第8話 ルアン・ナイル・ロビンソン
当時は家の中に、水道の蛇口が一つしか無い家も多かったです。
水道が無い家は井戸などを使っていました。
――ルアン視点――
ボロボロの状態でガートルードが帰ってきた夜、ルアン・ロビンソンは自身の軽率な対応を恥じた。
この街で密造酒を売ることの危険性を、彼は甘く見積もっていた。ギャングが裏稼業を牛耳る街で、ギャングの競合相手になるという危うさを。
ルアンはこの街出身ではないし、住むようになってから日が浅い。戦争が終わってアメリカの色んな所をフラフラしているうちに、たまたまたどり着いただけである。
この街のギャングがどれだけ手早く動くか、まったくわかっていなかった。
ある程度酒を売って名前が売れれば、もしかしたら狙われる事もあるだろう、くらいにしか思っていなかった。
まさかガートルード個人を見張り、販路を探しただけで接触してくるギャングがいるとは。
何をされたのやら、ガートルードは口の両端から血を流し、声も出せないくらい喉が損傷していた。
アザだらけで、虚ろな目で、店に帰ってきたとたんに倒れて動かなくなった。
その時の絶望感は、戦後一番強いものだった。
また僕のせいで、誰かが傷つく。
僕の不注意のせいで。
浮浪者として廃人同然の生活を送っていたルアンにとって、ガートルードは救いの女神以外の何者でもない。
やまない悪夢と、止まらない酒。朝も夜もわからず嘔吐し、酩酊し、狂っていた。何をする気もどこへ行く気も起きなかった。
そんなルアンに、あの赤髪の女性は、住む家と仕事と仲間を与えてくれたのである。
あまり表に出していないが、ルアンは強い忠誠心を彼女に抱いていた。
それは恋愛感情のような浮ついたものではなく、場合によっては命すら投げ出すことを厭わない、尊敬であった。
彼女のためなら、何でもやる。
あの人を笑わせるためなら、僕は戦う。
その新たな気持ちが、廃人として死を待つばかりだったルアンに、生きるモチベーションを与えていた。
「さっきはゴメン。言いすぎた」
ロレッタが謝ってきた。
「とんでもない。君の言う通りだよ」
ルアンは首を振った。
医者は鎮静剤を置いていかなかったので、暴れるガートルードを落ち着けるために、青年はガヴラを使用した。
戦争であまりに多くの命を奪った。
その経験が、人のどこを攻撃すれば怪我させることなく気絶させられるか、実感として身についている。
ルアンはツタを伸ばし、ガートルードの顎を、目にも止まらぬ速さでこすった。殴るのでは、ない。スナップを効かせたツタで、振動を脳に直接与える技だ。脳が激しく揺れたガートルードは、そのまま意識を失う。
そうして再び倒れたガートルードをベッドに寝かす。
背中まである彼女の赤髪は、少しくせっ毛でウェーブしている。その髪が汗で濡れていて、いかに消耗しているのかが伝わってきた。
ロレッタはガートルードが半狂乱に暴れた時、全く動けていなかった。幼なじみの発狂する所を見て、動揺したのだろう。怖気付いて、離れたところから、ルアンがガートルードを寝かせるのを見ていた。
それを後悔しているのか、ガートルードを気絶させた後、ロレッタの態度は軟化していた。
「少なくとも、助けられなかったっていうのではあたしも同じ。その場に居なかったら、何も出来ないよね」
ロレッタはスパナをクルクル回し、可愛らしく首を傾けた。
「ルアン。八つ当たりだったわ。ごめんね」
「八つ当たり?」
「ガートルードが傷ついたからね。こいつはあたしの親友なんだ。傷つけられる所なんて、見たくない」
女性のガートルードを見る目は、とても優しいものだった。
ルアンはロレッタ・カチュマレクの方を、改めて見る。
「幼なじみってことだけど、二人はどういう関係なんだい?」
ロレッタは、おでこにかかった金髪を払いのけた。アーモンド型の目が、ルアンを向く。
「スクールに通い始めた時、隣の席だったんだよ。それで小さい時からずっと二人でつるんでた」
「へぇ〜気が合ったんだね」
「まあね。それに恩もある。こいつ結構頑固じゃん? あたしはあたしで口悪いから、小さい頃はよく虐められてたんだけど……その度にガートルードが助けてくれたんだ。間違ったことを見逃すのが許せないみたいでさ」
