第5話 スピードキング
T型フォード = 1908年に世界で初めて「大量生産」された自動車です。
セオドアが仲間になってから、数日が経った。
今日は彼が手配した修理屋が来る日だ。
待っていると、地下室に、金属と油と埃の匂いが混じった。古びた階段の上から、ごつごつとした足音が響いてくる。
「おーい、ここが“伝説の蒸留所”ってやつか?」
現れたのは、真っ黒な作業着を着た男だった。
顔にうっすらと油がついていて、肩から下げた工具鞄がギシリと鳴る。笑っているが、どこか野性味のある目つきの男だった。
セオドアから聞いていた修理屋に違いない。
「ジャック・ロウ。あなたが“グリース”?」
「そいつはもう古い名前だと思ってたが……まあ、仕事で呼ばれるうちは本物ってことだな」
男は地下室に一歩足を踏み入れ、鋭い視線で地下室内を一瞥した。
酒造設備、というにはあまりに小規模な鍋と樽が、ちょこんと置いてある地下室だ。
グリースはやれやれと首を振った。
「話はホールデンから聞いてる。まさしく家庭用って感じだな。こりゃゼロから大幅な改装が必要だ。だが、ただ規模をデカくすりゃいいってもんじゃねえ。でっかい設備をそのまま使えば、確実にご近所にバレる」
「まあ、そうよね……」
私は口をへの字にした。
グリースは室内を動き回って、壁や床の状態を確認し始めた。そうしながらも、説明は続く。
「まずは排気だ。裏の井戸、使ってねぇなら、通気口をそっちに繋げる手がある。換気はそれでよし」
グリースは部屋の壁を叩き、つぶやいた。
「それと──冷却装置は水冷じゃなく、空冷式にしよう」
「空冷の方が静かなの?」
「いや、逆だ。空冷はファンが回るぶん、音は出る。だが──屋外に置ける。目立たない場所に囲ってしまえば、近所の家電の音と区別はつかない。つまり“目立たず、隠しやすい”ってわけだ」
「なるほど……音をごまかすのね」
「そう。バレないのに必要なのは“静けさ”じゃねぇ、“違和感のなさ”だ。勘のいい連中は、“妙な静けさ”にだって反応する」
私は感心して、彼の顔を見つめた。
この男、ただの修理屋じゃない。
グリースはカタログを開きながら、こちらに目を向けた。
「設備を運び込んでからの改造も任せとけ。静音加工とダクトの引き直し、あとサイズ違いのパーツの交換。三日もあれば仕上げてやる。……ただし」
口にくわえた煙草をくいっとずらしながら、彼はニヤリと笑った。
「俺に二度手間はない。一発勝負だ。文句は後で聞く」
「いいわ、それで」
私は頷いた。こういう男は、仕事を任せたら口出しせず信じた方がいい。
「それから──支払いは?」
「ホールデンがまとめてるはずだ。あいつ、意外とこういうとこはキッチリしてんのさ。じゃ、明日朝から入る。あんたも掃除ぐらいしといてくれよ? 埃吸って酔っ払いたかねえからな」
「了解」
グリースはもうこちらを見ていなかった。工具箱からモンキーレンチを取り出し、早速何かの寸法を測りはじめている。
私はふっと息をついた。彼の仕事ぶりに安心する一方で、自分が始めようとしていることの重大さを改めて実感した。発覚すれば罰金どころか投獄も覚悟しなければならない。
だが今はもう引き返せない。
「あのー……僕の寝る場所は?」
後からやって来たルアンが、モジモジと言った。
「設備を大きくするなら、もう地下室で寝泊まりできないよね?」
あ、忘れてた。
「いや、本当気にしないで。地下室が無理なら、庭で寝るから……」
申し訳なさそうにルアンが言うが、それは逆に目立つからやめてほしい。
私は嫌がるルアンの手を引いて、自宅の二階へと上がっていた。
「一階のリビングでもいいけど、それだと流石に不便でしょ。個室を用意してあげるから、そこで寝泊まりして頂戴」
「個室がないから地下室だったんじゃないのかい?」
もっともな疑問である。
私はなんと言うべきか悩んだ。
「うーん、なんて言うか故人の部屋でね。あんまり人に貸すのはどうかと思って」
「じゃあいいよぉ。僕は庭で寝るよぉ」
「それだと私が困るの!」
いい加減遠慮されるのもめんどくさい。
私はほとんど三年ぶりに、兄の部屋を開けた。
