第1話 花は銃より強し
第一次世界大戦が終わって3年くらい経ってます
1921年。
アメリカ、ニュージャージー州、ストームヘイブン。
全ての始まりは、あの日だったように思う。
世界大戦が終わって三年が過ぎた春。その日私は「密造酒」を作ろうとしていた。今のアメリカでは法律で禁じられていて、バレたら罰金ものだ。
だが、完成すれば、見返りは大きい。
だから数週間前からチャレンジしているのだが、なかなか上手くいかない。樽から出てきたガソリンのような味の「失敗作」に吐き気を催していると、上の階からドアベルが鳴った。
お客が来たようだ。
失敗作をポケットに入れる。
私は地下室を後にし、階段を上ってゆく。
一階に上がると、木製のカウンターに背の高い男性が肘を置いて立っていた。
ブーツに黒いジャケットという、スマートな体型を誇示するようないでたちで、整髪料で整えられた髪は、うしろに跳ね上がっている。
とても鋭い目つきと、影のある人相は、見るからにカタギではない雰囲気だった。
嫌な奴が現れた。
私は男を見て、小さく息を吐いた。
「スパイクさん……どうも」
「よう、ガートルード。近くに寄ったから来てやったぜ」
男は歯を見せ、ニヤリと笑った。
「今日もいい顔だな」
私は無表情でカウンターまで近づいた。
本当は話したくも近づきたくもない相手だが、客商売なので邪険に扱うわけにもいかない。
——どうせ客として来たわけではないだろうが。
「ボーイフレンドとかできたか?」
「いえ。雑貨屋を経営するので手一杯だから……」
「一人じゃ大変だ。戦争でお兄さんを亡くしてからもう三年だな」
この男は店に来るたびに、お決まりの話をする。あまりに同じ話の入りなので、少々うんざりしていた。
死んだ兄のこと。初めて会った時に、教えなければよかった。
私は木製のカウンターを撫でた。長年の習慣で、触っていると落ち着くのだ。年季の入ったツルツルの木の感触で、気を紛らわせる。
「大丈夫。小さい時からずっとやってきた店だもの。——どういう風にすればいいかはよくわかっている」
「"何とかクリアする”ってのと、"楽にこなす”ってのはまた別問題だと思うがな。俺ならお前を支えてやれるぜ」
私は好意とも拒否ともとれない、苦笑いを返した。
もちろん、こいつに好意なんてない。でも、嫌悪感をぶつけて、刺激したくなかった。
「ごめんなさい。今はそういう気持ちにはなれなくて……」
やんわりと否定され、男はつまらなそうな顔をした。
「俺も戦争に行ったからわかる。ありゃ地獄だ。生きて帰れたのは奇跡だ。……お兄さんは運がなかったな」
しつこい。
「――もう兄の話はやめてくれない? できれば思い出したくないの」
「そうかい」
スパイクの動きが止まった。
まずい。怒らせたか? ちょっと声音が冷たすぎたかもしれない。
男の笑みは、狙っている女へ向けた好意的なものから、仕事用の無機質なものへと変化していく。
スパイクはゴキゴキと首を鳴らした。
「まあ、それじゃあ本来の目的に戻るが。ガートルード。回収の時間だ。今週の"共益費”をまだもらっていないぜ」
共益費とはよく言ったものだ。いかにもギャングの使う、けむに巻いた言葉である。
私はカウンターのヘリをグッと掴んだ。
「あの、スパイクさん。禁酒法ができてから一年、本当に売り上げが出ていないの。あんまり高いと払えないわ」
「ん? そりゃ俺の知ったことじゃねえよ。払えないなら店を閉めな。あんたら市民は金を払う。俺たちギャングは代わりにあんたらを守る。そういう契約だ。契約は守らないと」
私は奥歯をかみしめた。
