歌声 3
ラーがハヌマーンを墜とした、あの後。
怪物から人の姿へと戻り、倒れ伏した新の傍らには、真魚の姿があった。彼女は今にも泣き出しそうな顔で、必死に目を覚まさない彼を揺すり起こそうとしている。
そしてふたりの近くでは、弓に手を掛け周囲を警戒するディアナの姿があった。一旦は引き上げたラーが再び踵を返してここに戻って来るかも知れないからだ。あるいは、それ以外の何かか。
だから彼女は辺りに注意を払いながら、動揺したままの真魚へと声を掛ける。
「その子なら大丈夫だよ、多分ね」
彼女のその言葉は、彼女もまた彼と同じだからか、それともただの気休めだろうか。なにせ人が怪物になるような事態に、確実な共通点があるとは限らない。
ただ、もちろん何の理由もなくそう発言をした訳ではない。彼女は未だ狼狽する真魚へと声を掛ける。
「だってほら。息、してるでしょ?」
その言葉に促されて、真魚は縋るような思いで新の口元へ耳をそばだてた。そして聴こえたものは、微かではあるが確かな呼吸音。それは彼の生存を証明するもので、ようやく真魚は胸を撫で下ろした。
だが、ディアナの鋭敏な聴覚が捉えたそれの他に、理由がもうひとつある。 怪物から人へと戻った新の身体に、見たところ傷がなかったことだ。
彼は身体中を光に焼かれ、天高くから突き落とされていた。立ち上がることすら出来ないほどの傷を受けていたはずだ。それこそ、四肢が繋がっていることすら奇跡と言えるほどに。
事実、墜落の後に彼は這い蹲るのが精々だったが、それもほんの少しの間だけ。たかだか数秒を数えるほどで彼は再び立ち上がり、あまつさえ咆哮すら上げて見せた。
再生。ついさっきまで絶え絶えだった彼の呼吸は、今やただの寝息ほどにまで落ち着いている。
辺りを警戒していたディアナも、ようやく落ち着けるくらいには安全を確認出来たのだろう。彼女は人の姿へと戻って、ふたりの傍らにしゃがみ込んだ。
「どう、大丈夫そう?」
その問い掛けに、こくんと小さく真魚は頷く。すっかり腰が抜けて座り込むその様子を見るに彼女は心の底から安堵しているようで、深幸もひとまずは胸を撫で下ろした。
そんな彼女たちのことをどこからか見ていたのだろう。にゃあと不服そうな鳴き声を上げながら、彼女たちの元へと黒猫がやって来た。
「んー、なんか怒ってるね」
そう言って深幸が黒猫を抱きかかえる傍らで、あっと何かを思い出したように真魚は気まずい顔をした。何事かと首を傾げる深幸の隣で、彼女は両手を合わせ平身低頭して黒猫へと謝っている。
「えっと、どしたの?」
奇妙なその光景を前にして、深幸も流石に事情を問い掛けずにはいられない。
なんと事情を説明したものかと思案する真魚はといえば、なんとも難しそうな表情をしている。それから彼女は自身の喉を指差し、次に示したのは不満げな黒猫。その最後に抱えたものを放り投げるジェスチャーをした真魚は、深幸へと向かって強く頷いた。
だがそれだけでも、大体のことは理解出来たらしい。彼女は抱えていた黒猫を真魚の前へと突き出すと、黒猫は黙って真魚の鼻頭に前脚を乗せた。
とりあえずそれで話は一区切り、とばかりに黒猫はするりと深幸の腕から抜け出す。そして真魚に向かってにゃあとひと鳴きをして、少し歩いたところで立ち止まる。振り返り真魚の顔をじっと見つめる様は、まるでついてこいとでも言うようだった。
本当ならばついて行ってあげたいところだが、彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。なにせ自分のために戦った幼馴染は、いまだ気を失ったままなのだ。意識のない彼を連れ回すことは憚られるし、ここに置いていくなんてことも出来るはずもない。