埃っぽく、質素な部屋が姿を表す。
壁には、どこか別の星の怪物でも描いたようなポスター。ベッドと木製の棚。テーブル。水差しの置かれたウォッシュスタンドなどがあった。
兄の好きだったラグビーボールが飾られているのに、何かを感じそうになるが——それは手を振って打ち消す。
感傷は、もういい。今はそれどころじゃない。生きている人間のために、部屋を使わなくては。
兄もそう言うだろう。
部屋に入ると、私は兄の遺品を片っ端からまとめて、自分の部屋に移した。兄の服や、ベッドや、家具はそのままでいい。なんならルアンが使えばいい。
回収したのは、戦場で兄が最後に持っていたバッグや、手紙などである。
兄が戦死した後、軍から送られてきた品々だ。見返す気にもなれなくて、兄の部屋に入れてから、ずっとそのままにしていた。
それらを見返すかは別として、流石に知り合って四日の他人に任せる気にはなれない。信頼しているとはいえ。
遺品を回収してから、私はルアンを部屋に通した。
「ほら! ここがあなたの新しい部屋よ。好きに使ってちょうだい。服も勝手に着ていいからね」
ルアンは恐る恐る部屋に入りながら、何かに気づいたようだった。
「前にお兄さんがいるって言ってたよね。置いてある服とかラグビーボールとか……若い男の人のものだ。故人の部屋って、そういう事?」
「まあね」
私は何でもないように聞こえるよう努力して、返事した。
何気ない演技を崩してなるものか。未だに兄を失った悲しみを受け入れられてないとは、恥ずかしくてとても言えない。
ルアンは壁にかかった兄の写真を見つけて息を飲んだ。
「この人が、君のお兄さん?」
「そうよ、シェイマス・グレイディ。世界大戦で戦死した、私の兄」
私の説明を聞いたルアンは、震えはじめた。
何か強迫観念に囚われたように、深刻な顔で独り言を呟く。
「そうか……そうか。グレイディっていうファミリーネーム」
「どうしたの?」
「い、いや。何でもないよ」
そう言ったルアンは、しばらく写真から目を離さなかった。
まるで何かを思い出そうとしているようだった。
やがて彼は無理やり笑顔を作る。それから部屋に置いてある服を物色し始めた。
「いや〜有難いなぁ。何故か僕と同じようなサイズの服ばかりだし、着させてもらうね」
変な人だ。
それはいつもの事か。
「ええ、好きにしてちょうだい」
態度のおかしいルアンを残し、私は自室に戻る。
兄の遺品を整理しなければならないからだ。
ボロボロのショルダーバッグは、戦場で兄が使っていた物だ。中にはドロップ缶、タバコ、時計、ペンなどが入っていた。それらを見たのは初めてではない。軍から渡された時に、一通り確認している。
でも、一応あることを確認しただけで、まじまじと品々を見たわけではなかった。
何とも新鮮な気持ちで、私は兄の遺品を触る。
少し前まで、どん底で希望が無かった。
そんな時にはとても見る気になれなかったが、今では多少状況が好転して、心に余裕が生まれている。
「兄さん。あなたの事、忘れられないけど。今、ちょっと気が紛れているところよ」
一人で呟きながら、ドロップ缶を持った。
カラン、と中に何かが入っている。
キャンディだろうか? 取り出してみると、それはクルミほどの大きさの、黒い塊だった。
黒くて、とても硬い。
溶けたキャンディにも見えるし、潰れた弾丸にも見える。
どちらともハッキリしないが、すぐに興味を失い、私はそれをドロップ缶に戻した。
それより、兄の残した手紙の方が気になった。書かれた内容は既に見たはずだ。しかし、動揺していた時期だったから、全く内容が思い出せない。
私は兄が私に向けて書いた手紙を手に取った。その時、カウンターの呼び鈴が鳴る。
チーン。
たとえ二階にいても、聞きなれた音を聞き逃すことはない。お客さんだろうか? いや、また呼び鈴が鳴った。
チン、チン。短く二回。
これはセオドアと先日決めた、合図の呼び鈴だった。
彼が来たのだ。
私は整理作業を中断して、一階へと降りてゆく。
カウンターで待っていたセオドアは、私を見て帽子をとった。
「よう。ガートルード。昨日ぶりだな」
