迷子 4
身体中が痛む。小さな呻き声を上げながら、冷たい地面の上に新は倒れていた。まるで、焦げた煙の中に沈んでいるみたいに。
顔を上げた先には、黒と金、対峙するふたりの怪物の姿。更に奥には背丈を越すほどのフェンスが立ちはだかり、彼が奥へと進むことを拒んでいる。
他に進めそうな道が無い中、どうにかしてあの向こう側へと進まなければならないこと。それが彼にとって唯一の問題だった。
すぅ、と新は息を整える。進むべき道はひとつだけ、だがその為にはいくつか障害がある。
まず、睨み合う化け物たちの真横を通り抜けなければならないこと。
テスカトリポカは新を追っていたが、ラーはどうにもテスカトリポカそのものを追っているように見える。新が今こうして生き延びているのも、単に状況の膠着があってこそ。一旦何かのバランスが崩れたならば、その先どうなるか彼にはわからない。
次の問題は、そんな状態で金網を越えなければならないこと。
どれだけスムーズに走っていけたとして、その瞬間は必ず無防備を晒すことになる。真後ろにいるテスカトリポカに捕まってしまえば、今度こそおしまいだろう。
そしてそもそもの話、酷く痛む足でどこまでやれるのか。先ほど足首を掴まれた時、あの手にはいったいどれだけの力が込められていた事だろう。今も彼の右足は痛みの輪郭すら掴めないまま、まるで焼けるような感覚が続くばかり。
覚悟を決め、新は強く歯を食いしばる。
今はこの場さえなんとか出来ればそれでいい。ラーがテスカトリポカの足止めをしている内に可能な限り遠くまで逃げ、どこか見つからなそうな場所に身を隠す。足の痛みに悶え苦しむのはそれからでも出来ることだ。
今、怪物たちは睨み合い、互いに動きを止めている。次に状況が動き出した時、そこに通り抜けられるような隙がある保証はない。
チャンスは一度、今この瞬間。
ここだ。新は這いずるように立ち上がり、倒れるように足を踏み出した。地に足が着いた途端、彼の右足には分かり切っていた通りに激痛が走り、崩れ落ちるように力が抜けていく。
それでもここで倒れる訳にはいかない。倒れ伏す勢いで少しでも身体を前に進めて、両手で身体を受け止める。そしてまだ動く方の足で地面を蹴って、必死に体勢を立て直す。
苦悶の声を漏らしながら、しかし今度は倒れない。その実ただ痛みに耐えながら勢い任せに無理を押しているだけだとしても、彼は確かに走り始めた。
そしてラーを越える。その怪物は彼を横目に見付けると、まるで信じられないものを見るように目で追った。
そのままテスカトリポカをも越える。見開かれたその瞳は、既に視線を目の前の敵から弱り切った獲物へと移していた。だがその手が伸ばされるよりも先に、もう彼は通り過ぎている。
そうして遂に、彼は跳んだ。行け、と心に強く念じながら、激痛の走る右足で地面を強く蹴り飛ばして。
ただ前へと、ただ上へと彼は手を伸ばす。フェンスを乗り越えるために、ほんの少しでも高さが得られれば良かった。しがみ付けたら、後は何とかよじ登ればそれでいいと。
だが、現実は違う。
勢いを制御し切れなかった身体は空中で仰向けにひっくり返り、新の視界に映るのは逆さまになった景色。
見上げた地面では、テスカトリポカが彼に向かって手を伸ばしていた。その背後ではラーが羽ばたき始めるが、眼前の敵へと届くまでには一瞬の間があるだろう。テスカトリポカの手が伸び切るまでには、きっと間に合わない。
だがその光景は全て、金網の向こう側の出来事だ。
なんだ、これ。そう彼は戸惑った。金網にぶつかるならまだしも、最悪そのまま崩れ落ちるかもしれないとすら思っていたのに。
苦し紛れで跳び上がったはずの彼の姿は、どういうわけか身の丈以上に高いフェンスを跳び越えていた。
だが何が起こったのかを理解する暇もなく、衝撃が彼を襲う。満足な受け身を取ることも出来ない、背中からの落下。逃げ場のない衝撃に内側から身体を叩かれ、まるで爆ぜるように息を吐き出した。
一度、二度と噎せ込んで、新は痛みに身を捩る。身悶えしながらもなんとか起き上がって、ようやく彼は自身の状況に気付いた。
越えた。そう理解した次の瞬間に彼は動き出した。
あの時投げた鞄は金網のすぐ手前に落ちている。格子の向こうではテスカトリポカがこちらに手を伸ばしているが、ラーの妨害によってそれは敵わない。
だから彼は躊躇いもなく走り出した。
真魚に渡すべきものをしまい込んだ鞄を手に取って、怪物の手は目と鼻の先。ほんの少し間違えればフェンスを突き破って、その手は彼を捕らえるだろうほどに。
だからこそ怯えてはならない。彼はぎゅっと、鞄を取り戻した手を固く握り締める。何一つ取り落とすことなく、怪物がこちらに届いてしまうよりも先に、この場を離れなければならないのだから。
そうしてどこへ続くともしれない道の方、路地裏のもっと奥の方へと駆けていく。
あれからどれくらい経っただろう。激しく息を切らしながら、新は走っていた。
一度も足を踏み入れたことのない路地裏の中を、果たして自分がどこに向かっているかも、ロクにわからないまま。一向に変わらない景色の中、ただ道の続いている方へとがむしゃらに進み続けながら。
それでも鞄は取り返した。しまっていたメモ帳もちゃんと入っている。足元にはまだ焦げ臭い煙が沈殿しているが、あの怪物が足止めされているならば直に逃げ切ることが出来るだろう。
