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Alice-Mana's Nursery  作者: 遠藤ほうり
第1話 迷子

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迷子 2

 その後悔が彼の、猿渡新(さわたりあらた)の胸の奥に深く突き刺さっていた。

 時刻はあの時と同じ午後4時くらい、あの日ふたりが別れた瞬間から今に至るまで、家族や友人への連絡は何ひとつない。そもそも彼女が家に帰らないことだって、性格を考えるとありえないことだった。

 行方知れずになった支倉真魚が、幼馴染と最後に別れた場所。もしもその幼馴染があの時すぐに追い掛けていれば、今も昨日のようにふたりでこの道を歩いていたかもしれない。だからせめて、新はそこにいた。

 彼が鞄の中から取り出したのは一冊のメモ帳。それはあの日彼女が残した唯一のもので、彼女の行方に繋がるかもしれないたったひとつの手掛かり。

 真魚が歌ってみた動画と並行して行っていたのが、オカルトや怖い話をまとめた動画の投稿。登録者獲得の手段ではあるが、それはそれとして彼女自身の趣味も兼ねたものだ。そのためのネタ帳が、つまりは今彼の手にあるそれということ。

 彼女の帰りを待つ間、何かわかることがないかと彼はその中身を検めていた。当然褒められたことではないと知っていたが、彼女に繋がる何かがそこにあるかも知れない以上、彼にはそうする他なかったのだ。

 収穫ならあった。それはここ最近裏路地が静かだという、噂話ですらない走り書き。それが真魚自身の感想なのか、それとも誰かの呟きを書き留めたのかはわからない。ただ彼女が最後にどこを向いていたのか、そのヒントになるかも知れないものが残っている。そのどれだけありがたいことか。

 そうして彼が足を踏み入れたのは、街の裏通り。多くの若者で賑わう街も、少し奥の方へと進んでいけば様相を変える。街の騒がしさと言っても種類が違うその辺りは、あまり近づこうとするものがいない場所だ。

 鉄パイプと室外機、陽の光の届かない雑居ビルの隙間。新は表情を強張らせながら深呼吸をする。そもそも普段は近付かないような場所なのだ。まずもって、幼馴染がいなくなったかも知れない場所なのだから、猶更。 だが、しかし。新は少し辺りを見回してみる。彼の印象では少し路地の奥に入れば、誰かしらそれらしい人がいるものと思っていたが。

「本当に静かだな……」

 大通りの賑わいが嘘のように静まり返る路地裏も、果たしてこれが平常通りなのか、その普段を知らない彼に判別がつくはずもない。慣れないことをしているな、と自分でもわかってながらも奥へ奥へと新は進んでいく。

 そうして帰り道を見失わないように、どれだけ歩いたことだろう。相変わらず建物の隙間としか言いようがない路地裏は、一層暗く静かになっていく。

「あいつ、本当にこんなところに来たのか……?」

 怪訝な呟きが漏れ出した頃、どこからか、すんすんと啜り泣くような声が聞こえてくる。だけどそれはあまりに微かで、何かを聞き間違えたんだと言われたらそれで納得してしまうだろう。

 もしそうではなかったら。 路地裏の更に奥へと新は進んでいく。今自分が気のせいだと身を逸らしたものが、本当に誰かの泣き声だったら、そんな考えが彼の頭を過ってしまう。

 だってこんな誰の目も届かないような場所なのだ。誰かが啜り泣いているとして、そこには泣かなくてはならない理由があり、それは決して近付くべきではない理由でもある。 だけどその泣き声が、支倉真魚だとしたら。

 やがて、室外機と排水管、ゴミ溜めばかりの狭い路地の裏側にそれはいた。新にとっては見たこともない知らない女が、地べたに座り込んで啜り泣いている。

 傍目に見ると、少女だろうか。年の頃は新や真魚とそう変わらないように見えて、着ているのは彼らのものとはまた違う制服。彼女の肩口で切られた真っ黒な髪から受ける印象で言えば、到底こんな薄暗い場所とは無縁そうなのに。