「あら、誰から守っているのかしら。……私はそんなこと、お願いした覚えはないけれど」
「あっはっは。そりゃ無知が過ぎるぜガートルード。ほら、見てみろ」
男は窓の外を指さした。
大きな河に面したこの街は、窓からその大河を見ることができる。
灰色の霧に包まれた、母なる大河。私たちが生まれるずっと前からそこにある。
その大河の向こう岸に、うっすらと巨大なビルが立ち並ぶのが見える。
「でかい都市だよな。……あそこにどれだけ恐ろしいギャング達がいると思ってるんだ? アメリカ最大の"ギャンブルの街”だぜ? 薬・酒・暴力! アメリカでも指折りの凶悪な連中がそろってる。この街もハイエナみたいに食い尽くそうとしてるぜ。俺たち「バード・レッグ」がいなかったら、この街はとっくに奴らの支配下だ」
自信満々の口調だ。
気に食わない。
「あらそう? 見たこともない脅威を説明されても、ピンと来ないわね。気のせいじゃない?」
そもそも隣街とは河を挟んで距離があるので、外国みたいなものだ。スパイクの説明には必然性がない。
私の言い返しに、男は少しバツの悪そうな顔をした。
ほら、やっぱり、隣町のギャングなんて"嘘”なのだ。
私はさらに続ける。
「毎週お金を取られるこっちの身にもなってほしいわ。日々の生活すら厳しいくらいなのに……」
男はドロドロのコーヒーのような、深い黒色の目を細めた。
「……あのなあ、ガートルード。不幸なのは自分だけだと思うなよ。誰だって楽な生活をしているわけじゃない。その中で互いの義務は果たそうって言っているんだぜ。——それが嫌なら俺の女になれよ。俺は公平な男だ。どっちか選ばせてやるっていうのは、この三年ほどずっと言ってるだろう」
はあ? 女になれだ?
私は自分の眉毛がぴくぴく痙攣するのがわかった。
こんな男の、どこを好きになれるだろう。苦しい生活をさらに圧迫する、敵でしかない。
"バード・レッグ”は、戦争が終わってからこの街に現れた。
みかじめ料の総額はいくらになるだろう?
抵抗したい。払う金なんてない! と、怒鳴りつけてやりたい。
でも――
「戦争で俺はあまりにも多くの人間を殺しすぎた。そっから引き金が軽くなっちまってなぁ」
スパイクはどこか焦点のあってない目で言った。
懐に手を入れて、"何か”を探るような仕草をする。
その動作で、私は息を呑んだ。
この男は……頭がおかしい。
ギャングは皆、頭がおかしい。
選択肢に殺人が、あまりにも簡単に入り込む。適当な理由で撃ち殺された街人を、何人も見た。
それは戦争のせいなのだろうか? その倫理観のなさは、人として大切な何かが、すっぽり抜け落ちているようだ。
もしかしたら、兄が生きて帰ってきたとしても、こんな風に壊れてしまっていたかもしれない。
しかもこいつ、初めて会った時すごく暴れたんだよなぁ。
私がまだ生きているのは単純に女で——異性として狙われているからに過ぎない。
「…………ふん。わかった、わよ」
ギリギリと歯を鳴らし、私は言った。
抵抗は無意味だ。私は不貞腐れて目を伏せた。
男はせせら笑う。
「全く。お前は気の強い女だな。跳ね返りで……向こう見ずだ。それがお前のいいところだが——場所と状況はわきまえてくれよ。出来たらそういうのはベッドでだけ見せてくれ」
私は何も答えず、レジを漁った。札を何枚か取り出し、男に突き出す。
これで今週の儲けはほとんど無くなった。スカスカになったレジを黙って見つめる。
そんな私の肩を、男は優しくたたいた。
「ま、俺も組織の一員としての仕事だからな。恨まないでくれよ。個人的な相談ならいつでも相手するから、その時はサウスストリートの事務所に来てくれよ」