ただ、踏み出した勢いのまま身体を前に投げやりながら、新は思った。
痛くない。あれだけ傷付いて、その上無茶を重ねに重ねているはずの足首が。むしろ痛みに耐えるどころか、身体が軽くなったようにすら思える、嘘のような違和感。
だが、好都合だ。彼にとっては動けるのならば今はそれで構わない。大方、極限状態で痛覚が麻痺しているんだろうと、とりあえず彼はそう解釈した。
だとしたら、こうやって思い切り走っていられるのも今だけだ。限界が来る前に出来るだけ遠いところまで逃げて、どこか身を隠せる場所を見つけなければならない。
新はとりあえず視界に映った手近な扉、何かの建物の裏口だろうそれに手を掛ける。それはガチャガチャと騒々しい音を立てながら、しかしちっとも開く気配がない。
それなら今度はもう少し進んだ先の別のドア、それも駄目なら窓だって良い。彼はなんでも良いから手当たり次第に開こうとしてみて、だが行く先の尽くで失敗に終わる。
「……クソッ!」
早く逃げ切ってしまいたいのに、まだ足元の煙が晴れる様子はない。失敗を重ねれば重ねるほど、怪物に追い付かれるのではないかという不安の方が、先に彼に追いすがるようにすら思えた。
やがて。
荒い息を吐きながら、新は立ち尽くしていた。目の前にあるのは、何か但し書きもいらないようなただシンプルなコンクリートの壁。今度はよじ登ろうにも手が届くようには到底見えず、引き返したところで何になるとも思えないような袋小路。
こんな状況で、果たして次はどうすればいい。彼はそびえる壁にもたれ掛かり、暴れる息を整えながら考え始める。
だが、開かない扉、鍵の締まった窓、さっきまで走っていた道。行き止まりを背に振り返って見えるものなど、先ほどとそうは変わらない。
四方のどこを見渡しても、状況を打開出来そうなものが見当たらない。そんな焦燥感と閉塞感に、新は頭を抱える他ない。
壁に背を預けたまま、彼はずるずるとへたり込む。相変わらず足の痛みこそ感じられないものの、長らく緊張状態が続いていたのだ。ただ立っているだけのことすらも、今はどうしようもなく難しい。
だから、たとえば張り詰めていた糸が切れたように、新はしゃがみ込んだ。相変わらず足に痛みこそ感じないものの、ただ単純に力が入らないという感覚。とうとう限界が来たのかと、どこか他人事のように彼は思った。
重たい頭で俯けば、眼下には未だ黒煙が立ち込めている。まるで波のように濃淡を変えていくその光景を眺めながら、やがて彼はあることに気付いた。
向こう側から流れてくるそれは滾々と寄せて、寄せて、だが一向に退くことがない。だとするならば、きっとあの化け物はもう近くにまで来ているのだろう。なにせこの焦げた煙は、テスカトリポカから流れ出るものだったから。
それで、一体どこに逃げればいいのか。いまだ何が出来るわけでもない新は、座り込んだまま寄せる煙が流れてくる先を目で追っていく。そうしたところで結局は、一本道でしかなかった路地裏を辿り直すだけだろうに。そう思いながら視線が辿り着いた先は、しかし彼が通ってきた道とは違っていた。
窓だ。新が逃げ惑っていたあの時、鍵が掛かっていて空かなかったあの小窓。閉まり切ったその窓ガラスの表面から、噴き出るように黒い煙が湧き出していた。
新は後退りをしようとして、しかし高い壁に阻まれる。
次にその窓から溢れ出してきたのは、腕だ。それは同じく噴き出続ける煙に紛れて、だが次第に強くはっきりとした輪郭を結んでいく。
そうやって蠢き出した形は、張り裂けんばかりに盛り上がった、黒く筋肉質な右腕。それは窮屈そうにうねりながら、小さな窓から這い出ようともがいている。捻りよじりを繰り返したその果てに聴こえたのは、重く乾いたものが落ちる、そんな音。
ガラス窓から零れたそれは、滅茶苦茶な体勢で地面へと落ちる。まるで乱暴に放り捨てられたようなそれは、大きく見開かれた眼で新の姿を認めると、ゆっくりと確かな動作で立ち上がった。
その怪物の名前を、新は既に知っている。
テスカトリポカ。ラーによって足止めを食らっていたはずのそれが、確かに今、ガラスの中から這い出てきたのだ。
新は、最悪を覚悟する。壁を背に追い詰められた彼には、文字通りもう後がない。
今思い付く限りの唯一の道は、しっかりと獲物に視線を定めた怪物の真横を、どうにかして通り抜けることだけ。先ほどフェンスを飛び越えた時と同じ方法だが、今はあの時とは状況が違う。足止めなしでどこまでやれるかは、より分の悪い賭けになる。
迷っている間にも、化け物はゆっくりと新へと近付いてくる。一歩一歩、速いとは言えない歩みは、しかし確実に彼を追い詰めている。
だが、結局は時間の問題ならば、最初から選択肢はひとつしかない。
新は立ち上がり、いつでも走り出せるように姿勢を落とした。絶対に逃げ切ってやる、真正面から。そう心に強く刻み、静かな呼吸でタイミングを測って、見詰める先はあの怪物の姿。
そして、いざ地面を蹴って走り出そうとした、その時。
「そこ、動かないでね」
知らない声が新の足を縫い留めた。その直後、彼の目の前には眩いばかりの光がガラスの砕けるような音と共に降り注いで、そして。
次回 黒猫 数日中に更新するつもりです




