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Alice-Mana's Nursery  作者: 遠藤ほうり
第1話 迷子

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3/9

迷子 3

 怪物だ。

 そんなものが狭い路地の中心に立ち、じっと新を見つめていた。

 やがて、一歩を踏み出す。新ではなく、得体の知れないそれが。ざり、とその足音が聞こえた瞬間に彼は直観した。

 こいつだ。この黒い煙も、目の前に横たわる死体も。全てはこいつがやったことなのだと。

「テス、カ、トリポカ……?」

 何故、どうして、そんな言葉が頭に浮かんできたのだろう。わからないけど、無意識に彼はそう呟いていた。だが、それがこちらを見詰める化け物の名前だということだけはわかる。

 やがて、一歩を踏み出す。だが踏み出したのは新ではなく、得体の知れないそれの方。もう一度その足音が聞こえた瞬間に、ようやく彼は我に返った。

 逃げなければ。あれは確実に自分を狙っていて、もしも捕まってしまったなら、その結末は既に知っての通り。だからとにかく、ほんの少しでも早くあれから離れなくてはならない。

 足元の黒煙を蹴り上げて、彼は走り出した。

 どこか、どこかに逃げ込めそうな場所はないか。そう願いながら右手にあるのは外壁とどうにも人など通りようもない小窓くらいで、裏口のようなものは見当たらない。左を向いてみたって何も変わらず、内心で悪態を吐く彼に残された道は、ただ真っ直ぐに走り続けることだけ。

 だが、そもそもが袋小路だったのだ。そういくらも走らない内に、彼の身体はガシャンと音を立ててフェンスに阻まれる。少し前、すすり泣く少女の下へ駆け寄ろうとした時と同じように、手を伸ばしても届かないほどの高さのそれによって。

 右も左も壁に覆われて、唯一の道はフェンスに向かう彼の後ろ側だけ。振り返ればあの化け物、テスカトリポカが黒煙の中近付いてきているのが見える。その歩みは急ぐような素振りもなく悠然としているが、それでもあと数十秒もしない内にその手は新に届くだろう。

 時間がない。

「クソッ!」

 彼はとっさに鞄を大きく振り、思い切り金網の向こうへと放り投げた。

 力任せに飛ばしたそれが急な放物線を描いて仕切りを越えると同時に、新の靴が地面を蹴る。そうして飛び上がった彼は網の目になんとかしがみついた。

 当然フェンスには足を掛けるような隙間はない。彼は何度も足を滑らせ、網目を指に食い込ませながら、必死に身体を持ち上げる。ガシャガシャと音を立てる必死なその様は、文字通りの足掻きと言う他ないだろう。

 だがその足掻きも、決して無駄ではなかったらしい。何度か落ちてしまいそうになりながらも、やがて彼の手がフェンスの端を強く掴んだ。今までずっと手元しか見えていなかった視線が、初めてその向こう側に向いた。

 後、少し。

 だが、手が届いたのは彼ではない。

 あの黒い怪物が伸ばした手が、フェンスにしがみつく新の足首を掴んだのだ。それは化け物じみた見た目に違わない異様なほどの力で、骨ごと握り潰されたかのような激痛が走る。

「ぐっ……!」

 短い呻き声を漏らしながらも、新は必死に耐えようとした。なんとかして、足首を掴むこの手から逃れなければならない。そうでなければ、生きて帰ることも、何より真魚を探すことすら出来ないのに。

 それでも抵抗は虚しく、あからさま人間離れした怪物の膂力と、それによってもたらされる激痛には抗い切れるはずもない。

 必死にフェンスの端を掴んでいたはずの新の掌も力を失って、もはや限界。握りしめた指先が緩んだ瞬間を待っていたかのように怪物はそのまま彼を引きずり降ろし、後方へとその身体を放り捨てた。

 勢いのまま叩き付けられ、彼は無様に地面を転がっていく。あれだけしがみついていたフェンスは、ほんの数瞬の間に手も届かない遠くへと離れてしまった。

 歩いてしまえば十歩もあるかどうかの距離でしかない。ただ、あれに握り潰された足を動かすことは叶わない。荷物を詰めた鞄も既に金網の向こう側に放り投げてしまって、もう届くこともないだろう。

 あの中には、真魚の落としていったメモ帳がある。それに真魚に渡せていないままだろう音源だって。

 それでも遠く伸ばした手の直ぐ側に、ざり、と足音を立て真っ黒なそれが立ち止まる。顔を上げて見た視線の先には、こちらを見下ろすテスカトリポカの姿。その瞳は正気などまるで持ち合わせていないように見開かれたまま、ただじっと新へと静かな視線を注いでいる。

 新は思う。ああ、これで終わりなのかと。だが、次に聞こえたのは舌打ちと、心底面倒そうな男の声だった。

「邪魔だ」

 そして新の視界に飛び込んできたのはこの薄暗く、真っ黒な煙に沈んだ裏路地に似つかわしくないほどの、黄金。人の形をしたそれは、現れると同時にテスカトリポカを蹴り飛ばした。

 鈍い打撃音と、微かに金属の軋む音。

 揺らぐことなど到底無いように見えたはずの黒い体躯が、よろめいた。そしてそれはひとつふたつと後退りをし、ほんのわずかに背後にあったフェンスへと触れたのだ。

 倒れ伏した新と、黒い怪物のその間。煙に満ちた路地裏を照らすように、黄金の鎧を纏ったそれは舞い降りた。

 新は目を見開く。その目に映っているのはテスカトリポカと同じだろう、新たな怪物。隼の首と冠を模した仮面と、その背に負った太陽のような円環をした翼。加え四肢と胴体を覆う鎧の全てが、焦熱にも似た黄金の輝きを放っている。

