第7話 大釘(スパイク)
男の本名は知らない。
ある日突然この街に現れて、ある日突然私にお金をせびってきた。
抵抗すれば、遠慮のない暴力が行使される。
かつての私は恐れ知らずで、男の無遠慮な申し出を頭から跳ね除けた。正しくないことを、受け入れることが出来なかったのだ。
そしてその決断を後悔することになる。
男は私を押し倒し、殴りつけ、そして鋭くて大きい釘を取り出した。
テントを張るのに使うような、大釘だ。
「暴れてもいいぜ。食道がちぎれてもいいならな」
そして――そして、私の口の中にその大釘を「突き刺した」のである。
太い金属が喉の奥まで差し込まれた時の恐怖を、私は今でも忘れることができない。
喉は本来、そこまで大きく開かない。
口が裂け、喉の粘膜から血が流れた。
「全部入るまでやるぞ。それが俺流の罰の与え方だ。そして終わったら、友人になろう」
男は狂ったような笑みを浮かべながら、私の喉の奥へ釘を差し込んだ。
今までに受けたことのない暴力だった。
男のその行為は、私の尊厳を痛く傷つけ、誇りと立ち向かう心を破壊してしまった。
大釘。
それはその戦争帰りのギャングが、拷問の時に好んで使う道具の名前である。
「……スパイクさん」
私は暗闇の中、ジャケット姿で立つスパイクを振り返った。
スパイクは何か棒状のものを持ち、それを警察が警棒でやるみたいに、自分の手のひらに打ち付けている。何を持っているかは、薄暗くてよくわからない。
パン、パン。
人肌を叩く、規則的な音が鳴る。
「聞いたぜガートルード。お前あちこちで売り出そうとしているらしいな? 新商品を」
「どこで、それを」
「そりゃお前……それらの店は全部俺たちバード・レッグの縄張りなんだぜ。いくらでも知らせがあったよ」
スパイクはくっくっと笑う。
ギャングの笑いは、機嫌の良さから来ているとは限らない。それは一般的に、嘲笑である事が多かった。
私は後ずさる。
「何か問題があったかしら?」
「そりゃなあ。信用していた女に出し抜かれたんだ。飼い犬に手を噛まれた気分だぜ」
「出し抜いてないわ」
そして信用もしていないだろう。互いに。
「あんまり俺を馬鹿にするなよ。俺たちギャングがどんな商売をしているか、お前も知らないわけじゃないだろ? もしシノギをやりたいなら、"通すべき筋"ってもんがあるわな」
「筋?」
「そりゃそうだろ。まずはお伺いを立てるべきだよな? 俺に。密造酒を売ろうとしているが構いませんか? ってな。そして共益費を払う。そこまでやって初めて、お前は自由に動けるんだから」
こいつはいつもこうだ。
何者でもないくせに、私たちを支配しようとしてくる。関係ないくせに。
男への恐怖より、怒りの感情が上回る。
「どうしてそこまでしなくちゃいけないのよ。あなたと私は関係ない。親でも恋人でも、雇い主でもない。何をするかは、私が決めるわ!」
言ってすぐに後悔した。
この三年間ずっと耐えてきたのに、つい気持ちが高ぶってしまった。半端な成功が、私の抑制を緩ませる。
スパイクは案の定、気に障ったようだ。
「――そうか」
スパイクは首を鳴らした。
パン、パンと棒を打ち鳴らすのも、やめない。その奇妙な音響は、どんどん速度をましてゆく。まるで時計の針が、どんどん壊れて早くなっていくみたいに。
パン、パン。
パン、パン、パン。
パン、パン、パン、パン。
パン。
「俺たちの関係は三年前に決していたと思ってたが、どうやらまだ足りなかったようだな」
スパイクはその棒を、しっかりと握り込む。
手のひらに打ち付ける音が、止まった。
何が握られているのか。
私はもう、わかっている。
スパイクは大釘を握ったまま静かに言った。
「釘はいい。突き刺して殺すことも、壊すこともできる。心だけを傷つけることも。戦場で俺は拷問担当だった。敵国の野郎を釘で串刺しにして、たくさん殺した。ひでえもんさ。……だがおかげで、どのくらいで人が死ぬか、詳しくなった。"どこまでなら”死なないかもな」
スパイクは逃げようとする私の髪を掴み、路地裏へと引きずり込む。
抵抗はした。
しかし、たくみに髪を引っ張られて、痛みで逃れられない。
スパイクは私を地面に押し倒した。
私は叫ぼうとする。
しかし男の持つ大釘の先端が、口に突っ込まれ、言葉を封じられる。
三年ごしの恐怖が私を支配した。
「また折檻しないとな。前回は一番奥まで入ったかな? 色んな奴にやったからあまり覚えてないが、まあ行けるとこまでやってみるとしよう」
嫌!