この男は、イメージ通りマメであり、仲間になってからは毎日この店に訪れている。
「セオドア。どうぞ入って。グリースが地下室で作業始めてるわよ」
「そりゃ良かった。彼は俺の知る中で一番仕事の早い修理屋だ。口も硬い。口が悪いのが玉に瑕だが——まあその分誰も彼に話しかけないから、秘密を守って欲しい俺たちからしたら都合がいいな」
そう言いながら、セオドアはカウンターから動かない。
「どうしたの?」
セオドアは思案するように、カウンターに置いてある秤を持ち上げて、もてあそんだ。
店にある、コーヒー豆やビスケットを量り売りするための器具だ。
「——改装も大切だが、販路について相談したくてね。作った酒を売る場所と、運ぶ方法を考えないといけない」
「とりあえずうちの店で売ろうかと思ってるんだけど……」
「ギャングがちょくちょく見回りに来るのにか? やめておいた方がいい。密造酒ビジネスは足がつかない方が、圧倒的に長く続けられる。製造する以上、販売場所は分けるべきだ」
うーん。
それは考えていなかった。
「何かコネでもある?」
「いや、ない。だから相談に来た。ガートルード。あんたの友人や親戚で、違法酒場をやってる奴は居ないのか?」
私は腕を組んで考えた。
ぼんやりと、壁に張られた古びたお酒のポスターを眺める。禁酒法が制定されてから、要らないのに、貼りっぱなしだった。それに気づいて、ビリビリと剥がす。
知人や友人に違法酒場関係者はいない。
というか……そもそもあまり友達がいない。
私の唯一の友達は、幼なじみのあの女だけだ。
——そうか、あの女の事を忘れていた。
「彼女」のことを思い出した時、私は一つの問題が解決しそうな予感を感じていた。
販路と運転手。ふたつ問題がある。そのうちの一方を。
「まあ、販路については後で考えましょう」
「おいおいおい。悠長だな」
「それより優先すべきことがあるってだけよ。先に運ぶ方法を考えましょう。セオドアの部下とか使えないの?」
「勘弁してくれ。俺はアイツらと仕事したくないから、こんな違法の副業に手を出しているんだ。野蛮で短気で、下世話な奴らさ。女を攫って襲ったり、カツアゲしたり……そういうことをなんとも思ってない奴らだ。奴らには密造酒ビジネスの事は言ってない」
私は頷き、クシャクシャに丸めたポスターをゴミ箱にポイと投げ捨てた。
「そう。だったら、運転手に一人心当たりがあるの。私に任せてちょうだい」
ストームヘイブンの街外れには車工場があって、街で使われる多くの車はここで修理されていた。
カチュマレク・モータース。
家族経営で兄弟姉妹合わせて九人いるが、その誰もが車の整備士免許を持っている。
工具のジージーという音でうるさい工場を、私は歩く。通り過ぎる一人一人に挨拶し、顔を確認しながら目的の人物を探していた。
「お姉ちゃん? さあ、どこかにはいると思うけど」
「ガートルード! あいつに友達として言ってやってくれないか! レースはやめろって」
兄弟姉妹の話を聞いたり聞き流したりしながら、私は徐々に奴の行動範囲を絞ってゆく。
やがて、工場の隅にスクラップになったフォード車が打ち捨てられているのに気付いた。その上で昼寝をしている、目的の女を見つける。
私は息を吐いた。
「ロレッタ。起きなさい」
肩の辺りで切り揃えられた金髪に、緑色の目をした女である。とても白い肌にそばかすを浮かび上がらせ、体のあちこちに油汚れが染み付いている。灰色の作業着に身を包み、胸元を大胆に開けていた。
ロレッタ・カチュマレク。
私の幼なじみにして、数少ない友人の一人だ。
女は私の声を聞いて、ゆっくりと目を開けた。
「おーおー、誰かと思えば。潰れそうな雑貨屋の頑固者店主さん。元気〜?」
「潰れそうな雑貨屋の店主なんだから、元気ではないでしょ」
「そうかもねぇ」
ダウナーなテンションで、ロレッタは笑った。
私は車の屋根をよじ登って、彼女の隣に座る。
「久しぶりだね。あんた全然顔出さないから、忙しくてあたしの事なんて忘れたかと思ったよ」
ロレッタは私の顔を珍しそうに見ながら言った。
私は肩をすくめる。
