第9話 ムーズ・アルゴンヌ攻勢
ウォッシュスタンド = 当時の家にはどこでもありました! 寝室にある洗面台です。水差しと水受けが置かれ、ここで朝顔を洗ったり歯を磨く。汚れた水はバケツに入れて、後で捨てるらしいですよ。
――ルアン視点――
扉が開かれた。
彼女の赤髪は引きこもっていたせいでさらにウェーブ感を増し、陽の光を浴びていないから顔色は悪い。
白い肌にクマを浮かび上がらせ、ガートルードはこちらを睨んでいた。
「――どういう事? あんたが兄さんを殺した?」
彼女の声はかすれている。
だが包帯は取られていた。
一週間で声が出るようになったらしい。本人の意志と関わらず、体だけは回復してきている。
ルアンは唾を飲み込む。
「そう。シェイマス・グレイディ。君のお兄さんと僕は、実は知り合いなんだ。先日部屋を明け渡してくれた時に気がついたんだけどね」
「…………そう」
ガートルードは虚ろな目でルアンを見た。
彼女の大きな灰色の目は、かすみがかかったように焦点が合わず、瞳孔が開いている。
かなり参っているようだ。
「詳しく話しても、いいかい?」
ルアンが尋ねても、数秒反応がない。
心配になるような時間を置いて、ガートルードはノロノロと後ずさった。
「……入って」
ガートルードの部屋は荒れに荒れていた。
ルアンが部屋の前に用意していたリンゴの皮や缶詰の空き缶が、床に散らばっている。
食器は積み重ねられることもなくあちこちに投げ捨てられ、陶器類の中には割れているものもあった。
そして酒瓶も、何本も転がっている。それはマザーズ・マーシーの販売分として、綺麗な酒瓶に詰めていたものだった。オレンジ色の液体は失われ、透明の瓶だけが無感動に投げ捨てられている。コップはない。ラッパ飲みしたのだろう。
ガートルードは下着姿だった。
着替える気力すら無かったのだろう。羞恥心を維持するパワーすら残っていないことに、ルアンは心を痛めた。
あられもない格好を注意しようか迷ったが、ガートルードは今やそんな事はどうでもいいようで、平然とした顔でベッドに腰掛けた。
ルアンは黙って、壁の方に置いてある椅子に座る。
「大丈夫かい? ガートルード」
重苦しい沈黙を払うように話かけるが、彼女は答えない。
ぼんやりと、こちらを眺めたままだ。
ルアンは覚悟を決めた。どうやら今の彼女には、シェイマスの話しか届かないようだ。
唇を舐める。
「……どこから話せばいいか。僕とシェイマスは、同じ戦場で同じ部隊にいたんだ。陸軍、第404小隊――"ガヴラ”を研究し、軍事運用するための部隊。公式上は"存在しない”部隊さ」
ガートルードの瞳孔が動く。
ピントをこちらに合わせようとしているようだ。
彼女の唇からカサカサの声が発せられる。
「兄さんは無所属だった。だから戦死しても補償金もなかったわ」
「トカゲの尻尾切りだ。残念ながら極秘の研究だったから、死んだ人は切り捨てられたんだよ」
「そんな……」
ルアンはあの当時の事を思い出していた。
家業を継ぐのが嫌というだけで家を飛び出し、軍隊に入った愚かな若者。
そんな自分はたまたま何らかの適正があるということで、まるで映画や小説みたいな恐ろしい部隊に入隊させられた。
集まったのは、無鉄砲な若者たち。
彼らは軍から"種”を植え付けられ、人ならざる力を得、そしてアルコール中毒に苦しんだ。
「シェイマスは、僕の親友だった。互いに【アーゴシー】ていう小説雑誌が好きでね。話が合ったんだ。彼がいたから僕はあの泥まみれの塹壕で、なんとか正気を保っていられた」
「じゃあ……兄さんも、ガヴラを?」
「そうだよ。シェイマスはガヴラ能力者だった。とても明るい黄色の花を咲かせてね。形が似てたから、彼のガヴラは向日葵って呼ばれてた」
ガートルードは首を、わずかに傾けた。
その態度で、ルアンは花の説明が不十分だった事に思い当たる。
