表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Alice-Mana's Nursery  作者: 遠藤ほうり
第1話 迷子

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/9

歌姫 1

「なるほど、ハヌマーンか」

 目の前の怪物を、ラーはそう呼んだ。

 かつて猿渡新の姿をしていたそれは、背を曲げだらりと腕を垂らす。そして今や飢えた獣が目を剥いてするように、自らの前に立ちはだかる敵を見詰めている。それを言葉にするならば、紛うことなく、怪物と呼ぶに相応しい。

 自らを狙うハヌマーンに対しラーが次にとった行動は、ただ右手を前へと出しただけ。だがその直後、そこには目にも留まらぬ速度でハヌマーンが突き刺さった。伸ばされたその掌には怪物の喉が勢いよく食い込み、めきめきと堅いものが砕け潰れる音が鳴る。

 慣性を残したままの怪物の身体は首を支点にくの字に折れ曲がりながら、ラーによって地面へと叩きつけられた。コンクリートで固められているはずの地面に大きな窪みが出来るほど、強く。

 それまでの一瞬に、果たして何が起きたというのだろうか。

 まず、ラーを標的に定めたハヌマーンは低く身を沈め、跳んだ。強く地面を蹴り、点と点とを最短で繋ぐ直線のように、真っ直ぐに。

 だからこそ最も単純な彼の軌道は、見えないほどの勢いだとしても予測するに容易い。それこそラーからすれば避けることも、自ら迎撃をしに動く必要すらない。ただ腕一本、それだけあれば十分だと判断したのだ。

 衝撃の残響と、静寂。細かく砕けたコンクリートの破片が、パラパラと怪物たちの上に降り注ぐ。

 地面へと叩きつけられたハヌマーンは静かに沈黙して、もはやピクリとも動かない。当然だ、今の一瞬でその喉は愚か、おそらくは顎までもが砕けたことだろう。

 思いの外、あっけない幕切れに小さく嘆息し、ラーは立ち上がる。

 そして見据えるのは、今度こそ彼の本来の目的。黒猫は、いまだ立ち上がるには至らない少女を庇うように前に出て、ラーへと威嚇を見せている。

 そして真魚は、届きもしない手を伸ばしたまま、それだけ。彼女は両目に涙を溜めながら、ぽかんと放心した表情で、動かなくなったその怪物を見詰めている。それはもう、見ていられないほどに。

 きっとそのせいだ。そんな彼女へと戒めるように、ラーは静かに告げた。

「諦めろ」

 その言葉は、もはや覆らない。そう彼女は理解したのだろう、彼女はぎりりと歯を食いしばった。その表情は目の前の状況を悼んでいるのか、それとも自身の無力さを憤っているのか。

 彼女は、逸らすことなくただ真っ直ぐにラーを見詰める。そしてふたりの間で威嚇を続けていた黒猫を抱きかかえると、心の中で謝りながら遠くへと放り投げた。

 猫ならば、きっと上手く着地してくれる。何よりも、今はこの場所にいることの方が何よりも危険なのだ。彼女にとって大事なのは、少しでも自身と黒猫との間の距離を稼ぐこと。

 そうして放り投げられた猫をラーが目で追う中、真魚は少し不安げに自らの喉へと覚悟を決めたように震える唇を開こうとした。

 その時、ラーの足を何者かが掴んだ。その違和感に気付いた彼は視線を黒猫から、足元へ。

 そんな彼の振る舞いを見ていた真魚も、つられるように視線を下へと降ろす。そしてその姿を見た途端、彼女が口にしようとしていた声は喉から出ないままに消える。そして声になり損ねた声の代わりに、一筋の涙が流れた。

 ハヌマーンだ。喉を潰され、もはや動くはずのなかったそれが、ラーの足を握り潰さんばかりに強く掴んでいた。

 それに気付いたラーはすぐに振り解こうとしたが、遅い。それは亡者のように彼の身体を這い上がり、その顔を目掛けて鋭く掴みかかった。

 その指が顔に触れる寸前でなんとかラーはそれ払い除ける。そして体勢を崩しガラ空きになったハヌマーンの腹へと、彼は突き刺すような蹴りを食らわせた。その威力は凄まじく、獲物の身体はすぐさま遠く壁へと叩きつけられる。

 直後、ハヌマーンの拳が眼前に迫った。

 躱しきれない。ラーは瞬時の判断で回避を捨て、両腕を盾に紙一重でその拳を受け止める。衝撃は身体を走り、踏み止まった彼の足を後退させるほど。

 しかし、それだけだ。ハヌマーンの拳はその速さこそ厄介ではあるが、ラーの鎧を通るまでには至らない。

 ラーは逃げられないようにと拳を掴み返すと、自らの拳を敵の顔面へと叩きつける。一度、二度、ハヌマーンの身体から力が完全に失われ、今後こそ本当に動かなくなるまで。何度も、何度でも。