「忘れてないわよ。忙しかったのは本当だけど」
「ほえー。そんなあんたがわざわざ街外れのうちの工場に来るなんて、どういう風の吹き回し? 雑貨屋、潰れた?」
「潰れてない!」
私は声を荒らげた。
相変わらず口の悪い女だ。
「全く……ロレッタ。あんたこそ最近どうなのよ? あんたを見つけるまでに兄弟たちに散々レースをやめさせろ、って言われたけど。まだ車のレースに出てるの?」
ピクっと、ロレッタの眉が動いた。
彼女の口元には、人を小馬鹿にしたような笑みが浮かべられている。しかしその質問は、この女を多少落ち込ませたようだった。
ロレッタは肩をすくめて、両手を広げた。
「残念ながら、最近はレースになんか出てないよ。兄弟たちはあたしが嘘ついてると思ってるけどね」
「あれ? そうなの? あんた、あんなにスピード狂だったのに」
この女は、小さい頃から車に囲まれて育ったせいで、運転技術が並ならない。
九人いる兄弟姉妹の中で一番運転が上手く、そしてスピード狂いだ。
危険を顧みないドライブに誘われ、何度死ぬかと思ったことだろう。
恐ろしい青春の思い出だった。
ロレッタはつまらなさそうに唇を尖らせた。
「最近のレースは参加資格が男ばっかりでさ。まあ、あたしが優勝しまくって、恨みを買いまくったせいなんだけど。……おかげでこの街のレース業界からは干されちゃったんだよね」
大方、勝利しても相手を煽りまくったのだろう。
容易に想像できる。とはいえ実力を発揮する場がないのは可哀想な話だ。
これは助けてやらなければ。
利害の一致が上手く行きそうである。
「それで、今は実家の車工場で、やる気もなくダラダラ昼寝してるってわけね」
「……まあまあ。ある意味真実だけど、そんなに人の心をえぐるもんじゃないよ」
冷めたテンションでロレッタは言った。
こいつは私と同い年だが、小さい頃からこんな感じに飄々としている。
だが、運転への愛は紛れもなく本物だ。
それだけは熱い魂を持っている。
「ねえ、暇なら手伝って欲しいことがあるんだけど」
「雑貨屋? やめとく。客商売とか性にあわないし」
ロレッタはポケットからスパナを取り出した。
車の整備に使うものだが、それを鉛筆でも回すみたいに、器用にクルクルと回し始める。
私はその回転を見ながら言った。
「運転手をやって欲しいの」
「何の? 雑貨の宅配?」
「いや、実は別のものを取り扱う予定で」
「どういう事さ。ハッキリ言いなよ」
私はキョロキョロ辺りを見回した。
聞き耳を立てている人はいない。
「まあ、お酒なんだけど」
ピタッと、スパナの回転が止まった。
「あーらら、犯罪じゃん。ガートルード。あんたそこまで追い詰められてるの?」
責めるような口調だ。
だが、ロレッタの目が好奇心で煌めいたのを、私は見逃さなかった。
「もう人は集まってる。お酒も完成したわ。でも運転手がいなくてね。知ってるかわからないけど、密造酒を運ぶのってとても危険なの。ギャングに奪われないように逃げないといけないし、警察に怪しまれないように運転しなきゃいけない。それでいて、敵対チームに先に買い取られないように、速く目的地へつかないといけない。スピード狂いのあんたにピッタリの仕事だと思うんだけど」
「ふうん」
気のない返事をするが、心惹かれているのはわかっている。
レース大好き女がレースの機会を逃すわけがない。
ただし、ここであまり勧めすぎてもいけない。
この女は猫のように気まぐれで、追いかけるとすぐに逃げてしまう。距離感が大切なのだ。
私はパンパンと埃を払って、立ち上がった。
「ま、興味があったら顔だしてよ。うちの雑貨屋がアジトだからさ」
「……そうだねぇ。気が向いたら行くよ」
無表情にロレッタは答えた。
しかし私にはロレッタの心のしっぽが、犬のようにブンブン振られていることがよくわかっていた。
結局、ロレッタがうちの店に現れたのは、その翌日の事だった。
これは、彼女にとっての最速記録である。
こうして私の幼なじみロレッタ・カチュマレクは、我々の仲間に運転手として加入した。
後は、販路を見つけるだけである。
当時は車と馬車が道に混在していました。