 だからこそ、どう考えたって良くないことに違いはない。

「あの、大丈夫ですか?」

 新は恐る恐る声を掛ける。だが、その言葉は果たして届いているのだろうか。彼女は両手で顔を覆ったままさめざめと涙を流すばかりで、新が話しかけていることにもどうやら気付いていないらしい。ただぼそぼそと、うわ言のように何かを繰り返している。

 だとして、彼女はいったい、何をそこまで嘆いているのか。怪訝に思った新が静かに耳を澄ませると、それは聞こえてきた。

「かわいそう」

 そのありふれた一言は、しかしどこか聞き覚えがある。正しくは、見た覚えがある。

「やっとやりたいことが見つかったのにさ。それを教えてくれた人は、もう夢を叶えられないんだもん。そんなの、かわいそうだよ」

 それを聞いた瞬間、新は頭が真っ白になったような気がした。目の前の少女が語った内容が、どういうわけか彼の胸の内その最奥を逆撫でしたからだ。

 堰を切ったように、新は叫ぶ。

「真魚のこと、何か知ってるのか!」

 悲鳴のようなその言葉と同時、ガシャンと大きな音を立てて金網が揺れた。それは、目の前の少女へと伸ばされた新の両手が、空しくもフェンスに阻まれた音。もしもそれが無かったならば、彼の手は力の加減すら忘れたまま少女へと掴みかかっていただろう。それほどまでに今の彼には余裕がなかった。

 だが彼が声を荒げた時にはもう遅い。その向こう側は最初から誰もいなかったように、ただ息の詰まりそうな閉じた風景が広がっているだけ。

 今のは見間違い、あるいは聞き間違いだろうか。そう彼は胸の内で自問して、いいやそんなことはありえないと強く首を横に振った。何せ、あれは支倉真魚に繋がる手掛かりだったかもしれないのだから。

 指先が痛む。無意識に力の入っていた指先が強く金網に食い込んでいたことに気付いて、ようやく彼は脱力する。それも、その場に座り込んでしまうまでに。 うなだれながら見やったフェンスの向こう側には、薄汚れた建物の外壁と、ゴミ捨て場。どれも見ているだけでうんざりするようなものばかりだった。

「なんだよ、結局手掛かりなしか」

 深く、重い溜息をつく。彼が大通りを離れてあまり時間は経っていないはずだが、ずっと気を張っていたせいだろう。一気に押し寄せて来た徒労感に苛まれながら、新の頭の中にはさっきの言葉ばかりがぐるぐると回り続けている。

 フェンスの前、彼は座り込んだまま鞄を漁る。そうして取り出したのは、真魚の残したあの一冊のメモ帳。ぺらりとページを捲りながら、彼はその中にただ一つの言葉を探していた。

 そして、手が止まる。

 見つけたのだ。彼女の残したメモ帳の中にある一つの言葉を。

「……かわいそう」

 新はその筆跡を指でなぞりながら、呟く。

 かわいそう。だってさ、もう誰かに歌を聴いてもらうことも、幼馴染の名前を呼ぶことも出来ないんでしょ。そんなのってさ、かわいそうだよ。

 あの時は意識していなかったが、真魚の筆跡は心なしか震えているように思えた。あるいは、彼が自分の心情を投影してしまっているだけなのだろうか。

 ただひとつだけ、確かだと思えることはある。

 彼はペンを取り出す。そうしてメモ帳のまだ何も書かれていないページへと向き直り、筆を走らせた。彼が書き記しているのは、さっきあの少女が呟いていた憐れみの言葉。

 かわいそう。そんなありふれた言葉から始まるあの少女の独白と、真魚の書き残したそれを無関係と思うことなど、到底出来はしない。本当にそれが手掛かりであるという確証がなかったとして、そもそも他に選べる選択肢などありはしないのだから。

