第2話 浮浪者
スピークイージー = 違法酒場
「家はないよ。お金もないし、服もないんだけど」
落ち着いた様子で、浮浪者は答えた。
私は腕を組んで、浮浪者をしげしげと観察した。
茶色の髪に、茶色の目をした、細身の男性だ。先ほどまでおどおどして視線も朦朧としていた時は気づかなかったが、その目はとても理性的で、話し方も教養が感じられた。
「どうやって暮らしているの?」
「まあ、たまに日雇い労働したり、誰かに恵んでもらったりかな。何せお酒がないと頭がおかしくなるものだから、なかなか固定で雇ってもらうっていうのは難しくてね」
浮浪者は酒瓶をくるりと回して、こっちに手渡してくる。
「ありがとう。本当に助かったよ。一日一回は飲まないともう、正気が保てなくて」
「その、花。なんて言ったかしら……が、ガヴ」
「ガヴラの事かい?」
「そう。それは一体何? そんな花聞いたこともないわ」
「うーん、戦争ではちょこちょこ使われてたんだけど、知らない? 世界大戦が始まるちょっと前に大陸の方で発見されたんだけどなぁ」
聞いたことが無かった。
もしかしたら新聞には載っていたかもしれないが、内容の半分はでっち上げなので、誰も信じていないだろう。死者のインタビューを載せたり、ありもしない陰謀論を煽ったりする業界なのだ。
しかし、そうか、戦争か。
私は少し聞きづらくなった。
戦争でトラウマや辛い記憶を持つ人は多い。
「あの、もしかしてあなた、戦争に行ってた?」
浮浪者は手のひらを上に向けた。
その手のひらにふわりと、赤い花が乗っかる。
「まあね。お陰でシェルショック(PTSD)で、アルコール中毒さ」
はっはっは、と青年は笑った。
全然笑えない。
私が困った顔で黙ると、浮浪者はひらひら手を振って踵を返した。
「それじゃあ、機会があればまた会おう。さようなら……」
「ち、ちょっと待って」
浮浪者を呼び止める。
「どこに行くつもり?」
「正気があるうちに日雇いバイトをしようかと思ってね」
冗談じゃない。
こんな貴重な人材をここで野放しにはできない。
「あなた、うちで働かない?」
「働く?」
そこで初めて浮浪者は私に興味を持ったような反応を示した。
首を少し傾け、茶色の大きな目がこちらを探るように開かれる。
「えっと……君は」
「ガートルード。ガートルード・グレイディよ。雑貨屋を経営しているの。仕事がないなら、うちで働いたらどうかなって」
「雑貨屋か。ありがたいんだけど、この薄汚れた格好で客商売は難しいと思うよ。それにどうしてそんな申し出をしてくれるんだい? 言っちゃあなんだけど、こんな見るからに廃人みたいな人間を雇うなんて……」
「それは……」
私は言いよどんだ。
いきなり自分の目的を話すには、私たちの出会った時間はあまりにも短い。犯罪行為のために力を貸してほしいとは、正直に話しにくかった。
どうしよう。
言い訳を考え、そして決めた。情報を小出しにしていこう。
「最近物騒でね。この街に「バード・レッグ」っていうギャングチームがいるの知っている? あいつらが私の店の売り上げをかすめ取っていくのよ。だから用心棒が欲しいとずっと思っていて。それでたまたまあなたを見かけたってわけ」
「なんだか聞いたことがあるよ、その名前。そうか、道端に転がってお酒を飲んでいるだけだと気づかなかったけど、今そんなに治安が悪いんだ。この街は」
浮浪者は納得がいったように頷いた。
「でも……ガヴラの能力は、少々燃費が悪くてね。お酒が定期的に必要になるんだ。君の期待するように毎回ボディーガードするのは難しいかもしれないよ」
「ああ、それなら!」私はほっと一息ついた。どうやら上手くいきそうだ。
「さっき飲んだ「失敗作」でよければ、うちに山ほどあるわよ」
「あなた、名前はなんていうの?」
