奪われた発明の権利
雨が上がった翌朝、工房の扉を叩いたのは、見覚えのある紋章をつけた男だった。
リゼットが扉を開けると、男は冷たい目で工房の中を見回した。濃紺の上着の襟には、かつて彼女が働いていた魔道具工房、《銀梟堂》の徽章が刺繍されている。
「リゼット・アルノーだな」
「そうですが」
「君が王都の水路に設置している装置について、所有権の確認に来た」
男は一枚の書類を差し出した。
そこには、リゼットが改良した新型記録器の設計が、《銀梟堂》の発明として登録されていると書かれていた。
彼女の指が、紙の上で止まった。
「これは、私が辞めた後に作ったものです」
「核となる構造は、当工房で君が開発した雨音記録器を基礎にしている。雇用契約では、工房内で生まれた技術の権利はすべて工房に帰属すると定められていた」
「私の契約書には、そんな条文はありません」
「君は読み書きが得意ではなかっただろう。署名はしている」
男は淡々と言った。
「この装置の製造と使用を中止し、すでに配布したものも回収してもらう。応じない場合は、発明権の侵害として訴える」
背後で、ミラが工具を置く音がした。グレンも鍛冶場から顔を出し、険しい表情で男を見ている。
リゼットは書類を受け取らなかった。
「お名前を伺っても?」
「銀梟堂の管理責任者、バルドだ」
「バルドさん。ひとつ確認させてください」
リゼットは工房の奥にある棚へ歩いた。そこには、古びた帳面が何冊も積み重なっている。
「雨音記録器を最初に作った日を覚えていますか」
「そんな昔のことは知らん」
「では、なぜそれが銀梟堂の発明なのですか」
バルドの眉がわずかに動いた。
「君は当時、当工房の職人だった。工房の設備を使い、工房の材料で作った。だから権利は工房にある」
「材料費は、給金から引かれていました。設計も試験も、勤務時間の前後に私ひとりで行いました」
「証拠はあるのかね」
その問いに、リゼットは棚から一冊の帳面を取り出した。
表紙には、雨染みの跡とともに、彼女自身の字でこう記されている。
――雨音記録器・試作一号、春の十四日。
ページを開くと、日付ごとの設計変更、使った部品、失敗した試験の結果が細かく書き込まれていた。最初の試作では膜が破れ、二号では音を拾えず、三号でようやく銀板に雨の強弱を刻めるようになった経緯が残っている。
帳面の端には、当時の工房主の印もあった。材料を受け取った日付と、支給された銅線の本数を確認するための印だ。
「これは私の設計日誌です」
リゼットは帳面を机の上に置いた。
「雨音記録器の基礎部分は、六年前のこの日に完成しています。新型魔道具の水晶棒と二重記録の仕組みは、先週、ここで考えたものです。時系列が合いません」
バルドは帳面をめくった。最初は余裕のある顔をしていたが、ページを進めるにつれ、口元が硬くなっていく。
「日誌など、後から書き足せる」
「だから、これだけではありません」
ミラが声を上げた。
彼女は自分の作業台から、細い金属板を持ってきた。そこには、いくつもの刻印が並んでいる。
「リゼットが使った道具の試作品です。作った日を私が記録していました。彼女が銀梟堂を出た後に、私の工房で削った水晶枠もあります」
「私の記録紙の型は?」
ノアが震える声で尋ねた。グレンがすぐに頷いた。
「俺も、あの娘がどの部品をいつ頼んだか覚えている。鍛冶屋は注文票を捨てない」
バルドは三人を睨みつけた。
「職人同士で口裏を合わせているだけだ」
「なら、第三者に確かめてもらいましょう」
静かな声が工房に響いた。
いつの間にか、ユリウスが扉のそばに立っていた。外套には朝露が残っている。彼はバルドへ近づき、書類を一枚取り上げた。
「この登録申請は、いつ提出された」
「……先月だ」
「雨音記録器の旧型を登録した日付は?」
「それが何か」
「六年前だ。だが、設計者の欄には銀梟堂の名しかない」
ユリウスは書類の下部を指で示した。
「発明者本人の署名がない登録は、申請の根拠を問われる。しかも新型の申請図には、水路振動を二本の線で記録する仕組みが記載されている。これは先週、私の立ち会いのもとで完成した」
バルドの顔から血の気が引いた。
「伯爵家の者が、平民の肩を持つつもりか」
「私は肩を持っているのではない。証拠を確認している」
ユリウスはリゼットを見た。
「この設計日誌を、王都の発明審査院へ提出する。君自身の名で、所有権の確認を申し立てよう」
リゼットは帳面に手を置いた。紙の角は擦り切れ、何度も雨に濡れた跡がある。銀梟堂を辞めた日、彼女はこれだけを胸に抱えて工房を出た。発明を奪われても、せめて自分が作った証だけは失いたくなかった。
「怖くないと言えば、嘘になります」
「それでも、やるのか」
「はい」
リゼットは顔を上げた。
「今度は、誰かに許してもらうためではありません。私が作ったものを、私の名で残すためです」
ユリウスの目に、静かな光が宿った。
バルドは最後まで抵抗したが、ユリウスが審査院への召喚状をその場で作成すると、書類を奪い返して工房を出ていった。
扉が閉まったあと、しばらく誰も口を開かなかった。
「……本当に、取り戻せるでしょうか」
リゼットが呟くと、グレンが大きな手で机を叩いた。
「取り戻すんじゃねえ。最初からお前のもんだったって、皆に分からせるんだ」
ミラも笑った。
「証拠は一人分じゃない。ここにいる全員が見ていた」
ノアは記録紙を抱え直した。
「新しい装置にも、リゼットさんの名前を書きましょう」
「名前だけでいいの?」
「名前がなければ、また誰かが持っていくかもしれません」
その言葉に、リゼットは小さく頷いた。
彼女は新型魔道具の底板を取り、刻印用の針を手に取った。震える指で、金属に一文字ずつ刻んでいく。
リゼット・アルノー。
雨音を記録し、水路の異常を拾う道具。その名の下には、共に作った仲間たちの印も加えられた。
作業を終えた頃、窓の外でまた雨が降り始めた。
銀板の上に、細い線が走る。雨の音と、水路の振動。その二つは重なりながら、確かな記録を刻んでいった。
奪われたものを取り戻す戦いは、始まったばかりだった。