そう言ってスパイクは店を後にする。
歯を食いしばっている私の方を、振り返ることはなかった。
家にこもって作業をしていても、「解決」できそうにない。私はヒントを求めて……あるいは気分転換に、街を歩いていた。
足元の泥を避けながら歩き、河から届く潮の香りを嗅ぐ。
磯の香り。だが、そこに街の生活の臭いが混ざる。
馬の糞と藁の臭い。
車のガソリンの臭い。
車と馬。まだ舗装されていない土の道も混ざるこの街は、過去と未来が複雑に混在している。それは戦争が終わって、文明が発展してゆく今のアメリカを象徴するように。
——ストームヘイブン。
私の生まれ育った街だ。
人口約五万人の、地方都市である。
「……うわ、踏んじゃった……」
べちゃりとした感触を靴の裏に感じる。靴底についたその黒い泥のようなものを、私はゴリゴリと地面にこすり付けて落とした。
泥か、それとも馬の糞かは、今となってはわからないし、わかりたくもない。
足を地面にこすりつけながら、私は歩いた。街は様々な人に溢れている。
「号外! 号外!」と叫ぶ少年新聞売り。
立ち並ぶキッチンカー。
冷蔵庫用の氷を運ぶ、氷屋。
仕事終わりの漁師。
皆どことなく楽しそうで、全体的に活気があった。戦争が終わって、人々の暮らしが豊かになっているのだ。
"一部の人間”を除き、好景気の熱に湧いていた。
この人達に買わせなければ。私の雑貨屋を続けるためには、そうするしかない。
何を見ても、頭に浮かぶのはそのことばかりだ。
貧乏人が盗っ人に堕ちるような、なかなか惨めな気持ちだった。
やがて足取りは無意識のうちに賑やかな表通りから遠ざかり、より暗い裏の通りへと向かってゆく。
あまり気分転換にはならなかった。
表通りから裏へ入ると、人通りは急激に少なくなる。屋台や露店も無いので、長居するものはいない。ただ足早に、目的地に向かう人の姿があるのみである。
そんな静かな通りに差し掛かった時の事だった。
「おい、てめぇ! 舐めてんのか」
男のドスの効いた声が路地から聞こえた。どうやら喧嘩の雰囲気だ。
私は眉をひそめた。厄介事には関わり合いにならない方がいい。踵を返し、元来た道に戻ろうとした。
だが「ヒィィイ」といういかにも情けない声が聞こえて、足が止まる。
なんと言うか、社会の落伍者といった感じの、とても可哀想になる悲鳴だったのだ。歳の頃はわからないが、男性の悲鳴だった。
拳に力が入った。
普段なら、間違いなく無視している。だが、今日に限っては、気持ちが動いた。
——頭に浮かんだのは、スパイクのあのニヤニヤとした笑い顔だ。弱者を虐げ、暴利を貪り、私と兄の思い出に土足で踏み入ろうとする、あの男。
……あんな風にはなりたくない。私にもし力があれば、あんな理不尽なやつは許しはしないだろう。
その反抗心が、私の判断力を狂わせる。
路地裏へ、行くことにした。自分が行ってもどうにもならないだろうが。様子を見て、もし差し支えなければ、助けを呼ぶくらいはしてあげてもいいかもしれない。
「やめといた方がいいよ」
その時、声が聞こえた。
懐かしい、優しげな青年の声だ。
私は地面を二本の足で踏みしめた。
「邪魔しないでよ兄さん」
振り向くと、そこには軍服姿の兄がいた。
彼は申し訳なさそうな顔で、こちらを見ている。
私は唇を尖らせた。
「何に口を突っ込もうが、私の自由でしょ」
「"先”に進めば、君は後悔する事になる」
私は兄を睨みつけた。
「死んでいる癖に、口出ししないで」
兄の姿が不自然にボヤけた。