浮浪者は何週間も風呂に入っていないらしく、隣で歩くとかなり匂った。
家に連れて帰る前に、公共入浴所と散髪屋に連れていく事にする。
これから護衛として近くに置くなら、最低限の身なりはしていて欲しい。
表通りに入浴所と散髪屋が隣接した場所がある。そこへ向かいながら、私は尋ねた。
「ルアン・ロビンソン。ルアンでいいよ」
「よろしくルアン。……歳は?」
「23」
「私と3つしか変わらないじゃない」
「てことは君は26か」
「いや、どう見ても私の方が歳若いでしょ。20よ20」
「うわっ、ごめんごめん」
浮浪者はペコペコと頭を下げた。
訂正したものの大して気にしていなかったので、私はヒラヒラと手を振った。
「冗談よ。なんでかしら、昔から年上に見られてばかりなのよね」
心労が顔に出ている可能性があるが、落ち込むのでその点に関してはあまり深掘りしたくない。
入浴所に着いたところで、ルアンに何セントかのお金を渡した。
「ほら、必要経費ということでいいから。シャワー浴びてきて」
「ありがたい。身体を洗うなんて何時ぶりやら」
「隣の床屋に行ってるから、終わったら来て」
手を振り、ルアンと別れる。
「さて……」
私は床屋の扉を開いた。
自分も散髪したかったから……ではない。別の目的のためだった。
敵情視察というやつだ。
「いらっしゃ〜い」
床屋の店主がこちらをチラリと見る。店主は別の男性を散髪中で、作業を続けながら声をかけてきた。
「散髪かい?」
私は返事を考えた。
確かこの言い方でいいはずだが。
「それ以外でお願い」
「それ以外ってのは――」
「奥に行きたいの」
店主は頷いた。店の奥の扉を顎でしゃくる。
「階段を降りたところだよ。内密にね」
禁酒法ができてからというもの、酒場は表立っての営業が禁じられてしまった。アルコール度数0.5パーセント以上の酒は、売るのも買うのも禁止された。
だが、人の欲望は無くならない。
禁じられれば禁じられるほど、人々は強くそれを求める。違法酒場は、今やどの街のどの通りにも当たり前に存在した。
それらはアイスクリーム屋の奥や、レストランの隠し部屋や、あるいは散髪屋の地下室にあった。
私はゆっくりと階段を降りてゆく。
ここには来たことがない。しかし、他の店には行ったことがあった。
何件か回って、酒を造るヒントを得ようとしたのだ。
どんな形のグラスに入っているのか。どんな内装なのか。男が経営しているのか。女が経営しているのか。そうした関係ない所まで、つぶさに観察して、何かを得ようと努力していた。
ルアンが体を洗い、髪を切るまでそれなりに時間がかかるだろう。どうせ暇になるし、いつもやっている視察をここでもやっておこうと思ったのだ。
階段を降りると、そこには広い部屋が広がっていた。
薄暗い部屋にバーカウンターがあり、丸テーブルもいくつか置いてある。夕方ということで客もそれなりにおり、老若男女関係なく様々なタイプの人が利用していた。
かつてはバーやサルーンに行くのは、男性がほとんどだった。しかし禁酒法ができてからは、何故か女性も酒場に集まり、違法な酒を楽しむのが一般的になっていた。
ウイスキーやラムの嗅ぎなれた匂いが、私の鼻をさす。数ヶ月前まで店でずっと取り扱っていた、懐かしの匂いだった。
「何にしますか?」
カウンターに座ると、バーテンダーが声をかけてくる。私はウイスキーを甘いジュースで割ったものを注文し、それをちびちびと飲んだ。
その時である。
「あれ? ガートルード! 久しぶり〜」
後ろから声がかかって、私は振り返った。
そこにいたのは歳若い女性だ。
短く切られた金髪。黒々としたアイシャドウ。肩まで出した奔放なデザインの服。近頃流行りのフラッパーと呼ばれるスタイルだった。
私はその女性の顔をしげしげと見た。
誰だ?