「素敵な関係だね。仲がいいのも納得だよ」
ルアンはロレッタに好感が芽生えるのを感じた。
小さい時の恩を忘れない、義理堅い女性だ。
ロレッタは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ま、実際会ったら喧嘩ばかりなんだけどね」
「それも含めて仲がいいんだよ」
「ありがと。……まあ、そんなわけで、あたしはこいつが心配だよ。こう見えてあたし、結構動揺しているの」
「そうだね。何をされたのかわからないけど、立ち直れるかな」
「ねえ、えっちなことされたと思う?」
ロレッタは不安そうに言った。
ルアンは首をふる。
「多分大丈夫だよ。外傷はそういう種類のものじゃないし」
「でも、口が裂けてる。何かを突っ込まれたような感じじゃないかな」
「そうだね。警棒か銃口か……おそらく拷問に近いことはされたかもしれない」
「拷問?」
そこまで考えた時、ルアンは戦場で聞いた話を思い出した。
拷問の中には、口を使うものもある。特に相手の肉体を傷つけず、心だけを折る拷問は、口を使った方が効率がいい。
ナイフは流石に死ぬ。釘くらいが丁度いい。
それを思いついたのは、いかなる悪人か。はたまた狂人か。軍のテントを地面に固定している「大釘」。それをそのまま口に突っ込む拷問が存在していた。
「いや……でもまさか、それを女性にする人なんていないよなぁ。戦争経験者でもない普通の人に、そんなエゲツないこと……」
思わず口をついて出た独り言に、ロレッタは反応した。
「どういうこと?」
ルアンは彼女の方を向いた。
額に汗がにじむ。
まさか、と思ったが、考えるほどにありうるような気がしてくる。
「……いや、僕の思い違いかもしれないんだけど」
もしそれが事実なら、ガートルードが立ち直るなど、不可能ではないだろうか?
それから一週間、ガートルードは部屋から出てこなかった。
地下室の改装が完了し、酒の量産体制が整ったことを知らせたが、一向に返事はない。
ドアには鍵がかけられ、窓のカーテンは閉じられている。
店の商品の缶詰や近所で買ってきたパンを扉の前に置いていたら、いつの間にか消えているので、生きてはいるようだが、落ち込んだ彼女にかける言葉をルアンは持たなかった。
この家の持ち主ではないのに、今やルアンは日々の家事を細かく行っていた。
朝起きたら一階の水道で水差しに水を汲み、ガートルードの部屋の前に置く。
クックストーブに石炭を入れ、マッチで火をつけて、炎を燃やす。この炎は一日中熾火にして、絶やさず維持する。お湯を沸かしたり料理をする時、ゼロから火を起こすのは効率が悪いからだ。
それからキッチンにタライを置き、沸かしたお湯で汚れた服を洗濯板と洗剤でゴシゴシ洗い、裏口の庭にほす。
手間のかかる作業だ。
浮浪者だった頃は食うや食わずの生活で、あれはあれで不安定だった。だが、一般家庭の日々の生活を維持するというのは、それとは異なった意味で大変だった。
ルアンはそれを初めて知った。
ガートルードはこれをずっと独りでやっていたのかと、ルアンは驚きながら、なんとかそれらをこなしていた。
「見込み違いだったか?」
セオドアが失望したように言う。
「彼女は気丈な女性だ。金貸しとして一年ほど付き合いがあるが、一人で家業を守って、母親の入院費も払う根性があった。あの精神力には密かに感心していたんだが。一回の襲撃でここまで参るとは思わなかった」
「きっと大丈夫。ガートルードならきっと元気になるよ。今は僕たちで出来ることをしよう」
ルアンが提案するが、セオドアの顔色は優れない。
「おいおいおい。"マザーズ・マーシー”を作れるのはガートルードだけだ。俺たちはレシピを知らないし、知ってたとしても、実際に作るには職人の技術がいる。彼女が潰れたら、そもそも計画は破綻するぞ」
その通りだった。
仲間は四人集まったが、結局お酒を作れるのはガートルードしかいない。
ガートルードが復活しなければ、この集まりは破綻し、金を稼ぐことなど不可能になる。
ルアンは親指を立てた。