「ガヴラはね、宿主の体質によって花の種類が変わるんだ。僕の赤い花は彼岸花と呼んでるけど、みんな同じ花な訳じゃない」
ガートルードは納得したような、そうでもない顔で黙り込んだ。
反応が薄すぎて、ルアンの説明が理解できたのかもわからない。しかし何も言わずに待ち構えているのは、ルアンの告白を聞くためだろう。
そう信じて、ルアンは話を続ける。
「ムーズ・アルゴンヌ攻勢。世界大戦の最後、フランス北東部のヴェルダンの近くで、僕たちは戦った。二ヶ月くらいかな。終わってみれば呆気ないものだったけど、あの時は地獄が一生続くようだったよ。やまない砲撃、破壊される補給路。昼夜問わずぶつかり合って、生きてるかも死んでるかも分からないまま、僕とシェイマスは泥だらけで戦ったんだ」
それはアメリカ軍2万6000人が戦死した、大戦中最も大きな戦いだった。
生き延びたのは、奇跡でしかない。
セオドアも参加していたという。
あの恐ろしい戦いを経験した後では、世の中の全ての事が無価値に感じられる。
「いくらガヴラが強力でも、戦車や爆弾には勝てない。戦闘機にも勝てないし、実は目の前の敵を殺すことにしか役に立たない。何万人もの兵士が鉛玉を撃ち合う戦場では、ガヴラなんて大したこと無かったよ。何百人も殺したけどね」
話しながら、ルアンは胸が苦しくなってくるのを感じた。
あの狂った世界が、フラッシュバックする。
まだ克服できていない。
あの時の経験が、ルアンをシェルショック(PTSD)にした。心は壊れたままなのだ。お酒に逃げて、眠ってしまいたい欲求を、あらん限りの理性で抑え込む。
シェイマスの事を話さなければ。
「――僕が悪いんだ」
ルアンは息が上がっていった。
「僕があの時、山から攻めようなんて言ったから。大軍に待ち伏せされて、嵐のような銃撃をお見舞された。シェイマスは予定通り平地から行こうって言ったのに。少しでも隠れるところが欲しくて、僕は山を提案してしまった。楽な方に逃げたんだ」
高い山を抜けて崖下に降り立った時、戦車が待ち構えていた衝撃を、忘れることは出来ない。
ガヴラなど、所詮は植物を操る能力だ。
巨大な鉄の塊を破壊する術も、半径20メートル以上一気に吹き飛ばす砲撃を防ぐ手立ても、無い。
多くの仲間が肉片と化した。名前をよく知る、開戦からの付き合いの仲間達が、物言わぬ肉塊へと成り果てていった。
ルアンは何も出来なかった。
だが、最後にシェイマスは能力を使って、ルアンを逃がしてくれた。
自分は崖の下へ残り、ルアン含めた何人かを山の向こうに"吹き飛ばして”くれた。
「――永遠にも思える一瞬の中で、シェイマスは僕を見ていた。そして、笑っていた。彼は優しい人だったから、僕だけでも助けられたことが嬉しかったんだ」
「……………………」
ガートルードはルアンを見ていた。
今は焦点が合っている。
その目に宿る感情は、怒りか憎しみか。
わからない。ただ衝撃だけを感じた表情で、こちらから目を逸らさない。
「だから、君の兄さんは僕が殺した。――殺したも同然なんだ」
ルアンは胸を抑えて、ふうふう息を吐いた。
椅子に座ることも出来なくなって、床に膝をつく。
また、おかしくなりそうになっていた。
だが、今は自分の事などどうでもいい。
ガートルードは衝撃で頭がいっぱいで、ルアンの異変には気づかないようだった。ベッドからよろよろと起き上がり、ルアンを見下ろす。
「あんた、私がシェイマスの妹だと知って近づいてきたの?」
「違う」
「自分の罪悪感を癒すために、シェイマスの身内を守ることで、救われようとしたんじゃないの?」
「違うよ」
ルアンは首を振った。自分にそんな度胸はない。
誰かに嫌われるのも、怒られるのも耐えられない。
もしシェイマスの故郷だと知っていたら、この街には近づかなかっただろう。
「本当にたまたま、君と出会ったんだ。だからシェイマスの部屋に通された時、物凄く驚いた。神様っているものなのかと思ったよ」
