけた彼女のことを、寸でのところで新が受け止めたのだ。彼女に抱えられていた黒猫もするりと抜け出して、軽やかに着地をする。

 幸いなことにどちらにも怪我はないらしい。

 新はひとまず胸を撫で下ろしながら、しかし事態はそう上手くいくはずもない。無理に無理を重ね続けた真魚は、今にも死んでしまいそうなくらいに息も絶え絶え。どころか、今の彼女では息さえも詰まらせかねないとすら思えるほどに危ういほど。

 今は逃げることよりも、先に彼女を休ませないといけない。

 新は真魚を抱きかかえて路地の隅へと移動し、自分にもたれさせるようにして彼女を座らせた。その手を離れた黒猫も、同じく真魚のことが気になるようで、なぁと小さく鳴きながらその傍らにちょこんと座った。

 彼に背を預けたことで、少し楽になったのだろう。真魚は苦しいながらも黒猫へと微笑みを見せ、ゆっくりと少しずつ呼吸を整えていく。しかし、そうしている間にも自分たちが残していった深幸のことが心配らしく、今も彼女がラーと戦っているだろう方向をちらちらと気にしている。

「多分、あの人は大丈夫だよ」

 そんな真魚の不安をほぐすために、宥めるように優しく新は声を掛ける。

 傍目には希望的観測にも聞こえる言葉だが、単なる気休めと言うわけでもない。それは彼女がラーと同質だろう存在へと変貌したこともそうだが、もうひとつ。

「俺、ここに来るとき、さっきのとは別の怪物に襲われたんだよ」

 思い出すのは、彼が泣き女と邂逅した直後のこと。最初こそなんとか逃げることが出来たものの、テスカトリポカにはすぐに追いつかれてしまった。

「で、もう逃げ場がないってところまで追い詰められたんだけどさ」

 そして、次に彼が思い出したのは、ついさっきの出来事だ。ラーの前に深幸が立ち塞がり、弓矢で彼を牽制した瞬間のこと。

「その時俺を助けたのが、多分さっき鹿角さんが撃った矢なんだよ」

 たとえばそれは白い輝きで、あるいはそれはガラスの砕けるような音。しかしその時に見たものは、先ほど彼女がラーに向けて放ったものよりも苛烈だった。加えて、テスカトリポカから新を助け出し、その上で特段傷を負った様子もないのだ。そう考えれば、その時よりも身軽であろう彼女ならば、きっと帰ってくるだろう。

「大丈夫だよ、あの人はきっと帰ってくる」

 新は真魚を勇気づけるようにそう言った。彼女に撫でられながら隣に座る黒猫も彼に続いて元気な鳴き声を上げたが、話を理解しているのかどうか。そんな光景が微笑ましくて真魚もついつい笑顔がこぼれてしまった、その時だ。

 激しい衝撃が、ふたりを襲う。それから一拍遅れて聞こえてきたのは、絶えずガラスが砕け続けるような、透き通った轟音。

 ふたりが今どこまで逃げてきたのか正確な距離こそわからないが、それでもある程度以上は遠くへ来ているはずだ。だというのに、耳を塞ぎたくなるほど大きなその音は、ほんの一瞬で通り過ぎて行った。

 今のは、一体。

 真魚は猫を守るようにぎゅっと抱き締めて、新と互いに顔を見合わせる。その音が聞こえたのは、おそらく深幸がいた方向からだ。常軌を逸した衝撃と轟音が示すのは、つまり、彼女の身に何かが起きたのかもしれないということ。

 そんな、絶句したまま動けないでいるふたりに向けて、まるでその不安を裏付けるような声が上の方から降ってきた。

「ここにいたか」

 新は、ぎり、と歯噛みをして、声のした方を見上げる。そこにいたのは想像通りの黄金の怪物。ラーは静かに地面へと降りると、自身を警戒するふたりへと向けて再び問い掛けた。

