黒猫 2
狭く入り組んだ裏路地に足音が三人分。黒猫を抱えた深幸を先頭にして、新、真魚と並んで三人は歩いていた。
彼女たちが向かう先は、新が泣き女と遭遇したあのフェンス。そこは同時に彼がテスカトリポカに襲われた場所でもあったが、あれからしばらく時間が経っている。きっとあの怪物たちも、また違う場所へと移動しているだろう。
もしそうでなくとも、あの時とは明確に違う点がある。
新には相変わらず見分けのつかない景色の中、深幸は迷うことなく進んでいく。どうやらここに慣れているらしい彼女がいるならば、あの時の新のように袋小路に迷い込むことないだろう。
「鹿角さんって、この辺りの道、詳しいんですね」
「ん-。まぁ、そこそこね」
新の言葉に、事もなさげに深幸は答える。その返事は何ら要領を得るものではなく、こんな場所に看護服と深緑のカーディガンでいる理由には到底結びつかない。
ちらりと真魚の方を向いてみたところで、彼女も首を振るばかり。ふたりは顔を見合わせて、それから新は何かを察したように、深幸に気付かれない程度に大きな溜息をついた。
そして彼は少し躊躇いがちながらも、意を決したように彼女へと質問をする。
「そのー、鹿角さんはどうしてここに?」
新がそう発言した直後、深幸は突然立ち止まった。
だから後に続くふたりも足を止めざるを得ず、危うく一緒に転びそうになってしまう。つんのめりながらもなんとか体勢を直すと、深幸は黒猫を抱え上げて、じっとその瞳を見詰めていた。小さく首を傾げる様は、ただ猫を愛でているようでも、どう答えようかと迷っているようでもある。
だがふたりからしてみれば、自分たちの質問ひとつで彼女が足を止めてしまったのだ。何か聞いてはいけないことだったかもしれないと途端に不安になる。
ふたりが気まずい空気になっていることを知っているのかどうか、深幸は振り返り、少しだけ微笑んでふたりへと答えた。
「なーいしょ」
そして彼女は黒猫を抱え直して、何事もなかったみたいに進んでいく。あまりにも明確にはぐらかされてしまえば、新も真魚もそれ以上は何も言えない。他人の事情なんて無理に聞くようなものでもない、だから新も何事もなかったように流して、そこでこの話は終わり。
だが。それにしたって、彼がひとりで彷徨っていたときには想像も付かなかったほど、深幸はすいすいと進んでしまう。新からすればそれが拍子抜けというか、あるいは頼もしいというか。
そのなんとも言えない気持ちが表情にも出ていたのだろう。真魚は新の顔を覗き込むと、わざと挑発するように自慢げな顔をした。
「お前が威張ることじゃないだろ」
そう言い、彼は真魚の頭に手刀を落とす。もちろん軽く当てる程度で痛いものではなかったが、対する彼女は叩かれた頭を押さえてわなわなと震えている。
また始まった、と。そのわざとらしい反応を見てそう彼は直感した。
彼女はすぐさま新を指差し、手刀のジェスチャーをして、最後に自分を指差す。そしてもう一度新を指差し、手刀のジェスチャーをして、最後に自分を指差す。それはもう、信じられないとでも言いたげな表情で。
後悔の滲む顔で、新は視線を逸らした。表情こそ見えなくなったものの、視界の端ではこちらを見ろとばかりの動きをする手がちらちら。どう逃げようにもついてくるその手が、いい加減鬱陶しくて彼の口からは大きめのため息が漏れた。
「お前、黙っててもうるさいのな」
真魚は喋れなくなった分、以前よりも動きのやかましさが増しているように思えた。その収支の釣り合いが取れているからだろうか、その感覚は彼にとっては懐かしくすら感じられるほど。
だが、彼の言葉に返事を返したのは真魚ではない。
「こーら。ダメでしょ、そんなひどいこと言っちゃ」
新を窘める声は、ふたりの前を歩く深幸のもの。彼は文句のひとつでも言ってやりたいところだったが、今さっき注意を受けた手前それも憚られる。
結果新に出来ることは、唇を噛むことだけ。対する真魚はそんな彼を指差しながら、静かにニヤニヤと笑っている。
「真魚ちゃんも、ちょっかいかけないの」
そう真魚がしっかりとお叱りを受けるのを見て、新は満足そうにほくそ笑む。
そんなふたりのやりとりを見ながら、深幸はぼんやりと考える。