私は身をよじった。
しかし口いっぱいに広がる鉄の味が、抵抗するべきでは無いと伝えてくる。
暴れれば歯が折れ、逃げれば喉が裂ける。
私は知っていた。
こうなった時に出来ることは一つしかない。
終わるのを待つことだけだ。
私は涙を流した。
こういう時のためにルアンを仲間にしたのに、間の悪いことに別行動だ。
助けてくれる人は誰もいなかった。
助けて。
助けて。
助けて――お兄ちゃん。
私は押し寄せる苦しみに耐えながら、兄の事を思った。
だが、彼はもう死んでいる。
妄想の中でしか、会うことはできない。
「辛抱しろよ。ガートルード。そして終わったら、改めて友人になろうな」
スパイクの意味不明な理論が耳に届く。
そしてそこから、男の言う「折檻」が始まったのだった。
遠くで誰かが言い争っている音が聞こえた。
「あんたガートルードのボディガードでしょ? 何でついて行かなかったわけ?」
「ご、ごめん。僕も別の店へ営業に回ってたんだ。今思えば、一緒に行くべきだった」
「ガヴラとかいう不思議な力があっても、現場にいなきゃ意味ないじゃん」
「おっしゃる通りです……」
「これでガートルードに後遺症が残ったらどうする? もう密造酒計画はおじゃんだよ」
「うーッ、ウーッ」
目を開けると、ルアンとロレッタが言い争っていた。
厳密にはロレッタがルアンを叱責し、やられっぱなしのルアンは落ち込んでいる。出会って日が浅い二人がするにしては、随分激しい喧嘩だ。
何かわからないけど、落ち着きなさい。
そう言おうとして、私はくぐもった嗚咽を漏らした。
「ゴボッゴボッ……」
「ガートルード! あんた、気がついたんだね」
ロレッタが安堵の表情を浮かべる。
ルアンは情けない顔で、こちらを見た。
「ごめんよガートルード。僕がついてないといけなかったのに」
何のことだ? 私は首を傾けた。
そこで私は自分がベッドに寝かされ、顔中に包帯が巻かれているのに気づいた。口と顎を保護するように、ガーゼで覆われている。
「さっきまでお医者さんに来てもらってたんだけど、怪我は大したことないってさ。でも、唇が裂けてるし、あちこち殴られたみたいになってる。誰かに襲われたんだね」
ロレッタが私の頭に手を置いた。
「何があった?」
私はぼんやりとした頭で、目が覚める前のことを思い出そうとした。
何があった? 何かとんでもなく屈辱的な事があったような気がするが、脳が思い出すのを拒んでいる。何となく――嫌な感じだ。
私は困った顔で首を振った。
ロレッタも困った顔をした。
「まーまー、口がガーゼで塞がれてるからね。治ってからでもいいけど」
ルアンはロレッタの方をチラチラ見ながらも、おずおずと言う。
「そういう訳にもいかないよ。誰かに襲われたんだとして、それが通りすがりの暴漢なのか、ガートルード本人を狙った犯行なのか。その辺を確認しないと。もしガートルードを狙ったものなら、また襲ってくるかもしれないよ」
「その時はあんたが守るんしょ? ボディガードさん」
ロレッタは冷たい。役割を果たせなかったルアンに怒っているようだ。
私は身体を起こして、状況の理解に努めた。
ここは私の部屋だ。そしてどうやら私は何者かに襲撃されたらしかった。
身体のあちこちに、まるで地面を引きずられたような擦り傷がある。
背中が痛い。口が痛い。喉が痛い。
だが、胸や腹には目立った外傷は無いようだった。
いったいどういうこと?
遡れる一番新しい記憶を遡る。
密造酒を売るためにスピークイージーに行った。……これは覚えている。
メイリーと再会し彼女の彼氏の店を紹介してもらった。……これも覚えている。
そしてそれから――どうなった?
「ガートルード。頷くか首を振るかで答えて欲しいんだけど、君を襲ったのは知り合い?」
ルアンの大きな目が、私を覗き込む。
それはこっちが知りたいところだ。
私は眉をひそめた。
なんと言っていいかわからない。
「だからそういう事を聞くのは、今じゃなくてもいいって」
ロレッタがイライラしたように、スパナを取り出した。
ルアンは目を丸くして後ずさる。
「ぼ、暴力はやめよう!」
「ん? ああ、違う違う。これは車の整備に使ってるあたしの私物。凶器じゃないって。この店のオンボロ車を修理しようと思ってさ」
ロレッタは考え事をする時、スパナを弄ぶ癖がある。
クルクルと曲芸師のようにスパナを回して、思索にふけるのが好きなのだ。
ロレッタはスパナを片手で持ち、もう片方の手の平に打ち付ける。
パン、パン。
音が、鳴る。
その動作は、見た事のある誰かに似ていた。
「ともかく、今はガートルードはゆっくり休む。ルアンは護衛をしっかりやる。それでいいじゃん。――あれ? どうした、ガートルード」
音が、鳴る。
パン、パンと、それは私の頭の中だけで早くなって行く。
時計の針が進むように。
時計の針が狂っていくように。
パン、パン、パン。
パン、パン、パン、パン。
パン、パン、パン、パン、パン。
頭の中で、反響する。
その反響が、心の奥にしまい込んだ記憶を、掘り起こしていく。
大きな釘が、私の喉に押し込まれる。
男が笑い、金属の棒が口内を押し進んでいく。
やめてとも言えない。
ただ、涙を流しながら、終わりを待つことしかできない。
夜の、出来事だ。
思い出した。
思い、出した。
「ちょっ、本当にどうしたんだよ!?」
ロレッタが心配そうに言う。
その手に握られているものは、いつしかスパナではなく大釘だった。
スパイクの使っていた大釘だ。
私の目には、そう見えた。
「まずい、発作を起こしているよ! 押さえつけて」
ルアンが慌てて私を押さえようとする。
その腕が一気にゴツくなり、毛が生えた。
スパイクの腕みたいだ。
私の目には、そう見えた。
荒々しく、遠慮の無い腕。
私は叫んだ。
激しく暴れ、顔に着いている包帯を剥ぎ取る。
半狂乱だった。
いや、ほとんど狂っていた。
恐怖で、怒りで、嫌悪感で。
嫌だ。
嫌だ。
涙が流れ、嗚咽が漏れる。
「辛抱しろよ。ガートルード」
スパイクが囁いた。
その時私の心は、完全に折れていた。




