黒猫 3
その声を、新は知っていた。
先客は鬱陶しげに、深幸たちの方へと振り返る。彼の身体は黄金の鎧に包まれ、頭を覆う仮面は隼を思わせる意匠。猛禽さながらの眼で三人を見るそれは、紛う事なくあの時にいた黄金の怪物、ラーだった。
彼は指差す。
「それを渡せ」
指先が向いた先にいるのは、黒猫を抱えた真魚の姿。怪物の瞳に正面から捉えられた彼女はその視線を外さないまま、いつでも走り出せるようにと一歩後退りをした。
だが、幼馴染が標的にされて許せる新ではない。
「お前っ……!」
彼はそう言って前に出ようとして、だがそれは敵わない。深幸の手が彼を制したからだ。彼女はラーへと向けた視線を逸らさないまま、呆気に取られる新をよそに言う。
「ふたりは下がってて」
その声は随分と落ち着いていて、まるで怪物を前にしているとは思えない。加えて、先ほどの凄惨な破壊の跡も気に留めていなかった。つまり、そうである理由があるということだ。
「いや、でも……」
と、戸惑っている新の腕が、くいっとひかれた。隣を見れば、黒猫を抱えたままの真魚が彼の腕を引っ張っている。彼女は新の目を真っ直ぐに見つめて、深幸の言葉に従うようにと彼に訴え掛けていた。
真魚の視線に重ねるように、深幸は彼に語り掛ける。
「大丈夫だよ。でも、あんまり驚かないでね」
その言葉こそが、ひとつの明確な切っ掛けだった。
瞬間。ラーと相対し、新たちの前にいたはずの深幸の姿は、変貌する。
傍目には、鹿の頭蓋を被った狩人のように見えるだろう。それは人の形をしていながら、しかし確かに人だと呼ぶには躊躇われる。
なにせ変わり果てたその姿は、まるで身体中に鎧のように骨を纏っている。だが、正しくはそうではない。まるで骨のように見えているものは、その全てがうねり絡み合う木の幹。
評するならば、樹木で編まれた骨格が、人の形を成している、とでも言う方がよほど真に近い。 そして、その左手だ。ラーやテスカトリポカと同じように怪物と化した深幸の手には、三日月が握られていた。彼女と変わらないほどの大きさを持つそれは、月と見紛うような白銀に輝く大弓。
瞬きのように変貌が終わり、静かな裏路地には冷たい更なる静寂が訪れる。変わり果てた彼女の姿を言うなれば、朽ちた鹿の頭蓋を仮面のように深く被り、鎧のように骨を纏った狩人の幽鬼。彼女は視線を目の前の敵へと定めたまま、静かに佇んでいる。
ラーはそんな彼女の姿を眺めながら、忌々しげに零す。
「ディアナか。お前の相手をしている暇はーーーー」
言葉を遮るように、一条。月明かりの差し込むかのように射られた光の矢が、ラーの額を狙い放たれていた。だが、それは彼が顔の前へと翳した掌によって遮られ砕け散った。
ガラスのような音を立てて月明かりが零れる中、一瞬の隙を突いて彼女は叫ぶ。
「ふたりとも逃げて!」
声が届くと同時、新は迷わず黒猫を抱える真魚の腕を引いて走り出した。
先ほどまで新は深幸をひとりには出来ないと思っていたが、今は状況が違う。ラーとテスカトリポカの戦いがそうであったように、むしろ生身ふたりがあの場に残る方が、彼女にとってはきっと邪魔になるから。
そうしてふたりが建物の影に消えるのを、怪物たちは互いに睨み合いながら静かに見送った。
そしてディアナへと姿を変えた深幸は、残された彼へと問い掛ける。
「いいの? 追わなくて」
だがこの問いに答えなど求めてはいない。どうせ答えなど始めからわかりきっているし、なんならどう答えようが興味など無いのだから。
そんなあからさまな挑発を受けて、心底面倒そうにラーは項垂れた。手で顔を覆い、頭が痛いとばかりの溜息をつき、やがて彼の出した返答はこうだ。
「仕方がない。相手をしてやる」
そしてその言葉によって、今度こそ戦いの火蓋が切られた。
直後。ディアナの目前、ラーの指先が喉元へと迫った。鋭利なその指先に掴まれる寸前に、彼女はとっさに後方へと飛び退き、眼前の敵を目掛け幾条もの矢を浴びせ掛ける。
たとえば豪雨のように降り注ぐ、月光。その全てがラーの姿を正確に捉え、彼の前進を妨げるように押し寄せる。
だが、やはりそれで事足りるはずもなく、無数の矢は黄金の鎧を前に砕け散る。ラーは真正面からそれを受け止めながら、ディアナへと向け更に加速する。
彼女は距離を取るため、再び後方へと飛び退いた。この程度で彼に傷を負わせることが出来ないなど、最初の矢が片手間で防がれた時点で彼女自身既にわかっていたことだ。
だからこそ自身へと迫るラーに狙いを定め、彼女は左手の弓を構える。つがえる矢はその手に持っていない。だが彼女がその三日月に指を添えて見えない弦をぎりりと強く引き絞れば、そこには月明かりのような光が束ねられ、やがては直視出来ないほどの眩い一条となる。
しかしだ、射抜くべきラーは既に彼女の懐へと潜り込んでいる。悠長に弓を構えているその身体へと腕を振り抜けば、たとえそれが喉だろうと腹だろうと、彼の指先は刃のような鋭利さでもって致命傷を与えるだろう。