「それをこちらに渡せ」

「嫌だ」

 新は答える。そして自身にもたれ掛けさせていた真魚を丁寧に寝かし、怪物との間に立ち塞がった。起き上がることの出来ない真魚はなんとか彼を止めようとするが、弱々しく指先は裾を引くのが精々。

 それでも、新に退く気はない。真魚の手をそっと振りほどいてラーへと駆け出して、次の瞬間に宙を舞っていた。

 何が起こった。彼が状況を理解するよりも先に目に映ったのは、猛禽のようなラーの瞳。そうして気付いたのは、彼の羽虫を振り払うような仕草で以て、新は軽々と弾き飛ばされたのだということ。

 衝撃と痛みに短い呻き声を重ねながら、新は地面に転がっていく。あの黄金の怪物は彼のことなど欠片も気にも留めることはなく、人と怪物との隔絶を如実に表すかのよう。

 視界の向こうでは、まだ起き上がれるほどにも回復していない真魚が、なんとか新へと手を伸ばそうとしている。彼女の抱えていた黒猫は、まるでその身を案じているのか、その隣で小さな鳴き声を上げている。

 そんなふたりの方へとラーは近付いて、果たして、その先にはどんな光景が待ち受けていることだろうか。

 痛む身体に無理を推して、新は立ち上がる。なぜならば、ここで何もしないわけにはいかないのだから。

 いつかのように彼は走る。あの時は、怪物を越えてその向こうへと辿り着くためだった。だが今は違う。彼は真っ直ぐに怪物へと駆け抜けると、その黄金の鎧へと必死で組み付いた。

「おおお…………!」

 決して引き剥がされまいと、獣のように新は唸る。

 当の怪物は鬱陶しげな嘆息をひとつこぼし、先ほどと同じように彼を振りほどこうとする。だがその力は今までよりも強く、軽々と新をあしらっていた程度の力では振りほどくことが出来ない。

 だとするならば。ラーはすぐさま無防備な新の腹に狙いを変え、勢いよく膝を蹴り入れる。その衝撃で新の身体は上へと跳ね上がり、更に追撃として背中へと肘を振り下ろした。これで気絶でもしてくれれば、組み付いた腕からも力が失われるはずだ。そうでなくとも、圧倒的な衝撃と痛みに晒されて、少しも気を緩めないことなどありえないだろうと。

 しかし、それでも彼はその手を離すことはない。どころか彼の発する唸り声は次第に咆哮へ、そしてあるいは止まない雷鳴へとその性質を変えていく。ただ言えることは、轟雷が如き彼の咆哮は、もはや人に為せるようなそれではないということ。

 ラーは直感した。これはもはや、人を相手取るのとはわけが違う。もはやテスカトリポカやディアナ、そう言った怪物たちを相手にするのと同じだけの力が必要になると。

 そしてラーは再度その腹を目掛け、真っ直ぐに脚を蹴り伸ばす。手加減はない。それこそテスカトリポカへと放ったものと同等の威力で蹴り飛ばし、ようやくそれを自分から引き剝がした。

 激しい衝撃を身に受けたその身体は、砂煙を巻き起こしながら後退りをし、どれぐらいかの距離を置いてようやく静止する。

 そして状況は静寂し、そこでラーはひとつの事実に気付いた。

 目の前にいたはずの新の姿は、いつの間にか変貌を遂げていた。獣のように背中を曲げ、両腕は力なく垂らし、ただその目はじっと標的を見詰めている。

 仮にそれを形容するならば、人ならざる怪物。あるいは痩せた武人のような、猿神。

 そんな変わり果てた新の呼ばれるべき名前を、ラーは既に知っている。彼は今まで新を相手取っていた時とは違い、明確に警戒の意思を露わにする。

 そして立ちはだかる敵を値踏みするように眺め、ラーはひとり呟いた。

「なるほど、ハヌマーンか」

次回 歌姫 書きあがり次第更新

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