さっきまでは、このまま帰るかどうかでふたりの間でも意見が割れていたようだった。確かに真魚としては、自分が幼馴染を危険な場所に引き留める理由になってしまうのは嫌だろう。
だが。ふたりは今も言葉や身振りで何やら言い合いを続けている。そこにはさっきの決意や後ろめたさなんて微塵も感じられなくて、きっとこれがふたりの日常なんだろうな、と深幸は目を細めた。
彼女の懐では、黒猫が安心したように眠っている。その体温が、今はひときわ柔らかい。
それはそれとして、彼女は咳払いをひとつ。
「で。泣き女だっけ?」
深幸は前を歩きながら訊ねた。新はその後ろをついて行きながら、はいと返事をする。隣では、深雪には見えないが真魚もこくりと頷いている。
「俺と同じくらいの年齢で、どこかの制服を着てて。あ、肩くらいの長さの黒髪でした」
泣き女の噂。それが真魚と新の出会った少女のことかはわからないが、おそらくは同じと見て良いだろう。仮に違ったとして、まるでふたりの身に何が起こるかを知っているかのような口振りは、到底無関係とは思えない。
ならば、新と同じようにこの路地裏で人を探す深幸は、彼女と会っているかも知れない。とにかく、今は少しでも情報が必要だ。
深幸は思い返す。それは、いったいどれくらい前のことだったか。ただ深幸が掘り起こした記憶の中にあるのは、ひとりの少女の姿。
「……病室」
瞬間、彼女は足を止める。
目の前にあるのは、あの時新の行く手を阻んでいたコンクリートの壁。ただ、新ではどうすることも出来なかったそれには、大穴が空けられている。今そこに残されているのは、暴力的な破壊の後だけ。
新が覚えているのは、テスカトリポカによってこのコンクリートの壁に追い詰められたところまでだ。果たして、そこからどうやって自分が生き延びたのか、彼には皆目見当もつかない。
ならば、彼女はいったいどうやって自分を見付けたのだろう。そんな新の疑念を他所に、深幸は壊れたその穴を通り抜ける。
そこは、惨憺たる有様だった。
果たして、どれだけの力をぶつければこうなるのだろう。コンクリート製の地面や壁は大きく砕かれ、酷く陥没している。
どころか、彼らの立つ場所から数階ほどの高さの場所にすら、破壊の爪跡が残されていた。いくつも、いくつも。 だが深幸は、目前に広がるその惨状を特に気に留める様子もない。何故なら、先ほど彼女が足を止めたのは、その光景が理由ではなかったからだ。
「確か、私が病室に入った時、あの子の頭を撫でてたっけ」
彼女はゆっくりと、少しずつ記憶を手繰り寄せていく。眠る黒猫を撫でながら語る深幸の声色は、あまりに優しく穏やかな響きをしていて、まるで思い出を懐かしむように。
だが。
「あなたがしてあげることは、この子を苦しめるだけなのにね。なんて言って」
がつり、と、深幸の足が瓦礫を蹴り飛ばす。それは思いの外大きな音を立て、すやすやと眠っていた黒猫はハッと目を覚ました。
きっと驚いてしまったのだろう。その目をまんまるく見開いて、キョロキョロと辺りを見回している。
「起こしちゃったね、ごめんね」
深幸は、まだ少し落ち着かない様子の黒猫へ、頬を寄せながら語り掛ける。その声音も抱き締める強さも、どれだけ愛しいのかが伝わってくるよう。
だが、当の黒猫は窮屈そうに身を捩って、深幸の腕からすり抜けてしまう。彼女が「あっ」と声を漏らした時には、猫は既に新と真魚の足元に座っていた。
新が恐る恐る触れようとするのを横目に、さも当然の如く真魚が抱き上げてしまう。彼女の腕の中で安心したように鳴く黒猫を見て、深幸と新はなんだか負けたような気がした。
それはそれとして。
薄汚れた建物の外壁と、ゴミ捨て場。そして、背丈を越える高さのあるフェンス。どれも見ているだけでうんざりするようなその景色を、新は覚えている。
「ここだ……」
ここそこ、テスカトリポカとラーが戦っていた場所であり、そして泣き女だろう少女が現れた場所。あの時はきちんと調べることが出来なかったが、フェンスの向こう側にいる今なら、何か手掛かりを見つけることが出来るかも知れない。
そう信じてここまで来たが。
「あの時、帰れと言ったんだがな」
その声を、新は知っていた。