「覚えてないの〜? スクール時代に同じクラスだったじゃん」
正面から声を聞いて、やっと私の脳みそが動き始める。
女の口元のホクロには、見覚えがあった。
「あ、メイリ―! メイリーでしょ? ごめん。なんだか印象が違ったから。覚えてるわよ。久しぶり」
私の記憶では、お下げ髪にメガネの大人しい女性だったのだが。卒業してからかなりスタイルを変えたようだ。
「久しぶり〜。そういうガートルードは全然変わらないわね。おかげで一目でわかったわよ」
うれしいんだかそうじゃないんだか判断に困ることを、メイリ―は言った。
私はメイリーの高そうな靴をチラッと見た。
「一人?」
「違うわよ。彼氏と映画に行く約束をしてて、待ち合わせ中なの! まあ彼氏って言っても三番目くらいの人なんだけどね。今並行して何人かとお付き合いしてて、もう毎日忙しくて忙しくて。昔の友達に連絡とる暇もないから、今日こうしてガートルードに会えて嬉しいわ」
「か、彼氏が複数?」
「今はそういう時代よ。今の時代の新しい女は、自由を象徴していないとね」
まったく違う世界の話を聞かされて、目が眩んだ。何を言ってるんだ? こいつは。
旧時代的価値観とは相いれぬ奔放さだが、こうした自由を謳歌する女性も、今はいるのだ。
まあ、あり方はどうあれ、そのエネルギッシュさは見習いたいところだ。
ところで……
私はふと、メイリーの服も、ネックレスも、ティファニーなどのブランド物である事に気づいた。
キラキラして、繊細な装飾が施されたデザインだ。
それに絹のストッキング……あの質感は本物ではないか? だとしたらかなりの高級品だ。
ずっと同じ作業用のエプロンを身につけている自分が、急に恥ずかしくなってくる。
メイリーの爪はマニュキアで紅い。
私は水仕事であかぎれのある自分の指を握りしめた。
メイリーは黒い口紅の引かれた口でニヤッと笑った。
私はすっぴんだった。
「ガートルード。あんたは今……幸せ?」
「……どうかしら。生きてはいるけど」
「ふーん。恋とかしてる? 輝いてる? 若い頃なんてすぐ終わってしまうわよ! 限られた時間をあらん限り楽しまないと。義務ばかりを果たしてても、幸せにはなれないわ」
「そうね。でも、あんまり遊ぶ余裕もなくてね」
「ああ、実家が雑貨屋なんだっけ? 大変ね〜あたしにはとても真似できないわ。まあ、真似したいとも思わないんだけどね」
メイリーに悪意があるのかどうかは関係ない。
自分より劣った女である私を馬鹿にしているようでもあるし、あるいは本当に屈託なく思っていることを口にしているだけかもしれない。
しかし彼女がどう思っているにせよ、メイリーの言葉の一つ一つが私のコンプレックスを刺激する。
自由なお金で、自分の好きなように買い物したことなど、これまで一度もない。
オシャレもまるでしたことが無い。
私は俯いた。
メイリーから見たら、私が羨ましい部分など何一つないに違いない。
「まあ、あんまり言いたくは無いけど、こういう店に来るならもうちょいオシャレした方がいいよ。ほら、このエプロンなんて、ツギハギまみれじゃない。こんなのなら買い直した方が早くない?」
「そ、そうかな」
「そうよ〜」
私は歯を食いしばった。
「そんな事ないよ」
その時、若い青年が声をかけてきた。
茶色いふわふわの髪に、気品のある顔立ちをした青年である。
くりくりと大きい目で私を真っ直ぐ見て、子どものような笑みを浮かべた。
その笑みがあまりにも屈託が無かったので、息が止まる。
「べつにいいじゃないかそのエプロン」
「え?」
「似合ってるよ。アンティークって感じだ」
メイリーは突然の乱入に驚いたようだ。
目を見開き、口を半開きにして、ぼけっと青年を見つめている。
それを横目に私は言った。
「アンティークって……褒められてる感じしないんだけど」
「いやいや。ワインは寝かせれば寝かすほど美味しい。服も寝かせれば寝かすほどかっちょよくなるのさ」
そうだろうか? 私は全然納得いかなかったが、メイリ―には何故か伝わったようだ。
悔しそうにメイリーは言う。
「も、もちろん。それはわかってるわよ。あたしが言いたかったのは、もっと旬のオシャレした方がいいって話で〜」
「君の意見もひとつの考えだね。でも、僕とは合わないかもしれない」
「なによあんた。あたしに文句が言いたいの?」
「いや、色んな意見があって面白いと思うよ。ただ、僕がもし審査員なら、君ではなく彼女に点をあげるよ」
私に何の点数がもらえるというのだ。
メイリーは腹を立てたように、何かを言い返そうとした。しかし、青年はそれより前にペコペコと頭を下げた。
