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雨音を記す工房令嬢は、無口な水路伯爵と明日の街をつくる  作者: 銀細工ナギ


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10/20

消された雨の真相

 雨は朝まで降り続いた。


 工房の窓を叩く音に混じって、机の上では新型記録器の銀板が細かく震えている。リゼットは眠らないまま、隠し帳簿と記録器のデータを何度も照らし合わせていた。


「南区の空白は、やはり水門を閉じた時刻と一致しています」


 ノアが記録紙を指で押さえた。


「帳簿にある私設貯水槽への送水時刻も同じです。雨が降っている夜にだけ、南区への水が止められている」


 ミラが別の紙を並べる。


「しかも、貴族街の噴水用水路には、雨が少ない月ほど多く流されているわ」


 数字は、もう偶然ではなかった。


 公式の記録では、王都全域に十分な水が配られていることになっている。だが、実際には南区や周辺の村から水を抜き取り、貴族街の庭園や浴場、私設貯水槽へ回していた。


 その事実を隠すために、雨音の記録が消されていたのだ。


 リゼットは、最初の空白が生まれた銀板を持ち上げた。消えた部分の端には、かすかな傷が残っている。水門を操作した振動が、雨音の線を乱し、その後に記録器を止めた痕跡だった。


「雨が降らなかったから消えたんじゃない」


 彼女は静かに言った。


「雨が降っていたから、消されたのね」


 誰も答えなかった。


 降雨があれば、各区画へ公平に水を配るべきだと分かってしまう。雨が少なければ、貴族街への優先配水も、まだ“緊急措置”と言い張れた。けれど豊かな雨の夜に南区の水を止めれば、不正が明らかになる。


 だから、雨音そのものを記録から消した。


 リゼットの胸の奥で、冷たいものが広がった。


 かつて彼女の発明を奪った工房主は、身分の低い職人には権利がないと言った。だが、ここで消されていたのは一人の職人の名ではない。水を待つ子どもたちの喉の渇きであり、畑を守ろうとする村人の祈りであり、正しい数字を信じた者たちの暮らしだった。


「公開審査を求めましょう」


 ユリウスが言った。


 彼は机の前に立ち、隠し帳簿を見下ろしていた。怒りを表に出してはいない。けれど、握りしめた拳の関節が白くなっている。


「この証拠を議会へ提出する。水利局だけの審査では、帳簿も記録器も都合よく処分される」


「議会が受け入れるでしょうか」


 ノアが不安そうに尋ねた。


「受け入れさせる」


 ユリウスは答えた。


「雨音の記録、実際の水路振動、隠し帳簿、署名の筆跡。どれか一つなら疑われる。だが、すべてが同じ夜を指している。公開の場で、誰も目をそらせない形にする」


 リゼットは帳簿の頁をめくった。末尾には、配水を決めた者たちの印が並んでいる。その中には、王都でも名の知れた貴族の家名があった。


「この名前を公にすれば、あなたにも危険が及びます」


「すでに及んでいる」


 ユリウスは彼女を見た。


「私は水路監督官だった。数字を信じ、現場を見なかった責任がある。ならば今度は、見つけた真実を隠さない責任を負う」


 その言葉に、リゼットは目を伏せた。


 ユリウスは彼女を守るために戦おうとしているのではない。自分の過去を償うためだけでもない。二人が同じ机で見つけた事実を、同じ重さで世に出そうとしている。


「では、私も証言します」


「リゼット」


「私は記録器を作った職人です。雨音がどう消され、どんな傷が残るのかを説明できます。私の身分を理由に、証拠まで低く扱わせません」


 ユリウスの瞳が揺れた。


「危険だ」


「分かっています」


 リゼットは銀板を机に置いた。


「でも、私が黙れば、また誰かが記録を奪われる。雨音も、発明も、声も。そんな仕組みを終わらせたいのです」


 工房の奥で、グレンが大きく息を吐いた。


「だったら、俺たちも証言する。記録器を組み立てたのは俺たちだ。壊れていないことなら、自分の手で話せる」


「私も」


 ミラが手を挙げた。


「南区の水路を測った記録は、全部整理してあるわ」


「僕は帳簿の符号を読み解きます」


 ノアも続いた。


 エドガーは黙っていたが、やがて震える手を膝の上で握った。


「私も、署名の順番を話します。誰が命じ、誰が書き換えたのか」


 ひとりの決意が、工房いっぱいの声になった。


 その日の昼、ユリウスは議会宛ての申立書を書いた。題名は簡潔だった。


 王都水配分記録に関する公開審査の請願。


 リゼットは署名欄に、自分の名をはっきりと記した。身分を示す余計な肩書きは添えなかった。職人リゼット。それだけで十分だった。


 封蝋を押す前、ユリウスが尋ねた。


「後悔はないか」


「あります」


 リゼットは正直に答えた。


「怖いです。けれど、怖いからといって真実が消えるわけではありません」


 窓の外では、雨が少しずつ弱まっていた。


 やがて雲の切れ間から光が差し、濡れた石畳を白く照らす。水路には雨水が流れ、昨夜閉じられていた水門の向こうで、堰を越える音がしていた。


 その音を聞きながら、リゼットは思った。


 消された雨音は、なくなったのではない。


 記録から追い出されただけで、今もどこかで鳴り続けている。耳を澄ます者がいる限り、真実は必ず戻ってくる。


 ユリウスが封蝋を押した。


 二人は並んで、議会へ向かった。

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