彼の胸元から、道の向こう側が見える。
「わかっていると思うけど、ガートルード。僕が見えていると言うことは、君の精神状態はマズイ。狂いかけていると言ってもいい」
それはもちろん分かっていた。
兄が見えるのは、初めてではない。
あの戦争の後から、ちょくちょく、辛いことがあった時に見えるようになった。
見えるように、なってしまった。
想像上の兄と、私は会話を続ける。
「しょうがないでしょ。お店が潰れそうなのよ? 私たちのグレイディ・スピリッツが。おじいちゃんの店が」
私のイメージの中の兄は、きっと現実より高い背で私を見下ろした。
その顔は、妹を心配する表情で固定されている。
「だからって、密造酒に手を出すなんて。スパイクにバレたらどうなるか……」
私たちは、いつしか路地裏へ行くかどうか以外の事を話し合っていた。
あるいは、路地裏の事もひっくるめて、話し合っていた。
兄の頭と私の頭の中は同じだ。
だから問答も、一辺倒で趣旨の混ざりあったものになる。
「バレないようにする。それに、私はスパイクとは違う。助けを無視するような人になりたくないわ」
「ガートルード。君は意固地になっている。それにヤケになっているよ。店をやめれば、スパイクから逃れられる。引き返せば、謎の喧嘩から逃れられる。命をかけてまで、先に進む意味はあるのかい?」
イマジナリー兄さんの言いたいことは、私が思っていることでもあった。
店を畳めば、密造酒を造る必要はない。
引き返せば、争いに巻き込まれる危険はない。
でも……それは気に食わないのだ。
気に食わないことは、死ぬことよりも恐ろしい。
だから私はリスクを取ることを恐れない。
理性の存在を無視する。
私は"先”に向かう事を止めなかった。
「私は行くわ。バイバイ、兄さん」
私は眉を吊り上げる。
いつしか兄は、姿を消していた。
路地裏で起こっていたのは、カツアゲに見えた。
ガタイのいい二人の男が、一人の浮浪者を囲んでいる。浮浪者は地面を逃げようと這いずり、それを男たちが蹴っ飛ばしていた。
私は声を上げた。
「ちょっと! あんた達そんなことして、かわいそうでしょ!」
男の一人が、私をにらみつけた。
「うるせえ。こいつが通りすがりの俺の靴にゲロを吐きかけやがったんだ。関係ない奴は引っ込んでな」
「すいません。すいません。でもお金はないんですぅぅ」
浮浪者は哀れな声を上げた。
その声音を聞いて、私は「あれ?」と違和感を抱く。浮浪者は薄汚い格好で、髪と髭がぼうぼうに生えていた。その仙人のような容姿からは、年齢が全く分からない。
だがその声音は、かなり若い青年のようだった。世捨て人のような恰好で、人生を諦めるには早い年齢だ。
「なめた野郎だぜ! 弁償しやがれ! 金がないならてめえの体からするその酒の匂いはなんだ!」
「ひぃぃぃ、お酒! 体臭です。わ、私はアルコール中毒なのです。定期的に飲まないと、頭がおかしくなってしまう」
浮浪者は男の足に縋りついた。
「お願いです。私にお酒を恵んでください!」
「な……!? こ、こいつ。なんて図々しい野郎だ。謝罪どころか、さらに要求してきやがった」
もう一人の男が驚愕の声を上げた。
私は眉を寄せた。
トラブルには違いない。だが、これは自分が思っていたのとは、何やら雰囲気が違っている。
二人の男が一方的に悪いというより、浮浪者の奇抜な発言が、逆に男たちの怒りをあおっているような感じだ。
「おい、ねーちゃん。あんたは関係ないんだから、すっこんでな」
一人が言った。
「おい。だが、見ろ。こいつ結構いい女だぜ」