「ごめんごめん。言い過ぎたよ。相手の気持ちを考えずに思ったことを言うのはよくないね」
「? まあ、わかってくれればいいのよ~」
メイリ―は一瞬機嫌がよくなった。
だが、青年の眼には皮肉な色が込められている。
いわくありげに、私と、メイリ―を見ている。
その視線で、メイリ―は青年の嫌味に気づいたようだった。
「……そう。あたしもガートルードの気持ちを考えていないって言いたいのね」
「あ、ばれちゃった!」
青年は子供のような顔で、でへへと笑う。
それで私はやっと気づいた。
青年は私を助けようとしているようだ。ちょっと変な奴だが。そのためにわざわざ乱入してきたのだ。
メイリ―は何か言い返そうとしたが、その時には青年は彼女に興味を無くしているようだった。言いたいことは言ったから、もう別に話すことないよ。とでも言いたげな表情だった。
その無感動な顔を見て、メイリ―は鼻白む。
「ふん。つまんない奴」
「はっはっは。ごめんごめん」
青年は肩を竦めた。
話は終わったようだった。
そのままこちらを見る。
「行こっか」
青年は私の腕を取り、店の外に連れ出そうとした。
手のひらから体温が伝わり、胸がざわざわする。気恥ずかしい。
だが、今はそれよりも――
私はメイリーの方を見た。もう随分気まずい雰囲気だし、このまま立ち去るのが良さそうだ。
「それじゃあ……ごめんねメイリー。会えてよかったわ」
「う、うん。またね」
手を振って別れる。
恐らく、もうどこかで再会しても、メイリーが私に話しかけてくれることはないだろう。
永遠にさよならだ。まあ、そっちの方が気楽でいいか。
――だが。
私は歩きながら、自分の指を見た。あかぎれだらけの、水仕事の手だ。
もし次に会えた時は、マニキュアの一つでも塗ってやる。
そのくらいの余裕を、必ず手に入れる。
「余計なことしちゃったかな?」
階段をエスコートしながら、青年は言った。
私は首を振る。
「いえ。丁度良かったわ。もう、あの子とは合わないなって思い始めてたとこだったから」
「ライフステージの違いだねぇ」
散髪屋の外に出ると、青年はキョロキョロと周囲を見回す。
「店ってどっち?」
私は青年の言いたいことが理解できなかった。
だが、外に出たことで、ハッと我に返る。
「あの、助けて貰って悪いんだけど。待ち人がいるの。この辺でサヨナラするわ」
「ん?」
青年は首を傾げた。
「どういうこと?」
「ナンパには乗れないってこと」
青年は大きな目でこちらを見た。
私の灰色の目と、青年の茶色の目が交錯する。
青年が引きつった笑いを浮かべた。
「あの、もしかして僕ルアンなんだけど、――気づいてない?」
「いやぁよかったよかった。お風呂に入ってスッキリしたら、ちょうど忘れ物コーナーにあった服が廃棄されるところだったんだ。店員さんにダメ元で聞いたら、こころよく貰えてさぁ。そのまま散髪もさっさと終わったってわけ」
ルアンは笑顔で自分の服を指さした。
先程までのボロボロの浮浪者服ではなく、ズボンにシャツという、平均的若者の服装になっている。
「そう……」
「それで散髪屋に行ったら、床下からお酒の匂いがするでしょ? こりゃスピークイージーがあるってすぐに気づいたね!」
「ふーん……」
「――ねえ、どうかしたの?」
ルアンが覗き込んでくるので、私は慌てて距離を開けた。
「何でもない」
「なんか怒ってるみたいだけど……」
ジロジロと青年を睨みつける。
「あのね、服も変わって顔も変わって……それで同じ人だってわかるわけないじゃない。私たち出会ってから一時間も経ってないのよ」
「あーそうだね、確かに」
私は隣合って歩くのが、急に恥ずかしくなっていた。兄以外の異性と道を歩いたことはほとんどない。
こんな男だとは思っていなかった。
能力を利用するために雇っただけなのに、隣を歩いていると妙に落ち着かない。
しかし、微妙にフワついた気持ちは、次の瞬間反転する。
「あれ? ちょっとごめんよ」
ルアンがふと、思いついたように言った。
「どうしたの?」
青年は落ち着いた様子で辺りを見渡し、道端にしゃがみこんだ。
「ゲエロロロロ…………」
「う、うわぁ!? 吐いた!」
私は飛び上がった。
こいつ、急に嘔吐しやがった。こんな人通りの多い場所で。
道行く人が怪訝そうにこちらを見てくるので、私の頬は赤くなる。
「はっはっは。ごめんごめん。アルコール中毒だからね。いつ吐いてもおかしくないのさ」
口を拭いながら、ルアンはにっこり笑った。
いや、笑顔がいいのはわかったから、場所をわきまえてくれ。というか、なぜこんなに落ち着いていられるのだろう?