「じゃあ、この子が起きてからみんなで行こうか」
そう深幸が言うが早いか、黒猫はにゃあと刺々しい声を上げる。すぐにでも歩き出そうとしたいその様子を見るに、その猫にとってはどうやら今でないといけないらしい。
加えて深幸だけを睨み付ける視線は、まるで彼女をお呼びではないと拒んでいるかのようでもある。黒猫は、今、真魚だけが自分についてくるようにと要求しているのだ。
とは言うものの、黒猫からも新からも目を離せない現状では、果たしてどうしたものか。考えられる選択肢はそう多くない。
短く息をつき、深幸は提案する。
「ねぇ、その子のことお願いできるかな? 私はここでお留守番してるからさ」
つまりは、黒猫は真魚が追いかけて、新を深幸が見ているということ。
今、この場で最も無防備なのは気を失ったまま自発的に逃げることも戦うことも出来ない新だ。いつラーやテスカトリポカのような襲撃者が現れるかも知れない現状では、彼が目を覚ますまで誰かが護衛をしていないといけない。ならばその役が出来るのは、彼らと同じ怪物の姿を持つ者だけだ。
そうして、最後に確認がひとつ。
「真魚ちゃんは、ひとりで大丈夫?」
彼女は問い掛ける。そして真魚の返した答えは、自分の喉を指差して小さく頷くこと。その反応に深幸は小さく苦笑いをしながら呟く。
「むしろ、ひとりの方がやりやすかったりね」
真魚も同じ温度感の苦笑を返して、しかしその言葉を否定はしない。それから気を取り直したように、彼女は深幸へと丁寧に頭を下げる。
そんな彼女の頭を優しく撫でながら、彼女は語り聞かせるように言った。
「気を付けてね」
その短い言葉に真魚が頷いたのを見届けて、黒猫はひとり路地裏の奥へと歩き始める。その姿を見失わないように慌てて追い掛けていく真魚の背中を見送って、一息。
「置いてきぼり、かぁ」
彼女の視界に、もうふたりの姿はない。出て行ってすぐといっても、こうも入り組んだ狭い場所ならば、それも当然のこと。
残された深幸の傍らにいるのは、いまだ目を覚ます気配のない新だけ。黒猫と真魚が戻ってくるまで、しばらくは静かになることだろう。そう思うとなんだか、どこか寂しいような気持ちになった。
「もしかして、私には教えられない話だったりするのかな」
ぽつりと呟いたその言葉は、誰に聴かせるつもりもない、本当に本当の独り言。さっきまで真魚たちに見せていた姿とは違って、彼女のその声音はどこか拗ねているようで、弱々しい。
彼女は顔を伏せるようにして、ひとりしゃがみ込む。そしてここにはいない誰かに向かって、深幸はひとり語り掛けた。
「……ねぇ、曜ちゃん。どうして私には教えてくれないの」
黒猫を追い、果たしてどこまで歩いて来ただろう。
変わり映えのしない細く狭い道を進んでいった先、ようやく真魚が辿り着いたのは、見知らぬ病院だった。建物に視界を阻まれた裏路地を抜けた先に突然現れた大きなそれに、思わず彼女は足を止め見上げてしまう。
こんな場所に病院なんてあっただろうか、そう真魚は首を傾げる。
放課後の大通りから、裏路地へ。そこからあちらこちらに歩いて来たことを考えれば、今まで知らなかったのもおかしな話とは言い切れないだろうか。
なんてことを、あまり悠長に考えているような暇もない。
そうこうしている間にも半端に開いたままの自動ドアの隙間を通って、黒猫は一足先に院内へと入ってしまっている。彼女は慌ててその背中を追い掛けようとするが、その隙間は人が通れるほど大きくはない。開かない自動ドアをこじ開けて、なんとか真魚も中へと潜り込んだ。
