第22話 セオドア・エヴァレット・ホールデン
1921当時、ボクシングではかの偉大なジャック・デンプシーが活躍しました。
——セオドア視点——
セオドアは事務所の硬い椅子に腰掛け、眉をひそめながら、目の前の書類仕事に専念しようとしていた。
耳から入ってくる情報をシャットアウトし、できるだけ仕事の資料を読み進める。
しかし、いくら意識を集中したところで、絶え間なく沸き起こる笑い声や歓声に気持ちが引っ張られ、仕事がはかどる事はなかった。
「うぉおおお! やれやれ、ジャック! 殴り殺せ〜!」
部下たちが、壁に立てかけられた大きな家電の周りをぐるりと囲み、そこから発せられる音にいちいち声を上げている。
いかなる理屈か、その家電は空から「電波」なるものを受信し、音楽やスポーツ解説を声にして伝えてくる。
新聞などの活字にとって変わると言われているその「ラジオ」という機械は、事務所に導入されてから、部下たちの関心を大いに集め、まともな仕事に支障をきたしていた。
「——おい! お前らもう少し静かにしろ。仕事はどうした仕事は」
我慢しきれず、セオドアは言った。
しかし部下たちは、
「へい、すいやせんボス」
といって一瞬静かになるが、直ぐに興奮で我を忘れて、ラジオから流れるスポーツ実況に熱狂するのだった。
先程から、ずっとこれの繰り返しだ。
猿どもめ……。
セオドアはイライラと唇を噛んだ。
こちらの意図を理解せず、仮に理解しても尊重してくれない。
野蛮な連中だ。
そもそもボクシング観戦の何が面白い? どんなスポーツも、自分でプレイした方がいいに決まってる。
セオドアが書類と格闘していると、事務所に社長が入ってきた。背の高い老人で、威厳のあるヒゲと、頑丈そうな眼鏡をしている。
社長はひとり机に向かうセオドアに話しかける。
「ホールデン。何をしている?」
「書類仕事ですとも。……社長、部下たちに言ってやってください。ボクシングなんて忘れて、債務者の情報をまとめるのを手伝えって」
老人の厳格な眉毛が、ピクリと動いた。
「——貴様ら、仕事中にボクシングを見てるのか」
「へい。社長! 世紀の闘いですぜ。デンプシーがやってくれやす」
「お前らぁぁあ」
社長が声を上げながら、上着を脱いだ。
年寄りとは思えない、筋肉モリモリの上半身が姿を表す。
「ワシも混ぜろおおおおお!!」
「へい!!!」
セオドアは、ため息をついた。
この職場に、気の合う奴はいないのだった。
「ホールデンさん。お客さんですよ」
受付の女性に言われて、セオドアは立ち上がる。
渡りに船だ。
このやかましい部屋から逃げられるなら、来客が誰でも構わない。
「おい、ホールデン! 客が帰ったらすぐ戻ってこいよ。今日は酒盛りだぞ!」
部下と社長はボクシングの実況に盛り上がり、浴びるようにしてビールを飲んで騒いでいた。
日中から。
強い日差しを遮るようにサングラスをした女が、来客室でセオドアを待っていた。
炎のように赤い髪を後ろでくくり、唇には真っ赤なルージュを引いている。
知っている女だ。
だが、今の格好は初めて見た。
彼女は、スカートタイプのスーツを着ていた。女性の活動家が着るようなデザインだ。黒くて真っ直ぐな襟のラインが、いかにも戦闘的である。
セオドアは、ガートルードを見て、思わず胸が踊った。
別れて一日も経っていないのに、懐かしさを感じる。
気の合う連中と、気の赴くままに悪巧みを行う楽しさが、セオドアの感情を支配しようとした。
しかし青年は、自分で自分の心を押さえつける。
甘えた感情は、不要だ。
「何の用だ。ミス・グレイディ」
セオドアは冷たく言った。
彼女とは道が別れたはずだ。
セオドアはこの三ヶ月あまりの思い出を、切り捨てると決めている。
女はサングラスを外した。
灰色の瞳が、セオドアの顔をじっと見ている。
「——謝りたくて」
やがてガートルードは言った。
「あなたには酷いことをしてしまったわ。それを謝りたかったの」
セオドアは、おやっ? と思った。
ガートルードの態度が、随分落ち着いている。
あれだけ酷い目にあったのに、穏やかな微笑すら浮かべている。
何か、あったのか?
