黒猫 1
たとえば次に目を開いた時、そこに支倉真魚がいてくれたら。顔を覗き込みながら頬を抓ったりして、いつもみたいに起こしに来てくれたら、なんて。
彼女が消えたその日から、新はずっとそんなことを思っていた。
今、覚えていることと言えば、この薄暗い路地裏で、テスカトリポカから逃げ回っていたこと。逃げ場をなくしたその時に、強い光が振り注いだことくらい。
言ってしまえば、いったい何が起こったのか、彼には何もわからない。
ただ小さな違和感が、冷たい路地裏の壁にもたれ掛かる彼の頬に触れた。わずかに鬱陶しい程度の刺激に晒されたことが引き金になって、曖昧だった彼の意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。
そうしてひどく重たい瞼を開くと、ぼやけていた視界が徐々にはっきりしていって、焦点が定まっていく。そこに見えたのはコンクリートの殺風景な風景と、彼にとってはもう見慣れた、だけど今は懐かしいとすら思える幼馴染の顔。
いっそ、心臓が止まってしまうんじゃないか。そう思うほどの勢いで、今度こそはっきりと新は目を覚ました。
目の前の彼女はその様子に驚いたように目を丸くして、それから彼に微笑んだ。普段はそんな穏やかな表情なんてほとんどすることはなかったが、それでも彼がその顔を見間違えるなんてこと、あるはずがない。
「ッ、真魚?!」
その名を呼びながら、新はようやく見付けた幼馴染、支倉真魚を強く抱き締めた。
「お前、どこ行ってたんだよ! 突然帰らなくなったから、みんな本当に心配してたんだぞ……!」
三日間の思いの丈が、ぼろぼろと溢れ出していく。言葉ならそれこそ止め処ないのに、いざ声になるには喉につっかえてしまう。だから声にならない想いの分だけ、それは彼女を抱き締める強さへと変わっていった。ぎゅぅっと強く、苦しいくらいに。そしてそれは、真魚だって同じ。
ふたりは陰の差す冷たい裏路地で、ようやくふたりの再会は叶った。
そうして抱きしめ合ってしばらく、しかし新は、ふと小さな違和感を覚えた。背中に回していた腕をゆっくり解いて、彼女の瞳を真っ直ぐに見詰め、問う。
「お前、何で喋らないんだ?」
その時、ほんの一瞬だけ真魚の瞳が見開かれたように見えた。だがその視線は所在なさげに揺れ始め、申し訳なさそうに目を逸らす。 しばらく流れた沈黙の後、彼女は静かに目を閉じる。そうして自分の喉を指差すと、それから両手の人差し指で小さなばってんを作った。
そんな仕草の意味するところなど、そう多くはないだろう。新はいったいなんて答えればいいのか、返す言葉が見つからなくて、名前のわからない気持ちは声にすらならない。
「それじゃあもしかして、今まで家に帰らなかったのって」
その問い掛けに、こくんと真魚は頷いた。彼と目を合わせられない理由は、彼女が帰れない理由と、きっと同じなのだろう。
その答えを聞いて息がつかえそうになりながら、だけど彼には、思い当たることがひとつだけあった。それは真魚がメモ帳に残していた、素性の知れない不穏な噂。
「……泣き女」
その言葉に、彼女の肩が小さく跳ねた。やっぱりだ、そう思う彼の脳裏に浮かんでいたのは、あのメモ帳で読んだ呪いか予言のような言葉だった。
かわいそう。だってさ、もう誰かに歌を聴いてもらうことも、幼馴染の名前を呼ぶことも出来ないんでしょ。そんなのってさ、かわいそうだよ。
メモ帳に記された走り書きの内容は、まるで今の真魚の状況そのものと言える。そんな言葉が書き記されていたということは、きっと彼女もまた、既に泣き女と出会っていたのだろう。
思えば、新にだって覚えがある。おそらくは泣き女だろう少女と、彼女に告げられた言葉。あの怪物に襲われたのは、丁度その直後だった。
ならきっと、あの少女は何かの答えに繋がっているかもしれない。新が優しく真魚の肩に手を置いた、その時だった。
「あ、目が覚めたんだ?」
不意に女性の声がした。いったいいつの話だったか、どこか聞いた覚えがある声だ。
そうして建物の影から現れた彼女の姿は、見たところ新たちよりいくらか上という程度だろうか。看護服の上に深緑のカーディガンを羽織って、両手では真っ黒な猫を抱えている。新の、知らない顔だ。
そんな彼女は何食わぬ顔でふたりの近くまで歩いてくると、その辺りにあった室外機へと腰を降ろした。見知らぬ人物の登場で、怪訝そうな顔をする新へと向かって、彼女は問い掛ける。
「どう、怪我とかはない?」