あまりにも吐くことが日常になりすぎて、何も感じないのかもしれない。
「か、体のことだからしょうがないけど、あまり道端で吐かないでね」
「気を付けるよ。あいて」
しゃべりながらルアンは前の人と正面から激突した。老人がルアンに跳ね飛ばされ、ぶうぶう文句を言った。
ぺこぺこ謝り離れるが、それを見て私はだんだん不安になる。
「あなた、今酔っているの?」
「うーん。そうだなあ、例えば君が久しぶりに再会した友達と、朝まで盛り上がって飲んだとしよう」
あまりない状況を想像させてくるので、私は苦労してその状況を想定した。
朝まで飲む……? そんなに飲めないわよ。眠いし。
「それで?」
「翌朝、しこたま飲んで二日酔い気味の君は、フラフラで屋台へ向かう。スープを飲んで、気を落ち着けるためにね」
「はあ?」
「その時、道端でスープ屋にもたどり着けず気絶している老人を見かける。……それが僕だ」
「全然意味が分からないんだけど」
変な奴だ。でも、本当に酔っ払ってるからか?
アルコール中毒というか、この青年はしらふでも結構変な人である気がした。
「まあいいわ。着いたし。……ここが私の店。グレイディ・スピリッツよ」
家に着いたので、ルアンに説明する。
二階建てで四角形の、平均的な形の建物だ。
二階は居住区間で、一階は店。
一階の前面はガラス張りになっており、店の中が確認できるような外観になっていた。
壁は白く、防腐剤がペンキと混ざって塗り付けられていた。
「へぇーっ、いい店だね。ご家族と経営してるのかい?」
「兄と経営してたんだけど……まあ、色々あって、今は私一人でやってるわ」
「? お父さんやお母さんは?」
「父親は私がまだ物心つく前に亡くなったわ。母親は……ちょっと病弱で、入院してるの」
私は二階の端の部屋を指さした。
「あそこがお母さんの部屋だから。今はいないけど、絶対に入らないでね」
「そうか……大変なんだね」
元気が無くなるルアンを無視して、店の中へどんどん入っていく。
不幸自慢がしたいわけではないのだ。
「一階が店。二階が自宅。後は地下室があるんだけど、住むところが決まるまではそこに寝泊まりしてちょうだい。二階に部屋が空いてないの」
「おお〜ありがたい。外で寝るのにも大分慣れたんだけど、せっかくお風呂で綺麗になったしね。屋根があった方がいいよ。やっぱり」
店の中をあちこち確認しながら、ルアンは嬉しそうな声を上げた。
「じゃあ、地下室を見せてもらおうかな〜」
「ところで、話しておかないと行けないことがあるんだけど」
私は言葉を探した。
「あの、給料なんだけど、しばらくは現物支給になるかも」
「現物支給?」
ルアンはキョトンとする。
私はモジモジと指を合わせる。この苦しい状況を、説明するしかない。
「そう。お酒と、食事は用意するわ。でも、もしかしたら現金がどのくらい入るかが、はっきりしなくて」
「雑貨屋の経営が苦しいのかい?」
「まあ、そうね。端的に言えば。商品は売れないし、借金もあるの。ギャングがカツアゲにもやってくるし」
私は地下室へと続くドアを開け、下へと降りていく。
ルアンもその後に続いた。
「うちは元々酒類を中心に販売してた雑貨屋でね。常連さんもお酒目当ての人ばかりなの。でも禁酒法で、酒を売れなくなって……客足もばったり途絶えてしまったわ」