「もう済んだことだ。そして、もう終わったことだ」
セオドアは端的に答えた。
今さら何を言われたところで、なんの意味もない。
しかし、
「いいえ。それじゃあ私の気が済まないわ」
ガートルードは強く、首を振る。
そしてセオドアの手を両手で握った。
「あなたは恩人よ。セオドアがいなければ、最初に設備を改装することはできなかったし、密造酒ビジネスをあそこまで大きくすることはできなかったわ。あなたが力を貸して、あなたがビジョンを描いて、あなたが足りない知識を補ってくれた。グレイディ・スピリッツが少しでも成功出来たのは、間違いなくあなたのおかげ。……でも、私はそれを直接伝える手間を惜しんだ。本当はずっと感謝していたのに、素直になれなくて、強気な態度をとってしまっていたわ」
握手が、終わる。
彼女の暖かな手の感触が、セオドアの手に名残惜しさを残した。
セオドアは応接室のソファに腰掛けた。
質の悪いレザー生地で固いが、オフィスの椅子よりはましな座り心地である。
お尻でその感触を感じながら、セオドアは言った。
「……まあ、結局全ては無駄になったわけだがな。俺たちの野望は潰えた。店は燃えてしまった」
「店はやり直せるわ」
ガートルードは言った。
「設備が燃えても、作り直せばいい。家が焼けても、立て直せばいい。私たちは生きてるもの。生きてる限り、どうとでもなるわよ」
セオドアは驚いた。
自分が怒っていることを忘れて、思わず尋ねる。
「おいおいおい、どうしたんだ? いつの間にそんな悟りを開いたんだ。あんたにとってあの店は家族との思い出の場所だろう? それが失われて、あれだけ落ち込んでいたのに。何故、今はそんなに落ち着いている?」
「思い出は消えないわ。場所が無くなっても。それに気づいたのよ。それに私にとって大切なものは、家族との思い出だけじゃなくて、グレイディ・スピリッツの繋がりそのものだって、気づいたの」
間違いない。
ガートルードは人として一段階成長した。
頑なな自分の価値観を脱ぎ捨て、優先順位を選択できるようになっている。
セオドアは自分の見込みが間違っていたことを、理解し始めていた。
あの火事の時、セオドアは全てが終わったと思った。
ガートルードが何のために金を稼ぎたいか、知っていたからだ。
生活のため、と本人は言っているが、セオドアの分析では違う。
家族の思い出の場所を守るために、犯罪を犯してでも金を稼ぎたいのだ。
彼女が大切にするものは、場所であり、思い出だ。そしてそれらは、燃やされるなどして失われると、補填することができない。
かつてのガートルードでは、あの状況から立ち直ることはできなかっただろう。セオドアは借金取りとしての経験で、それがわかっていた。
だが、それは間違いだった。
セオドアはふっと笑った。
「——成長したな。ガートルード」
ガートルードも笑った。
「ある人が気づかせてくれたのよ。私にとって、何が大切か」
セオドアは思った。
ルアンめ、何かやったな。
「どこのどいつだ? あんたをそこまで変えた色男は?」
「それは言えないわ」
ガートルードの頬に赤みが差す。
まるで恋に悩む十代の少女のようだ。
やれやれ、セオドアは首をふる。
「謝罪は受けよう。——今思えば、俺も少し大人げなかった。……だが、それだけか? あんたがここに来た理由は?」
俺に、何をして欲しい?
言外にセオドアは聞いた。
謝罪は受けた。
次は? また仲間に戻って欲しいのか?
……それも悪くないかもしれない。
しかし、ガートルードはそこで話が終わったかのように、ソファから立ち上がった。
「今は謝りに来ただけよ。そして、また生きて帰れたら、あなたにお願いしたいことがあるの」
「"生きて帰れたら?”」
セオドアはギョロリと目を動かす。
「ガートルード。あんた、これから何をするつもりだ」
女性は黒いサングラスをもう一度かけながら、言った。
「復讐」
ガートルードは立ち去ってゆく。
言いたいことだけ言ってこの場から姿を消した。
セオドアには何も要求しなかった。
もう一度仲間になれ、とも。
敵のアジトを攻めるのを手伝え、とも。
彼女は何も頼まず、決意表明だけを伝えていく。
それは死地に赴く兵士が、後悔のないよう、手紙に残すように。言いたいことを、最後に伝えておく行為だった。
ガートルードの言葉は本心だと思える。
本当に謝りたくて、最後にセオドアに会いに来たのだ。
誰もいない部屋で、セオドアは腕を組んだ。
「——強情な奴め。助けて欲しいなら、そう言えばいいのに」
呟く。
「……俺だって、仲間だろう」
店を出ようとすると、社長がセオドアに大声をかけた。
「おい、ホールデン。酒盛りにつきあえ。今日は社長命令だ」
セオドアは杖を握りしめた。今日に限って、ラジオは大盛り上がりだ。拒否すれば、自分の社内における評価は落ち、さらに居心地が悪くなるかもしれない。
だが、それも許容しよう。
「すみません、社長。どうしても外せない急用なんです。それに、俺はあなたちと酒盛りするのは、好きじゃない」
「お、おい!」
社長が何か怒鳴るが、それはもう無視した。
ヘイブン・クレジットの表に停められた車は、グレイディ・スピリッツで長年使われてきたものだ。
祖父が購入し、宅配や仕入れに利用されていたその車は、運転席と助手席の二人乗りだ。後部座席はなく、代わりに荷物を載せる用の荷台が取り付けられている。
普段野ざらしのその荷台は、今日ばかりは頑丈なドーム型の屋根が取り付けられている。
そして所々に奇妙な金属の板が備え付けられて、まるで何かとても重たいものを積んでいるような重厚感があった。
ロレッタがガムを噛みながら、運転席で待っていた。
「待たせたわね」
そう言って、ガートルードはその荷台に乗り込んでいく。
一度は捨てた場所だ。
だが、足は止まらなかった。
追いついたセオドアは、息を吸った。
「俺も乗せてくれるか?」
ガタン。
車が揺れ、窓が開いた。
皆、驚いたに違いない。
ロレッタと助手席のルアンが身を乗り出し、ガートルードも荷台から顔を覗かせる。
「セオドア君!」
ルアンが顔を輝かせた。
「ほら、乗りなよ」
ロレッタがニヤリと笑って、親指で荷台を指さす。
「……いいの?」
ガートルードは驚いたような、困惑したような顔で、セオドアを見つめる。
セオドアは自慢の杖を手に、英国紳士のように帽子をしっかり被った。
「ドライブに行くんだろ? 俺も混ぜてもらわないとな」
セオドア・ホールデンは、もう自分のいたい場所を見つけていた。
どうせ悪巧みをするなら、気の合う仲間とがいい。
その仲間と歩む道は、自分の目的にきっと続いているだろう。
あるいは、どのような道筋を辿っても、自分の人生の目標に到達することは可能かもしれない。
だが、その道は歩きたい奴らと歩きたかった。
その為には、ある程度命をかけるのも、悪くはない。
ルアンとロレッタは普段着です。