 だが喉元へと、突然に手が迫り刹那。反撃するにはあまりに近く、ラーは舌打ちをしながら捕らえた腕を離し、後方へと飛び距離を取った。

 ラーは確信する。目前の敵には彼を仕留めるだけの決定打はない。いくら追い縋ろうと、その拳がラーを貫くことなど到底ありえないだろう。

 だがそれはラー自身にとっても同じこと。何度殴りつけようが喉を潰そうがそれは起き上がり、今もまたこちらに狙いを定め跳び掛かる。

 キリがない。果たして、どうすれば目の前の敵を止められる。藻掻くように伸ばされる腕を何度も払い除けながら、しかしそれ以上の対処が追い付かないのが現状。

 そして、その手は再びラーを捉える。

 その直後か、あるいは同時か。彼の腕を掠めたのは、月明かりのような燐光の矢。視線を向けた先には、真魚を守るようにディアナが傍らに陣取り、ラーへと次なる矢を構えている。

 先の戦いの爪痕のせいか、彼女の指先は微かに震え、うまく標的へと狙いが定まらないらしい。加え、ハヌマーンとの応酬の隙間を縫いラーだけを狙うとなれば、猶更。

 だが、それでも厄介なことに変わりはない。仮に彼女が万全であれば、その矢は確かに標的を貫いていただろう。そう判断したラーが選んだ手段は、上空。

 彼は自らに伸ばされたハヌマーンの手を掴み返し、大きく円環の翼を広げた。次いで繰り出されたもう片方の拳をも躱すと背後へと回り込み、彼の両腕を完全に抑え込んだ。

 そしてディアナが狙いを付けるよりも先に刹那、まるで落ちるような速さで彼は飛び上がる。

 数瞬前にいた地面は既に遠く、建物すらもが遥か下。互いに掴み合ったまま飛び上がったふたりの怪物は、地平の果てまでもを埋め尽くす雑居ビルの群れを見下ろすほどの、空高くへ。

 そして限りない曇天の下、彼の黄金の翼が太陽と煌めいた。なおも追い縋ろうとするハヌマーンの腕を掴み動きを封じ、翼は静かに白熱を湛える。

 もしも。ただ空へと逃げ延びようするならば、翼のないこの怪物は、それでも彼の元へと際限無く跳んでくるだろう。

 多勢に無勢。いくら彼でも、同時に二体もの怪物を同時に相手取るのは分が悪い。だから彼は、万全を期すことにした。

「墜ちろ」

 そして、手を離す。

 ハヌマーンの身体は支えを失い、ゆっくりと自由落下を始める。怪物は藻掻き、しかし手や足を掛けられるような壁も地面もない空中では、その抵抗も空しいだけ。だが、それだけではない。

 煌めき、焼ける。ラーは天空から無差別な陽の光を放つと、その焦点を落下する怪物へと合わせた。収斂する激しい熱量が、暴れるハヌマーンの手や足、胴体、その身体中全てを焼き切るように浴びせ掛けられる。不自由な空においては、その一方的な蹂躙から逃れる術はない。

 やがて激しい衝突音と共に、その怪物は地に墜ちた。さしものハヌマーンでさえ、そう直ぐ様起き上がることはないだろう。ラーは苛立ち混じりに溜息を吐くと、そのまま飛び去って行った。

 対し、地上に叩き付けられたハヌマーンは、巻き上がった土煙の中で呻いていた。唯一動く右手で這いずりながら、出来ることは姿を消した敵へと見上げることだけ。墜落の衝撃と、太陽に焼かれた傷は、ラーの目論見通り確かにそれを躓かせるに値した。

 しかし、それも僅かな間だけのこと。傷ついていたはずの身体は忽ちに癒え、地に伏していたはずの怪物は荒々しく立ち上がった。そして行方の知れない敵の姿を追おうとするように天を仰ぎ、怒り狂ったように咆哮する。雷鳴のように空気を震わせて、理性を持たない獣のように何度も、何度も。

 その時、ハヌマーンの身体にふと何かが触れた。

 忌々しそうに振り返った怪物の目に映ったそれは、腕だ。容易く振り払えるようなその細い腕を、しかし怪物は払い除けることが出来ない。

 何故ならば、それはハヌマーンの身体を後ろから抱き締めるように伸ばされた、支倉真魚の両腕だった。掛ける言葉はなく、無理にでも止められような力もない。そんな彼女が幼馴染を引き留める選択肢は、その他に有り得なかったのだ。

 ふたりの視線が、まっすぐに交わる。そんな一瞬の静寂の後、まるで糸が切れたかのように、ハヌマーンは倒れた。

次回、更新日未定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