水利局の隠し帳簿
発明審査院へ設計日誌を提出してから三日後、リゼットの工房には、王都の水路図が壁いっぱいに広げられていた。
青い線は大河から引かれた幹線水路、細い赤線は各区画へ分かれる枝水路。その上に、彼女たちが設置した記録器の位置が小さな札で示されている。
「南区の記録だけ、毎月同じ夜に途切れています」
ノアが記録紙を並べながら言った。
「雨が降っていても、装置が壊れていなくても、夜半から明け方まで空白になる。最初は記録紙の不良だと思っていたけれど……」
「空白の前後で、水路の振動が変わっている」
リゼットは銀板を指でなぞった。
「雨音の線が消えた直後だけ、水門を閉じたような揺れが残るわ」
ミラが眉を寄せた。
「誰かが記録器を止めて、水を別の方へ流している?」
「その可能性が高い」
答えたのは、窓辺に立つユリウスだった。
彼の前には、水利局から取り寄せた公式記録がある。王都の全水路を管理する役所の印が押された書類だが、数字は整いすぎていた。雨量の多い月も少ない月も、貴族街へ送られた水量だけはほとんど変わっていない。
「帳簿上では、貴族街の水路は常に優先されている。だが、雨量が足りない月にまで一定量を保てるはずがない」
「どこかから水を奪っているのね」
「平民街と農村用の貯水池からだ」
ユリウスは地図の南側を指した。
「ただし、水利局は配分記録を公開していない。議会に提出されるのは、この要約だけだ」
「では、詳しい帳簿は局の中に?」
「あるはずだ」
その声には、いつもより強い確信があった。
リゼットは彼を見た。
「見たことがあるのですか」
ユリウスは一瞬黙った。
「水路監督官を務めていた頃、局の地下保管庫へ入ったことがある。古い帳簿はそこに置かれていた。だが、当時の私は、記録の数字を疑わなかった」
彼の指が、地図の端で止まった。
「水不足を訴えた村に対して、配水車を回すよう命じた。局の帳簿では、必要な水はすでに届けられたことになっていたからだ」
「でも、届いていなかった」
「ああ。私は命令書を書いて終わった。現場を確かめなかった」
工房の空気が重くなった。
リゼットは以前なら、彼の失敗を責めていたかもしれない。けれど今は、彼がその記憶を隠さずに語ったことの方が重要だった。
「だから、今は確かめるのですね」
ユリウスは顔を上げた。
「今度は、数字だけを信じない」
その日の夕方、ユリウスは水利局へ向かった。彼の身分なら、局内の執務室へ入ることはできる。しかし、地下保管庫を調べるには正式な許可が必要だった。
リゼットたちは工房で待機し、新型記録器のデータを整理した。夜が更けてもユリウスは戻らない。窓の外で風が鳴り、吊るされた銅片がかすかに触れ合った。
日付が変わる直前、扉が三度、短く叩かれた。
合図を知らない者なら、二度目で間を置くはずだった。
ミラが灯りを消し、グレンが扉の脇に立つ。リゼットが覗き穴から外を見ると、雨に濡れた若い男が立っていた。水利局の制服を着ているが、顔は青ざめている。
「ユリウス様から聞いています」
男は声を潜めた。
「私は局の記録係、エドガー・ルーンです。中へ入れてください」
リゼットが扉を開くと、エドガーは転がり込むように入ってきた。胸元から、布で包んだ分厚い帳簿を取り出す。
「これを見つけました。正規の保管庫ではありません。局長室の奥、壁を二重にした隠し棚に……」
帳簿の表紙には題名がなかった。だが、革の隙間には何度も開閉された跡があり、ページの角には水の配分先を示す符号が記されている。
リゼットが最初の頁を開いた。
そこには、公式記録とは異なる数字が並んでいた。南区へ送られたはずの水が、実際には貴族街の私設貯水槽へ流されている。雨量記録が途切れた夜には、必ず同じ家名と役人の署名があった。
「隠し帳簿……」
ノアが呟いた。
「これが見つかれば、局は私を犯人に仕立てます」
エドガーの手が震えている。
「昨日、同僚が一人、帳簿を持ち出した疑いで連れていかれました。戻ってきていません」
その時、裏口から低い声がした。
「だから、ここへ来るように言った」
ユリウスだった。外套の肩には雨が光っている。
「エドガー、もう局へ戻るな」
「ですが、家族が……」
「家族の居場所は確保した。今夜のうちに、王都の外にある修道院へ移す」
ユリウスは小さな封筒を差し出した。
「私の名で発行した通行証だ。護衛もつける」
エドガーは封筒を受け取り、唇を噛んだ。
「なぜ、そこまで」
「君が告発したからではない。君が、誰も見ようとしなかった数字を見たからだ」
ユリウスはリゼットへ視線を移した。
「これで、改ざんの中心が水利局だと示せる。ただし、帳簿だけでは盗品扱いにされる。記録器のデータと、署名の筆跡、実際の水量を突き合わせる必要がある」
「私たちでやります」
リゼットは帳簿を閉じた。
「この数字が本物なら、消された雨音にも同じ印が残っているはずです」
彼女は銀板を一枚取り出し、雨音の線を灯りにかざした。
「雨は嘘をつきません。水路も、記録器も」
外では、王都全体を濡らす雨が降り続いていた。
その音の下で、長い間隠されていた帳簿が、初めて正しい頁を開いた。




