歌声 4
前話部分に大幅加筆。
今回の話は加筆部分からの続きになります。
「曜ちゃん、おはよう」
明るい女性の声が響く。彼女が病室のカーテンを開くと、暖かな日差しが差し込んだ。思い出を辿るように進む景色をガラス越しに眺める真魚は、その声に聴き覚えがあった。
深緑のカーディガンを着た彼女は、ベッドに眠ったままの子供の頭を撫でる。優しく微笑むその顔は真魚もよく見知った、鹿角深幸のもの。
「お花も、流石に替えないとね」
そう言って、深幸は悲しそうに目を伏せた。
窓際に飾られた花は、少し萎れ始めている。その見舞い花はこの子の家族から贈ったもので、彼女だって、出来ることなら捨ててしまいたくはない。
だが、どれだけこまめに世話をしていたって、どうしようもないこともある。もしも誰かが見舞いに来ていれば、既に花は替えられていただろうに。
ガラスに映ったその光景を見て、真魚は理解した。目を覚まさないこの子供は、もう家族からも見放されてしまっているということに。
次の瞬間映し出された病室には、少女がいた。彼女は本当に、本当に悲しそうな顔をしながら、ベッドの上で目を覚まさない子供の頭を撫でている。
真魚は小さく口を開いた。なぜなら彼女は、その少女のことをもう知っていたから。
その時、扉を開いて深幸がやってきた。きっといつものように孤独な病室を思い描いていたであろう、沈んだ面持ちで。だからこの病室に自分以外の誰かがいることに気付いて、彼女はほんの一瞬で顔を綻ばせた。
「曜ちゃんのお知り合いの方ですか?」
この子の病室に誰かが見舞いに来ている。深幸は平静に対応しようとしながら、その喜びようは抑えきれないらしい。その声音はいつもより弾んで聞こえたのに。
「かわいそう」
深幸にとってまだ見知らぬ少女は、彼女の方を向きもせず呟いた。だけどその次に続く言葉を、真魚は既に聞いたことがあった。
「あなたがしてあげることは、この子を苦しめるだけなのにね」
その言葉は、深幸が真魚と新の前で溢したものと一字一句違わない、呪いのような予言。傍目に見ている真魚もかつて同じような言葉を向けられたことがある。
つまりは、泣き女だ。だが予言と言うものは、得てしてその時までは不明瞭なもの。唐突にそんな言葉を投げ掛けられた深幸は、出来るだけ困惑と不快感とを表に出さないようにしながら、それでも。
「ええと、なんの話ですか?」
聞き返した瞬間、そこに彼女はいなかった。部屋から出て行ったとして、ならば深幸の後ろにあるドアを通るか、そこの閉じたままの窓から身を投げるしかない。なんてふざけた話だ。
ただ入れ替わりのように、どこからか聞こえたのは猫の声だった。鳴き声を辿った先に見えるのは、この病室にひとつしかないベッドの上。黒嵜曜がいたはずのその場所その姿はなく、代わりのように黒猫だけが座る様が窓ガラスに映っていた。
え、と思い深幸は病室を振り返る。彼女のいる現実には確かに曜は眠っていて、だが何度見比べたところで虚実のベッドには黒猫しかいない。
だが、何がそうさせたのだろう。ふと彼女の手は眠る子供の方へと伸びて、その頭を優しく撫でた。ガラスの向こう側ではその手は黒猫の頭を撫でていて、それは心地良さそうに喉を鳴らす。
だから、理解よりも先に腑に落ちたのだろう。彼女は優しい微笑みを浮かべて、静かに呟いた。
「……そっか、曜ちゃんなんだ」
ベッドの横の心電図は、甲高い音を立てながら真っ直ぐに伸びている。
次に映ったものは、黒い身体をした怪物、テスカトリポカの姿だった。
代わり映えなく見慣れた路地裏で、怪物の足元には黒煙と、倒れたまま必死に逃げようとする見知らぬ男。この暗い路地に嫌に馴染む装いの男は、一体どれだけ抵抗したことだろう、身体中に多くの傷を負っていた。特にその足を抉る傷は深く、逃げることは愚か立つことすらことすら難しいだろう。
怪物は男へとにじり寄りながら、しかし足を縺れさせ倒れてしまう。その姿は、ともすれば目の前の男よりも弱り切っているとすら言えた。