「あちゃあ。それは大変だね。売る商品がなくなっちゃったんだ」
「そうよ。仕入れることもできなくなったし、売ってもだめ」
「あれ? でもさっき僕に恵んでくれたお酒があったんじゃないか?」
「だから言ったでしょ。「失敗作」なのよ」
地下室に入り、酒を製造する器具をルアンに見せた。鉄鍋と、冷却樽の組み合わせだ。
ルアンは口笛を吹いた。
「手に入らないから、自分で作ってるんだね」
「そう。自分で作って、それを売るの。また昔みたいに」
「あれ、でもそれって――」
「密売よ」
私は暗い顔でルアンを見た。
「ルアン。あなたには密造と密売を手伝って欲しいの」
「……なるほど、君が僕を雇いたがった理由がわかったよ」
ルアンは得心したように何度も頷いた。
「生粋のアルコール中毒者である僕なら、断らない。絶対協力してくれるとふんだわけだね」
「ええ。それに、あなたの舌にも可能性を感じるの。あなたはあの失敗作を飲んでくれたし、適切なアドバイスらしきものもくれたじゃない」
ルアンは何度も頷いた。
その顔には笑みがこぼれている。
「うんうんうんうん。わかった。わかったよ。君が僕を誘った理由も。僕ができることも。なるほど……素晴らしいね。最高の環境だ。お酒を飲めるし、自分で作るのにも携われるなんて」
「だけど、密造酒ビジネスっていうのが上手くいくかはまだ決まってないの。だから儲けが出るまでは給料がでない。そういう意味での現物支給なんだけど……」
「OKOKOKOKOK」
ルアンは親指を上げた。
「最高だ。ガートルード。僕は君の仲間になる。二人で最高のお酒を作りあげよう」
私はホッと息を吐いた。
快諾してくれてよかった。断られるかと思った。
「それなら――ええ、ルアン。これからよろしくね」
右手を差し出し、握手を求める。
これで正式に契約だ。一人で無理でも、二人なら、この青年と一緒なら、何とかなるかもしれない。
私は先ほどの酒場での一件を思い返す。
浮浪者でアルコール中毒者だが、この青年はあの時私を助けてくれた。
きっと、優しい人だ。一人目の仲間にするのに相応しい。互いの成功のために、協力しあえる人材のはずだ。
「…………」
だが、ルアンは私の手を取らず、天井を見上げていた。
「どうしたの?」
「誰か来たみたいだよ」
その時カウンターの呼び鈴が鳴った。
一階からチーンという音が聞こえてくる。
私はルアンの方を向いた。
「なんでわかったの?」
「気配がしたんだ」
「何それ……。まあ、いいわ。ちょっと見てくるから、待ってて」
よく分からないことを言う。
私は理解を諦めて、再び一階に上がった。
お客さんかもしれない。
だが、一階に来ていたのはお客さんではなかった。
男がいた。
金色の髪をした、背の高い男である。
くっきりした太い金色の眉と、鋭い青い目をした男だ。
男は高そうなスーツに身を包み、イギリス紳士のような杖を持ちながら、帽子を被って立っていた。
私はその男を見たことがあった。
ゴクリと、唾を飲み込む。
「ほ、ホールデンさん」
男は私をジロリと見て、帽子を脱いだ。
そして言った。
「ミス・グレイディ。支払い期限を過ぎた。この店はウチが貰う」
いきなり最後通告が告げられていた。
私の野望はここで終わるようだった。
1921年のアメリカには、銭湯はありません。入浴所には、シャワーのみ備え付けられていました!