「僕はガートルードを信じてるよ。上手くいかなかった時の事を考えるより、上手くいくこと前提で準備してた方が、楽しいからね。きっとロレッタも同じ気持ちだよ」
出来ることを、やっていくしかない。
とりあえずルアンはこの一週間、家事の他に、慣れない雑貨屋の店番と商品の仕入れを担当していた。
酒を売り出すまでの生活を、維持しないといけないからだ。
ロレッタは車庫にこもって、宅配用の古い車の修理を続けている。彼女もガートルードの復活を信じているのだ。
セオドアはため息をついた。
「まあ、ルアンがそう言うなら従うが。俺は後ろ向きな人間だ。何の見返りもなく無意味な作業に従事することは出来ない。せめてガートルードの復活が長引いた時の事を考えて、マザーズ・マーシー以外の酒を作れないか試す。……それでもいいか?」
ルアンは穏やかな笑みを浮かべた。
セオドアなりに心配してるのはわかっている。
「もちろんだよ。セオドア君。それぞれに出来ることをしよう」
戦争で心が壊れた人を、ルアンは沢山見てきた。
人を殺せば殺すほどに褒められる非日常。
塹壕の泥の中で、病気や飢えや不快感と戦いながら、兵士たちはその日その日を必死に生きる。
しかし死神は不平等で不公平だ。どれだけ準備していても、たまたま飛来した砲弾で、兵士たちはあっさり命を落とす。
塹壕に毒煙を散布される事もあった。
狂った世界だ。
野蛮で、粗悪な、獣の世界。
それを体験した者からすると、この国の発展は眩しすぎてついていけない。映画? ダンス? ラジオ? なんだそれは。
ついていけないから、心は壊れたまま、癒えることがない。
あの泥の世界から——まだ帰って来られない。
意識はずっとあの戦場にある。
だから、心を治す術をルアンは知らなかった。
ガートルードの壊れた心を、どうやったら救えるのか。全くわからなかった。
自分の心が救えていないのに、どうして人の心を救えるだろう。
ルアンに出来るのは、壊れた心のままでも、とりあえず無理やり動く事だけだ。体裁を取り繕い、まともな「ふり」をするだけだ。
戦わなければ生き残れない。
それが戦場における、兵士たちの狂気との向き合い方だったのだから。
「……そうか」
ルアンはある気づきを得た。
戦えば、いいのだ。
戦えば、心は後からでもついてくる。
無理やりにでも抵抗し、ぶつかり、反抗すれば、まともな"ふり”くらいは出来るようになる。
反抗心だ。
ショック療法だ。
ガートルードを戦わせよう。
真実を――話そう。
それはルアンにとって、最もやりたくない事だった。
本当なら、ずっと黙っていたかった。
正直に全てを話せば、きっとガートルードはルアンを軽蔑し、怒り、見捨てるだろう。
しかし、元気になってくれる。
溢れる怒りが、行動の原動力になるはずだ。
それは永遠の別れになるかもしれない。
お前となど一緒にいられない、と追い出されるかもしれない。
あるいは、命を狙われるかもしれなかった。
――どれでもいいではないか。
ルアンは覚悟を決めた。
どの結果でもいい。ガートルードが望んだ答えを自分は全力で応援する。
消えろと言われれば消えるし、死ねと言われれば死ぬ。
それが生き残ってしまった自分にできる、唯一の贖罪であるように思われた。
自分を救い出してくれた、彼女への恩返しだ。
自分を助けてくれた、シェイマスの妹を、今度は自分が助ける。
ルアンはガートルードの部屋に向かった。
扉をノックする。
しかし案の定、彼女からの返事はない。
「ガートルード。聞いて欲しい事があるんだ。君の兄さん……シェイマス・グレイディの事なんだけど」
ドアの前に立って、ルアンは話しかけた。
ギシッとベッドの軋む音がする。
どうやら彼女は起きているようだ。
それが分かったので、ドアの前だがルアンは構わず話し続けることにした。
本当は言いたくない。
でも、言わなければならない。
――さあ、頑張れルアン・ロビンソン。
「君の兄さんは、僕が殺したんだ」
ガタンと、大きな音が鳴った。
お風呂はタライにお湯を沸かし、身体をタオルで拭くものでした。大変なので、週に1回程度しかはいらなかったそうです。