そこそこの広さのある待合室は、朽ちているわけでもないのに明かりは点いていない。右、左と向いても他に誰かがいる様子もなくて、待合室は静まり返っている。外から薄明かりだけが差し込む様を見れば、さながらホラー映画のよう。
勝手知ったるとばかりにすいすいと院内を進んでいく黒猫の背中を、真魚は追い掛けていくので精一杯。不自然に人のいない病院なんて、そもそも喜び勇んで入るような場所でもない。
ただ、少し気になることがあった。彼女が足を踏み入れた裏路地の位置から考えても、こんな場所に病院なんてあっただろうか。真魚は恐る恐る、躊躇いがちに足を動かしながら訝しむ。
とはいえ、そんなことを悠長に考えている暇もない。
黒猫は慣れた様子で階段を登って行き、どうやら病室棟の方へと向かっているらしい。その後を追いやがて真魚が辿り着いたのは、ひとつの病室だった。
閉じたドアの前で黒猫が立ち止まる。真魚の方へと振り返って、なぁと鳴いたのは、きっと扉を開けろと言っているのだろう。ちらりと見た壁のネームプレートには、黒嵜曜と言う名前が、ひとり分だけ書かれている。
知らない人の部屋へと入ることに若干の迷いはありつつも、黒猫に促されるまま、ガラガラと音を立てて彼女は病室のドアを開けた。
すると黒猫は何を躊躇う素振りも見せず、当然のように扉の奥へ。続く彼女も、声には出せないから心の中でだけお邪魔しますと呟いて、病室の中へと足を踏み入れた。
個室だ。整然とした印象を受けるのは、しおれた花の飾られた花瓶を除いて、この場所に私物がほとんどないからだろうか。清潔と言えば聞こえは良いが、その実態としては生活感が、もっと言えば生きている感じがしないということ。
強いて言うなら、大きく開いた窓ガラスは向こう側に雑居ビルの群れを映していて、それが唯一の現実感と言えるほどには。
尻尾をぱたぱたと遊ばせて、ベッドの上に黒猫は座る。そこに眠っていたのは、男の子か女の子かもわからないような、小さく幼い子供の姿。
果たしてこの子は、今この瞬間にも生きているのだろうか。などと疑ってしまうほど身じろぎも、呼吸もない。もしもそうと気付かなければ、視界の中、名もない風景のひとつとして見落としてしまっていた。
黒嵜曜。
真魚は、病室の前に掲げられたネームプレートを思い出す。そこに書かれていたあの名前は、きっと目の前で音もなく眠るこの子を指すのだと。
にゃあ。そんな黒猫の鳴き声が聞こえて、真魚は我に返った。
小さな瞳が彼女へ示したのは、ベッドの隣に用意された来客用の椅子。目線で訴えているのは座れと言う意味なのだろうが、彼女は目の前の子供にとって家族でも知り合いでもないのだ。躊躇ってしまうのも無理はない。
結局、痺れを切らした黒猫に脅かされて、真魚は渋々腰を下ろすことになる。それを見た黒猫は満足そうに一息をつき、焦げた匂い。
違和感を覚えた瞬間にはもう遅かった。気付けば大きな窓ガラスからは黒煙が雪崩れるように溢れ出して、狭い病室の中、既に足首ほどまでの深さが煙に沈もうとしている。
咄嗟の判断だった。少しでも早くここから逃げ出さなければならない。そのために黒猫を抱き上げようと手を伸ばし、直感する。
黒猫だ。姿勢を変えずただ真っ直ぐ真魚を見詰めるその目は、まるで何かを訴えようとしてると、彼女にはそう思えたのだ。
窓ガラスからは、まだ煙が漏れ続けている。だが言ってしまえばただそれだけのこと。
一度呼吸を整えて、再び真魚は椅子へと腰を降ろす。黒猫はそれを見届けると彼女へと向けていた視線を翻し、黒煙の漏れ出す窓ガラスへ。そこに映っていたのはさっきまで見えていた外の風景とは違う、かつてのこの病室の光景だった。
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