膝まずいたまま、ルアンはガートルードを見上げた。
彼女は感情の見えない目で、こちらを見ている。
ルアンは言葉を探した。
「シェイマスが生きている時、妹がいるのをよく話してくれたよ。とても強情で、どんな時もへこたれない、強い心を持った妹だと。兄さんは君を愛していた。君の生きる世界を守りたくて、軍へ志願したんだ」
その時である。
ガートルードは、呆れたように笑った。
「そういうのは言わなくても大丈夫よ。誰が何を考えていたかなんて、他人には推し測れない。あんたの発言は、私を喜ばせようと嘘言ってるようにしか聞こえないもの」
「そんなことは無いよ」
「どうだか」ガートルードはしゃがれた声で、話し始めた。喉が開き始めたようだ。
「で、結局何が言いたかったの? ルアン。わざわざ私の部屋に来て、とんでもない過去を打ち明けて。それで私にどうして欲しかったの?」
「僕を恨んで欲しい」
ルアンは答えた。
それがルアンの望みだった。
「君に嘘をついて、シェイマスのことを黙っていた。シェイマスが帰国できなかったのは、僕のせいだ」
その恨みが、活力となって、再び彼女を歩ませる。そうなればいい。
しかし、ガートルードは首をふる。
「何言ってるのよ。どう聞いても、あんたに非は無いじゃない。戦争だったのよ? 何が起こるかなんて、誰にも予想できなかった。そんな事でルアンを恨んでも意味がないわ」
それはルアンの全く予想していない答えだった。
あの時から、幾度もシミュレーションしていた、遺族の告白に対する答えと違う。
皆、自分を恨むはずだと思っていた。自分の甘さを、愚かさを、断罪してくれるものだと思っていた。
そうでなければ、自分だけが生き残った意味がないではないか。
それに、恨んでくれないなら、ガートルードは立ち上がれない。
――だが、ルアンの予想に反して、ガートルードの目には少しずつ光が灯っていく。
「兄さんの話を聞けてよかった。兄さんの優しい所を、思い出せてよかった。ありがとうルアン。あの人の最後の行動は、とても兄さんらしいわ。あの暖かさを思い出せた。なんだか、勇気が湧いてきたわ」
「ガートルード……」
「私は、守らないといけないのね。祖父が残したこの店を。兄さんが救った命を。今生きてるお母さんを」
ガートルードの目に、力がこもる。
「あんなに恐ろしいことがあって、落ち込んでたけど、今はもうどうでもいい気分よ。だって、私にはやらないといけないことがある。引き継いでいかないといけない、家族の歴史があるんだから」
――強い人だ。
"あんなこと”をされて、心を病まないわけがない。
でもガートルードは溢れる反骨心で、それを乗り越え、闘おうとしている。
――そうか。
ルアンは気づいた。
ガートルードはずっと、自分の身の回りの大切な人の"気持ち”を守るために闘って来たのだ。
貧乏で潰れるくらいなら、雑貨屋を閉店してしまえばいい。利益回復などとっとと諦めて、誰か適当な人と結婚すれば、食うには困らないはずだ。
でもガートルードはそれをしなかった。
祖父との思い出を尊重し、母の帰る家を守り続けようとした。
兄がやろうとしたことを、絶対に諦めなかった。
なんて――なんて、強い人だろう。
ルアンは涙を流した。
そして、なんて――苦しい生き方だ。
死んだ人の想いまで背負っていけば、いつか重みで動けなくなる。
この人は強い。だが同時に、とても危うい。
僕が支えなければ。
シェイマスが救い、ガートルードが繋いでくれた命を、彼女の為に使うのだ。
じゃないと、世界はあまりにもガートルードにとって生きにくい。
「ありがとう……ガートルード」
「ふん。別に……悪かったわね。部屋に閉じこもって。その間ご飯まで用意して貰っちゃって」
ガートルードは腕を組んだ。
「今何日経ってるの?」
「一週間ってとこだよ」
ルアンは涙をふきながら言った。
「そんなに経ったの?」