その有様は、男にとって決して逃してはならない好機。彼は死に物狂いで、自らを襲う怪物から少しでも離れようと這いずっていく。その姿を前にしても怪物は満足に追うことすら出来ず、力ないその指を精一杯に伸ばした、その時だった。
「……なに、これ」
声がした。聞き慣れたその声に、静かにテスカトリポカは顔を上げる。その怒り狂ったような瞳に映ったのは、目の前の光景に怯えた鹿角深幸の姿。ここまでを走ってきたのだろうか、彼女は微かに息を上げ、信じられないものを見るようにその光景を見下ろしていた。
助けてくれ、と男は震えた声で精一杯に訴える。すぐその後ろでは、人とも呼べないような怪物が苦しんでいる。
だが、どうしてだろう。その混乱の最中、彼女はふと気付いた。
「……曜、ちゃん?」
そして怪物へと向けられたその声が呼んだのは、病室で眠り続けている子供の、あるいはガラスに映った黒猫の名前。曜ちゃんと呼ばれたその怪物は、にゃあと弱々しく鳴いて、深幸にとってはそれで十分だった。
彼女は自分に縋る男の足を抱えると、テスカトリポカの方へとその身体を引きずり始めた。男は突然身体に走った痛みに惑いながら、しかしすぐに彼女の意図に気付いたのだろう。ふざけるな、やめろという怒声。傷口に触れられる、あるいはアスファルトに削られる苦痛。そして、怪物が少しずつ近付いていることへの恐怖。その全部がぐちゃぐちゃに混ざったような悲鳴に晒されながら、彼女は怪物の手の届く場所へと獲物を連れてくる。
罵声は止まない。ただそれは命乞いだったり、嗚咽だったり、漏れ出る形が変わっただけだ。だから本当はその全ての悲鳴が、全く同じ意味を持っている。
ただ、死にたくない、と。
「ねぇ、曜ちゃん」
彼女は怪物へと語り掛ける。震えた声は迷っているようで、あるいは怯えているようにも聞こえた。ただどちらにしても、酷く痛んで苦しいのだろうということに変わりない。
それでも彼女がこうすることを選んだ理由は、たったひとつ。
「これで曜ちゃんは、死なずに済むの……?」
怪物は何も答えず、藻掻くように男の心臓へと手を掛けた。
そして窓ガラスには、今度こそ真魚のいる今の病室が映された。先ほどまで流れ出ていた煙も気付けば消え去っていて、黒猫が真魚へ見せたかったものは、きっとこれで全てなのだろう。
真魚はベッドに横たわる曜へと目を向ける。ガラスの向こうの光景でさえ目を開かなかったその子供の、剝製のように静かな寝顔を見ていると、彼女は両手で顔を覆うしかなかった。
まだ、真偽はわからない。
だが今見せられたものが本当なら、今ここに眠っている子供が命を繋ぐためには、誰かの生贄が必要だということになる。そして、そのために彼女が誰かを犠牲にしたことも、また。
もしも今、声が出せたのなら、きっと嗚咽が漏れていただろう。小さなその背中も、ふるふると微かに震えていた。
にゃあ。そうして俯いた彼女の傍ら、ベッドの上の黒猫が小さく鳴く。その声に呼ばれて真魚が顔を上げると、猫はガラス窓の方へぴょんと飛び移った。窓枠を歩く黒猫がやがて腰を降ろしたのは、しおれた花の挿さる花瓶の隣。
真魚の見た限りでは、それは曜へと手向けられた唯一のものだったはずだ。だけどそれは、もう曜の家族からのものではなくて、きっと深幸が替えたものなのだろう。
だけど、ガラスの割れる音がした。突然の音に驚いた真魚が音のした方へと視線を向けると、そこにあったのはバラバラに砕けたガラスの花瓶と、しおれた花が寂しげに散らばった光景。
そのまるで深幸の想いを無下にするような行動に、彼女は視線を黒猫へと向けた。一体どうして、と問い掛けるように。
真っ直ぐその視線に見詰められ、しかし黒猫は目を逸らさない。ただにゃあとだけ鳴き声を上げて、それが黒猫にとっての答えなのだろう。
そして、真魚は思い出した。
「あなたがしてあげることは、この子を苦しめるだけなのにね」
まるで呪いのように深幸へと投げ掛けられた、泣き女の言葉を。
次回、書きあがり次第更新