もう一人が気を取り直したように言った。こちらの男はゲロを吐きかけられたわけではないので、別のことに気を取られる余裕があるようだった。
私は虫を払うように手を振った。
「悪いけど、相手をするつもりはないわ」
「ふーん。じゃあ消えな」
「ええ、そうしようかと思えてきたところよ」
後ずさりかけた私の足元に、蹴とばされた浮浪者が転がってくる。
ゴロゴロ、ベチャッ。
転がって地に伏した浮浪者は、その位置のまま私を見上げた。
「こ、困りますお嬢さん。私を助けてはいただけませんか。どうか、お酒をお恵みください」
「いや、あんたはまず、この人たちに許してもらうことを気にした方がいいと思うけど……」
「そんなのは大したことありません。それよりも、もうお酒が飲みたくて飲みたくて——頭がおかしくなりそうです」
「私、お酒なんて持ってないわよ」
「いいえ、私にはわかります。あなたの内ポケット……そこからする香しいアルコールの香り!」
私は「失敗作」をポケットに入れっぱなしだったことを思い出した。
ガソリンのような味がするウイスキーだ。飲んだらおなかを壊すかもしれない代物である。
酒瓶を取り出し、もてあそぶ。
「これは失敗作なの。無茶苦茶まずいわよ。っていうか、よくポケットに入っているのわかったわね」
「失敗作! 素晴らしい。それはつまり——タダでもらっても構わないということではないですかな? ……でしたら麗しのお嬢様! どうぞ、それを私に恵んでください」
浮浪者は物欲しそうに手を伸ばしてきた。
二人の男はその手を抑えて――
「おらっ! てめえ、調子に乗んな! おらっ」
また、ぼこすかと蹴りで攻撃が開始された。
右ヘ左へ転がりながら、浮浪者はまた「ひぃぃぃい」と声を上げた。
「そうねえ……」
私はチラリと酒瓶を見た。正直この失敗作に、何の未練もない。捨てるのも勿体なくて、何となくポケットに入れていただけだ。
自分ではとても飲めたものではないが、ちょっとでも興味を持ってくれた人がいるなら、その人物に恵んでも構わないような気がした。
浮浪者は攻撃を受けながら「お、お酒を……早く」とうわごとのように繰り返している。
果たして二人の男を止めるべきではないのか? と思うが、浮浪者はお酒を優先する余裕がある。というのが何ともおかしな状況だ。
「やれやれ。わかったわよ。はい、どうぞ」
私は意を決し、浮浪者に酒瓶を渡した。
「あ、ありがとうございますうう」
浮浪者は蹴られて地面を転がりながらも酒瓶を器用に受け取り、そしてフラフラしながらも男たちから距離をとって立ち上がり、お酒を一気に飲んだ。
「――あーーーーっ! 生き返るぅ」
その時である。
浮浪者の首元から、ぴょこんと、何かが"生えた”。
——花だ。
イソギンチャクのような、赤いひらひらをした花だ。
あれは確か……彼岸花だったか?
奇妙な花だった。
男の首から伸びたその花は、まるで鎌首をもたげた蛇のように動いていたのだ。
グニャグニャと。
ふにゃふにゃと。
花は男がお酒を飲むほど、活発に成長しているようにも見えた。
花は今や3メートルほどにまで茎の長さを伸ばし、気持ちよさそうに空を仰ぎ見ている。
「おい、何だぁ? その気持ち悪いもんは」
男が怪訝そうな声を出した。
「あーお気になさらず。私の「ガヴラ」です」
浮浪者は目元を抑えて、しみじみとアルコールを楽しむようにしながら答えた。
二人の男は顔を見合わせた。
「ガヴラってなんだ」
「さあ、何か新聞で読んだことあるような気がするぜ」
「ファニータイムズ紙か? 嘘しか書かねえよあの新聞」
私は聞いたこともなかった。
なんだ、あれは?