ガートルードは我に返ったように、荒れ放題になった部屋を見回した。
「片付けないと」
そう言って、ガートルードは動こうとした。
しかしその時、彼女の足がガクガクとふるえ、ガートルードは床に倒れ込む。
彼女の肩は、ふるえていた。
「ガートルード……」
ルアンは息を呑む。
やはり、まだ一週間しか経っていないのだ。本人が気合を入れても、心は追いついていない。心の傷は、そう簡単には治らない。
「や、やっぱり。もう少し休んだ方が……」
「う、うおおおおおおお」
女は、声を上げた。
かすれた声で、それでも叫んだ。
部屋中に、ガートルードの声が響く。
その声はふるえていた。でも、熱があった。何かに抗おうとする、炎の熱が感じられた。
その声はルアンの腹の底まで、ビリビリとゆらした。おかげで、わかった。
彼女の熱が、激しくなってゆく。
やがて膝をゆらしながらも、ガートルードは立ち上がる。
そして、自分で自分の頬をバチン! と叩いた。
「ガートルード……」
「大丈夫っ! もう、立ち直ったわ! 私、負けないから」
痛みだろうか。怖さだろうか。
あるいは、兄のことを思い出したからか。
ガートルードの目尻から、一雫の涙が流れる。
だが、頬を赤くした彼女の顔は、もうすっかり凛としていた。
「さっ! 片付けるわ」
ゴミを拾い始める。
ルアンは自分も涙をぬぐった。
そうだ。傷は治らない。でも、前に進むしかないのだ。
痛かろうが、辛かろうが。現実は待ってはくれない。
ガートルードの態度は、そう言っていた。
その態度は、ルアンの傷への立ち向かい方も示唆していた。
やる気が出たガートルードに付き合って、ルアンも部屋のゴミを拾う。
皿や瓶を集め、一箇所に固めた。
後はバスケットを用意して、洗い場に持っていこう。
「ねえ、ルアン」
ガートルードはぽつりと言った。
「私、とんでもない格好してたわ」
下着姿の女性は自分で呆れたように、へへっと笑っている。
「そうだね」ルアンは頬をかいた。
「待ってね、服着るから……あっ」
ガートルードはテーブルの上を漁り、テーブルはテーブルで物でいっぱいだったので、乗っていたものをドサリと床にぶちまけてしまった。
その中に、ボロボロのショルダーバッグがあった。
ルアンはそれを見たことがあった。
シェイマスの、バッグだ。
彼が戦場に持ち歩き、現地で手に入れた色々なものを入れていた、バッグ。
懐かしさが、去来する。ルアンはそれを拾い上げた。
だが、バッグの口が空いており、中身がポロッと出てしまう。ボロボロの空き缶が、床に落下した。
――中身が、コロリと飛び出す。
それは溶けたキャンディにも、潰れた弾丸にも見える、黒い物体だった。一見すると何でもない。
だが、ルアンはその物体の正体を知っている。
「ば、馬鹿な」
ルアンは絶句した。
「どうして、これがこんな所に」
「どうしたの? ルアン」
ガートルードが不思議そうに尋ねる。
しかし今は笑顔を返す余裕はない。
ルアンは蒼白な顔で、ガートルードを見た。
灰色の目をした彼女は、今は何の知識もなく、不思議そうにこちらを見ている。
ガートルード・グレイディ。
シェイマス・グレイディの、妹。
遺品は、遺族に送られる。
もし自分が死ねば、"これ”がガートルードの手に渡ることは、シェイマスも気づいていたはずだ。
シェイマスは何を思って、これを彼女に託したのだろう?
「これは――ガヴラの種だ」
ルアンの顔から血の気が引いた。
世界樹から取れた、神秘の種。
宿主に人ならざる力を与え、同時に飲酒を強制する、呪いの花。
戦後、軍には見捨てられた。
記録も種も、残っていない。
もう二度と手に入らないはずの、もの。
ガヴラの種が、そこにはあった。
ガートルードの目が、獣のように光った。
夜トイレしたくなった時のために、オマルも部屋にありました。トイレは家の外にある事が多かったのです。