 そうしてノートを閉じた時、彼はそれに気が付いた。

 煤けた匂いと黒く霞んだ視界。まるで何かが焼け焦げたような黒煙が、狭い路地裏に沈殿していたことに。

 立ち上がる。咄嗟に出たその行動は、恐らく無意識に黒煙から距離をとろうとしたからだろう。

 だが、新は困惑していた。これが本当に何かが燃えた煙であるなら、果たしてこんなにも重く沈むものだろうか。それにさっきまで煙の中に埋もれていたはずの自らの手やメモ帳を確かめてみても、そこには煤汚れのひとつもない。だとしたら、一体これは何だというのか。

 そんな得体の知れない黒煙が今にも充満しようとしているのだ、こんな場所からは早く離れてしまった方がいい。そうに決まっている。

 だから彼は鞄を拾い上げ、メモ帳をしまう。気持ち焦りを覚えながら彼は、もと来た道を引き返そうと歩き始めた。

どさり。

 と、新が向かう先、彼の唯一の帰り道の方で何かが倒れた。なんだろうと数メートル先にあるそれへと目を凝らしてみれば、黒い霧に煙に覆われて全体像の把握こそ難しいものの、随分と大きなもののように見える。もしもその大きさを何かと比較するとしたら、おそらくは新自身を引き合いに出すのが丁度いいくらいだろうか。

 いわば、人ひとり分。

 一度そのことに気付いてしまうと、今まではわからなかった輪郭までもがハッキリと浮かび上がって見える。あれは人間だ。背丈は新よりもいくらか高いくらいで、いかにもこの路地裏にいそうな恰好をした男だ。人間としかいいようのないそれが、ほんの少しの身じろぎもせず倒れていた。

 もしかして、死んでいるのか。目の前の状況を彼は自問するが、こうも煙に包まれていては遠目で正確な判断などつくはずもない。

 だから彼はそれに近づいていく。なにせ、いくらこんな場所とは言ったって、目の前で人が死んでいるわけがない。だから、もっとよく見てみればちゃんと息をしているはずなのだ。

 ましてや、その胸の内側を晒すような風穴が開いているなど。果たして何をどうすれば大の大人の身体をこうも貫けるだろうか、そんなことが人間にできるはずがなくて、だから目の前にあるそれはきっと何かの間違いなのだ。

 そうして近づいて行って、手の届く距離まであといくらか。ざり、という音が物陰の方から聞こえた気がした。

 聞き間違いか、それとも自分が何か物音を立ててしまったのか。だが彼は、あることに気付いた。

 そもそも、最初はこんなものはなかったはずだ。新がここに来て、今路地裏に充満する黒煙とこの死体が現れたのはその後。つまりその全てが今この場で起こったことなのだと、彼は気付いてしまった。

 ざり、と足音が聞こえる。新が視線を向けた先に、それは確かに立っていた。

 それは黒く、輪郭は人の形をしている。頭上には文様の刻まれた石造りの冠と、瞬きもせず怒りに目を剥いたような表情。真っ黒な全身を覆う筋肉は内側から張り裂けそうなほど隆々としているが、それが素肌なのか何かを纏っているのか、その質感からは図れない。肩や腰回りに身に着けたそれも、装飾品と言って良いのだろうか。その身体つきも合わせれば、まるで古い狩人か戦士のようにも思える。

 しかしその姿を正確に知ることは出来ない。何故ならば、それの身体には常に黒い煙が纏わりついていたから。より正しく言うならば、この路地裏に充満している煙は全て、それから溢れ出ていたから。

 人の形をこそしているものの、果たしてあれを生き物と呼んでしまっていいものだろうか。仮に人でも動物でもないとするならば、それにつける名前はそう多くはない。

 怪物だ。

 そんなものが狭い路地の中心に立ち、じっと新を見つめていた。

 やがて、一歩を踏み出す。新ではなく、得体の知れないそれが。ざり、とその足音が聞こえた瞬間に彼は直観した。

 こいつだ。この黒い煙も、目の前に横たわる死体も。全てはこいつがやったことなのだと。

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