明らかに普通ではない。
動く花も、伸びる花も、生まれて一度も見たことはない。
動揺する私をよそに、浮浪者はスッキリしていた。
念願のお酒を飲めて、幸せなのだろう。
彼は私の方も見た。
浮浪者の茶色い目が、初めて私と合う。
茶色い目が、私を優しく見る。
「――ありがとう。とても素敵なお酒だったよ」
浮浪者の口調は変わっていた。
……私は、口をへの字に曲げた。
「……不味かったでしょ」
「そんな事ないよ。普段飲み慣れていない人には、少々きつい味かもしれない。でも、僕にとっては最高のお酒だったよ」
「え、そうなの?」
「おそらく、果汁や砂糖を加えたらもっとマイルドになる。と、僕は思うけどね」
ははは、と浮浪者は笑った。
無茶苦茶、豹変してる。
先ほどまでの、小刻みに震えて甲高い声でしゃべっていた浮浪者の姿はどこにもない。
背筋が伸び、穏やかな雰囲気をまとい、目線はしっかりしている。
今ここにいるのは、髪と髭が伸びて、薄汚れた格好をしただけの青年だった。
最初、男たちは困惑していた。
浮浪者の首から生えた謎の植物を、気味悪がっていた。
だが、浮浪者が私に和やかに話しかけるのを見て、顔をゆがめた。浮浪者の変貌した態度を、明らかに、不快に感じたようだった。
男の一人がナイフを取り出し、攻撃の姿勢をとった。
「おい、ナイフはやめとけって」
もう一人がたしなめるが、男は引かない。
「俺たちのこと舐めてやがる。ここまでされたら、後には引けねえよ」
浮浪者は背筋を伸ばして、ペコペコと男に頭を下げた。
首から咲いた赤い花は、茎が奇妙に伸びたり縮んだりするのを繰り返している。
その花の動きはまるで意思があるかのようだ。
花は浮浪者の頭の周辺を回っていたかと思えば、足元まで垂れ下がって地面に触ったり、気まぐれに浮浪者の腕に巻きついたりした。
「ごめんごめん。本当にごめんよ。ゲロをかけるつもりはなかったんだ。お金はないけど、何か仕事をして弁償するから」
「うるせえ! 今更なんだよ!」
男はナイフを腰だめに構え、走り出す。
だが、すぐにその足は止まる。
その瞬間起こった出来事を、私ははっきりと目撃していた。
浮浪者の花が、その根元から二本のツタを伸ばし、目にもとまらぬ速さで振り回したのである。
びゅん。
ツタはまるで鞭のように激しい音を立て、空気を切り裂き、男のすねを打ち付けた。
「ぎゃああっ」
男の悲鳴が上がる。
浮浪者はその場から一歩も動いていない。
だがいつの間にか、男のナイフは浮浪者の手の中に握られていた。
ツタは昆虫の触覚のように、ぴょんと伸びたままである。
「ナイフと"ガヴラ”じゃあリーチが違いすぎる。速度もまるで違う。多分、勝負にはならないよ」
浮浪者はナイフを二人の男に振って見せた。
「どうする? ——返した方がいいかな?」
男たちは顔を見合わせた。
「な、なんだそりゃ。"悪魔”め!」
意外なことに、より激高したのは、さっきまで冷静だったもう一人の方だった。
ゲロをかけられておらず、短気な相棒をたしなめる余裕があった男。それが、超常の力を見て、激しい怒りを顕にした。
男が、ポケットに手を入れた。
――銃だ。
私は背筋が凍った。
「ちょっと、あんたたち! 銃はやりすぎよ」
私は思わず声を上げた。
そんなものが使われれば、確実に誰かが死ぬ。
戦争でも、たくさんの人がこの武器で命を落とした。
「うるせえ。そいつは悪魔だ。悪魔に対抗するには必要だろうが」
男の表情は、悪い意味で覚悟が決まっていた。
もう後に引くつもりはないらしかった。
浮浪者はピュウと口笛を吹いた。
「すごいね」
男がにやりと笑う。
「――ああ、銃はさすがに怖いらしいな」
「うん? いや、違うよ。僕がすごいって言ったのは、彼女のことさ」
浮浪者が見てきたのは、私の方だった。
「銃を持った相手にそこまで口出しできるなんて、君すごい根性だね。それとも気が短いだけかな?」
「いや、今そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
おかしい。
この浮浪者は、相手が銃を持っているのに、全く落ち着いている。首から花を咲かせ、その花がうねうねと動いているのは不気味な光景だったが、浮浪者本人はまるで緊張感もなくポケっと立っている。
——まるで、銃など脅威ではないように。
「おい、無視するな。こいつが見えねえのか」
男が銃をまっすぐ構えた。
浮浪者は肩をすくめた。
「言っても、38口径じゃないか。マイルドな威力だし、速度もたかが知れているよ」
そんなこと言ったら、おしまいである。
どう聞いても、挑発でしかない。
銃を持った男は、それで"行く”ことにしたらしかった。
「へえ、じゃあ避けてみろ――よ!」
ダン。
火薬の弾ける音が路地裏に響いた。
とうとう撃った!