問われた新は、色々訊ねたいことこそあったものの、とりあえず言われた通り酷使してきた自分の身体を確かめてみる。
上にも下にも、痛みはない。テスカトリポカに掴まれた足首をちらりと見てみても、やはり痛みのひとつも感じられず、どころか傷や痣すら影も形もない。
「……大丈夫です」
答えながら、新は真魚の方を見る。視線を向けられた彼女はその意図に気付いたらしく、彼を安心させるように頷いた。その反応を見るに、どうやら真魚と目の前の見知らぬ彼女とは、既に知り合いであるらしい。となると。
「もしかして、この人が助けてくれたのか?」
新の問い掛けに、真魚はもう一度首を縦に振る。だから彼はなるほどと納得がいったようで、まだ名前も知らない彼女へと頭を下げた。
「あの、ありがとうございます」
彼女はにこりと笑顔を返し、何でもないようにひらひらと手を振った。
「そういえば、自己紹介しないとだよね。私は鹿角深幸、この子を追っ掛けてたら、君を見つけたんだ」
そう言って、深幸と名乗った彼女が持ち上げたのは、一匹の黒猫。どうやら初めて見るだろう新に興味があるのか、その目は大人しく彼を見つめている。
「そうそう、君の荷物はその子が持ってるから」
彼が真魚の方を見ると、その手元には言われた通り彼の鞄が握られている。彼が逃げ回りながらも、決して離そうとしなかった鞄だ。正しくは、彼が失くすまいとしていたのはその中身だが。
そう、中身だ。新は真魚から鞄を受け取るとそれを開いて、中からメモ帳を取り出した。「これ、落としてったろ」
真魚は目を丸くして、驚いた表情。その様子を見るに、ずっと探していたのだろう。そして彼女が大袈裟に拝むように感謝を示すと、彼はあからさまに面倒そうに顔をしかめた。きっと、いつもこんな感じなのだろう。
そんなふたりの様子を微笑ましそうに眺めていた見知らぬ彼女は、それから口を開いた。
「それで、君は?」
彼が呆けたように猫を眺めたままだったからだろうか、付け加えるように深幸は訊ねた。彼女の言葉に重ねるように真魚も顎で催促して、新としては少し気まずい。知り合いの目の前で自己紹介をするときの、何とも言い難い座りの悪さを振り払うように、彼はまず咳払いをした。
「俺は猿渡新って言います。こいつとは、まぁ幼馴染で」
そう言いながら件の幼馴染へと目をやると、彼女もこくこくと頷いて深幸に肯定の意志を伝えている。今、初対面のふたりを仲介出来る唯一の少女は、声を出せないながらもその役割に努めてくれているらしい。
「そっか。じゃあ、新くんはその子を探しに来たんだ?」
新は頷く。そもそも、彼がこんなところまで足を踏み入れる理由なんて、彼女をおいて他にあるはずもない。だがあまりにも迷いなく肯定されたものだから、真魚は足元へと視線を逸らした。少しの気恥ずかしさと、どうしようもない後ろめたさのせいで。
真魚のその様子には気付かないまま、ふたりは話を続ける。
「それじゃあ、早く帰らないとだ。探してた人はもう見つかったんだし」
「はい。俺も、こいつの家族もすっごい心配してたんで」
新のその言葉を聞いて、深幸は優しく微笑む。たったひとりぼっちでこの裏路地に迷い込んで来た喋れない少女には、どうやらちゃんと帰りを待ってくれている人たちがいるらしい。それがわかって、深幸は少しほっとしたのだ。
ただ、それを隣で聞かされた真魚は、自分を追ってここまで来た幼馴染の服の裾を握り締めて、必死に首を横に振っている。彼女の不安げな瞳が語るのは、まだ帰れない、という気持ち。なにせ、帰りを待ってくれる人たちの前で、声を出せなくなった自分はどんな顔をすればいいのだろう。その答えがわかっていたら、彼女は今、こんなところにはいない。
もしも今、声が出せたなら、説得する言葉のひとつもあっただろうに。
だけど新にとって、彼女の気持ちは声に出さなくてもわかる。彼は弱々しく縮まる真魚の両肩に、ゆっくりと手を置いた。少しだけ沈黙をしながら、それでもふたりの視線は真っ直ぐに交わる。じっと目を逸らさずに、新は言う。
「大丈夫だよ。みんな真魚の帰りを待ってる。だから、一緒に帰ろう」
彼女は首を横に振って訴えかける。彼の語るその理由が、だからこそ、真魚にとっては帰れないという真逆の答えを出す理由になるのだと。
そう躊躇うばかりの真魚の姿を、さすがにもう見かねたのだろう。静かにふたりのことを見守っていた深幸は、話を進めるように口を開いた。
「それじゃあ、私が外まで案内するよ」