 一体どうした事だろう。あの黒いテスカトリポカに続いて、目の前に立つ黄金の怪物もまた知る由もなかったはずなのに。今の新にはそれを呼ぶべき名前が手に取るようにわかってしまう。

「……ラー」

 太陽の如き名前で呼ばれたそれに、新の呟きはどうやら聞こえていなかったらしい。彼は猛禽さながらの怜悧な眼が新を値踏みするように見下ろして、あからさま倦み果てた大袈裟な溜息を吐いた。

 ラーは這い蹲ったままの新の胸倉を掴む。その振る舞いに怪我人を気遣うような素振りは欠片もなく、小石でも拾い上げるようにその身体ごと持ち上げた。

 太陽の色をした瞳が、真正面から新を睨み付ける。そしてまるで敵意にも似た声色で冷たく吐き捨てた。

「とっとと帰れ」

 対する新の返事など待たず、そもそも微塵も興味などなく、そのまま彼の身体を遠くへと放り捨てる。そして彼がまた地面に転がったどうかを確かめるまでもなく、瞬間、その黄金は飛んだ。

 あるいはその様を表すのならば、飛翔でも跳躍でもなく、ただ前方への落下。刃を重力に任せ落としたような鋭利さで以て、ラーは真っ直ぐに伸ばした右脚をテスカトリポカへと突き立てる。

 めり、と聞こえたのは、硬く柔らかな物がひしゃげる鈍く湿った音。彼の蹴撃は黒い怪物を捉え、傷付けることすら敵わないと見えたその剛強な身体へと確かに踵をめり込ませていた。

 だが、それだけだ。テスカトリポカへと衝撃を与えこそすれ、やはり正面からでは致命にはなりえない。どころか我が身でもって彼の右脚を受け止めたその怪物は、獰猛な獣が獲物へとするようにラーを捕らえようと手を伸ばす。

 と、彼は予見していた。

 真っ黒な指先は、しかし黄金の鎧を掠めるだけに終わる。彼がその手に触れられる直前に、テスカトリポカの腹部に突き刺していた右足を引き戻していたからだ。そしてその勢いを全身の回転と共に左足へと乗せ、怪物の顔面へと追撃を食らわせる。

 鈍い音と衝撃が、路地裏に響いた。

 しかしそれだけではラーを追う両手を止めるには届かない。一度空を切ったそれは二度三度、あるいは藻掻くよう執拗に、テスカトリポカは目の前の敵へと繰り返し手を伸ばした。

 指先がラーへと迫る。仮にそれに掴まれたならば、その先はわざわざ想像するまでもないだろう。脚でも腕でも翼でも、たった一度そのどこかを捕らえられてしまえば、それだけで致命的だと分かり切っていたから。

 ラーは円環状の翼で以て自身の身体を空中へと縫い留めると、迫り来る腕を蹴り払う。その勢いでテスカトリポカが体勢を崩した瞬間を狙って、真っ直ぐに重たい蹴りを食らわせた。

 その一撃に黒は再びよろめき、黄金は距離を取る。攻防はほんの短い間の出来事ではあったが、些細な切っ掛けで均衡は一気に崩れていただろう。

 一呼吸をおいて、ふたりの怪物の間には静かな膠着が訪れた。

 テスカトリポカの動きは単調、ただ目についたものを無条件に掴もうとする姿は、いっそ赤子とでも評して差し支えない。ならばラーにとっては、余程自身が気を抜いたりしていない限りは、決してその手に捕まえられることなど在り得はしないだろう。

 だが、ラーは極めて不機嫌そうに舌打ちをする。問題となるのはそこから先のことだからだ。

 彼の数度の打撃を以て尚テスカトリポカには傷ひとつ付けられず、精々が体勢を崩す程度で関の山。見るからに頑丈そうだと理解こそしていたが、いざ実際に対峙し、削り切ることを考えれば頭が痛くなってくる。

 彼は右手で額を押さえ、ひどく重たい溜息を吐いた。

「いい加減、面倒だ」

 そう呟いたことを、ひとつの契機としたのだろう。視線をテスカトリポカへと戻すと同時、彼の黄金の翼が輝き始める。暗雲のように沈む煙を見下ろすその眩さを喩えるとするならば、紛う事なき太陽の色。円環を象った翼の中で、煌々とした焦熱が反射と収斂とを際限なく織り重ねていく。

 触れれば焼き切れてしまうだろうその夥しい光を背に、彼が目前の敵へと狙いを定めた、その瞬間。

 何かが、彼の隣を駆け抜けた。

 果たして何が起こったのかと視線を向けた先に見つけたのは、一人の少年の後ろ姿。

 ラーを越え、テスカトリポカを越え、彼が見据えるのは身の丈を越えるほどの金網が塞ぐその先にあるもの。

 そこには自身の放り投げた鞄と、その中にしまい込んだメモ帳がある。更にその奥へと進めばきっと、いなくなった幼馴染の姿がある。

 彼は呻く。傷付いた右足が酷く痛むから。

 彼は唸る。それでも決して足を止めたくはなかったから。

 彼は吠える。ありったけの力でもって強く地面を蹴りつけて、乱暴に身体を空へと投げ捨てるように。

 そうして、猿渡新は跳んだ。身の丈を越えるほどフェンスに阻まれたその向こう側。まだ帰らない幼馴染を、支倉真魚を取り戻すために。

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