ダン、ダン、ダンと、銃撃音が続く。
私は悲鳴をあげて、地面に伏せた。
土の硬い感触が痛いが、構うものか。流れ弾に撃ち抜かれる方が問題だ。
とはいえ、ほとんど一瞬の時間だった。
路地裏が静寂につつまれる。
私は身を起こした。もう追撃はなさそうだ。
それから浮浪者の姿を確認した。
浮浪者は元気にそこに立っていた。
「"花は銃よりも強し”だよ。銃では、僕に勝てない」
浮浪者はまるで髪の毛をいじる様に、二本のツタを触っていた。
たこの足のようにクルクルと丸まったそのツタには、いくつかの破片が突き刺さっているように見えた。
丸い金属の欠片。
それは銃弾がツタに突き刺さった姿だった。
「なっ――!? 何をしたんだ。てめえ」
「受け止めたんだよ。銃弾を、このツタでね。この花は僕の思いのままに動く。だから、そういうことも造作ないんだ」
浮浪者は、両手を広げた。
ツタはその腕にゆるく巻き付き、カランカランと地面に弾丸をこぼした。
「はじくこともできたけど、そうしたら跳弾が怖い。彼女に当たるかもしれないから、わざわざキャッチしたんだよ」
そこで初めて、浮浪者の目つきが鋭くなる。
「さて、流石に銃を撃たれたんじゃあ、僕も手加減できないな。正当防衛だ。本気で行くけど、いいかい?」
男二人は、顔を見合わせた。
戦意を失ったらしかった。
銃弾を防がれたのだから、当然だろう。
「お、覚えてやがれ」
ただそれだけを言って、足を引きずりながら男は逃げ出す。
もう一人もそれを支えるようにして、二人でこの場を後にした。
浮浪者は少し首を傾げ、ナイフを自分のポケットにしまった。
——どうやら、それで終わりだった。
突如。
ザァァァと、花とツタは塵になって消えた。
役割を終えた砂の城が海水に流されて消えるように、その塵も跡形もなく空気へ霧散して消えてゆく。
後に残ったのは、妙に背筋の伸びたボロボロの服の男性だった。
「…………………………」
私は黙ってそれを見ていた。
"とてつもないもの”を目撃した感覚があった。
自分の常識を覆す、超常の能力だった。
何となく訪れた路地裏で、こんな事があるとは。
銃よりも強いものを、私は見たことがない。
人知を超えた速度と、精密さで、二本のツタを操る力。
——これはきっと、ギャングよりも強い。
人生に足りなかったパズルのピースが埋まるような感覚があった。
この男が欲しい。
この男を味方にして、ギャングから守ってもらうのだ。
男は私のお酒を美味しいと言った。
男はとても強い武力を持っていた。
そして、男には、いろいろなものが欠如しているように見えた。
これだ。
ギャングに対抗し、密造酒をつくるために、この男がいる。
「あんた――」
考えを頭の中でまとめながら、私は浮浪者に話しかけた。
どういう風に切り出すべきか。
どういう条件を付けるべきか。
「住んでる家はあるの?」
男の茶色い目が、私をじっと見る。
それが人生で最も高くつく質問になるとは、この時の私はまだ知らなかった。
ダブル主人公ものです!