これで終わりだ、そう彼が思った瞬間。
月光だ。彼女のつがえる形なき光の矢、その先端が一切の迷いもなく自身の胸元へと押し当てられていることにラーは気付いた。
まずい。そう直感したのは単に、迫る彼の腕を躱そうという意志を、ディアナから感じることが出来なかったから。彼の爪が致命あるいはそれに準ずるものであることは、初撃を避けたことから彼女も理解しているはずだ。であればこの瞬間にさえ退く意思を欠片も見せないのは、つまり。
ラーはとっさに自身の胸に突き立てられた月光の矢を両手で掴んだ。そしてそれがディアナの指を離れたのは、同時だった。
高く透き通った、轟音。
極限まで編み重ねられた月明かりの矢が、ラーの胴体を目掛け放たれたのだ。堅牢な黄金の鎧を激しく削ろうとする耳障りな高音が、狭く薄暗い路地裏に鳴り響く。
両手で抑え込んでなお、放たれた矢の勢いを完全に削ぐことは敵わない。衝撃を受け止めるために強く踏み締めた足は杭の役割も果たせないまま、コンクリートに掻き傷を刻み後退していくばかり。
それを悟った瞬間ラーは円環の翼を大きく広げ、その羽ばたきで更なる急制動を掛けた。彼の翼は衝撃波にも値するほどの風を巻き起こしながら、ようやくディアナの放った矢の威力との拮抗に至る。
だからこそ、衝突は激化する。いまだ月光は勢いを失くしてなどなく、たとえ少しでも力を緩めれば、それは今にも彼の胸を貫き風穴を開けるだろうほど。
閃光と、そして轟音。やがて凄絶な衝突の果てに、ようやくディアナの一撃はその威力を使い果たし、さらさらと砂のように崩れ去っていった。 だがそれで終わりではない。ラーはすぐ直上へと飛び上がると、ほんの一瞬の後に彼のいた場所を先ほどと同じか、あるいはそれ以上の月明かりが貫いた。 空中、路地裏を見下ろすラーの下で、ガラスの割れるような音が激しく響く。それは彼が直前に躱したディアナの追撃が、そのまま外壁を大きく砕いた音。
それはふたりの怪物が激突を始め、ようやく十を数えるかどうかほどの間の出来事だった。
だがその応酬も終わり、戦況は静かな膠着へと変わる。
両者が体勢を立て直した今、迂闊に動き出すのは得策ではない。ディアナは続く第三の矢を宙に佇む敵へと構え、その視線の先ではラーが翼を広げ心底気怠げな視線を向けている。
だが、その睨み合いもそう長くは続かない。なぜならばこうしている間にも新と真魚は遠くへと逃げ続けているからだ。そもそもラーからしてみれば最初からこの戦いに意義など無く、時間が過ぎるほどディアナの思惑通りでしかない。
そしてもうひとつの理由は、彼が既に次の手札を切っていたからだ。 ディアナの狙いを定めるその先で、突如彼の黄金の翼が強く輝き始めた。それは彼がテスカトリポカと相対していた時と同じ種類の煌めきを持ち、しかし今度はあの時とは違い邪魔者はいない。
焼けるように熱く、融けるほどに熱い。そんな眩い焦熱を折り重ね、折り重ね、それは加速度的に輝度を増していく。そうしてその翼がこの上無いほどに光を溜め込み、やがて太陽と同質の光を内包する至ったその時、極限の逆光の中でラーは言い放った。
「そろそろ、終わりにしよう」
短いその言葉と共に、それは始まった。空中に佇む彼の翼から放たれたのは、灼熱の陽射しを思わせる無数の細い光条。数えるのに両手では足りないほどのそれは乱雑な方向へと放たれ、瞬間、紙一重でディアナは横へと飛び退いた。
直後、先ほどまで彼女がいた場所へと光のひとつが射し込み、それは触れたコンクリートの壁面を圧倒的な熱量で溶断していく。
彼女は直感した。決して、あれに触れてはならない。どころか直接触れるまでもなく、それが振り撒く熱に当てられただけでも致命は免れないと。
しかし全方位へと無差別に放たれていた陽光は、まるで焦点を絞るように、ゆっくりとディアナの方へと収束を始めていく。無数のそれはひとつひとつが外壁や地面にどろどろと赤熱した傷痕を刻み、もはや彼女に逃げ場などないだろう。
ディアナは、静かに敵たる太陽の方を仰ぎ見る。しかしその姿は彼の背負う翼の眩さで逆光になり、唯一確かなのは、ただ自身へと迫らんとする致死の陽射しだけ。
彼女は左手に携えた三日月の弓に、白く美しい月の光をつがえた。それは幾重にも幾重にも積層を重ねる内に、先にラーへと放ったものよりも更に眩さを加速させていく。
強く、より強く。しかしある一線を越えた瞬間に、それは性質をがらりと変えた。眩しさはやがて優しく柔らかく透き通って、次第にその手で触れられるほどの質量を手に入れる。
そして、もう時間切れだ。
ラーの放つ陽射しが彼女へと届き始めるその瞬間、ディアナはつがえた月明かりからそっと指を離した。
黄金と白銀。ふたつの光が、衝突する。
次回 黒猫 4 書きあがり次第更新します。




