任せられない伯爵令息
ルーゼ村を発ってから、ユリウスはほとんど口を利かなかった。
夕暮れの街道を、二頭の馬が静かに進んでいく。車輪の音と、荷台に積んだ測定器が揺れる音だけが続いていた。
リゼットは干し果物の包みを膝に置き、向かいに座るユリウスを見た。
彼はいつも無口だった。けれど今日の沈黙は、普段とは違う。考え込んでいるというより、何かを閉じ込めているように見えた。
「村の記録を、北部観測所へ持っていきますか」
「いや」
返事が早かった。
「水利局へ提出する。写しを三部作り、王都の議会にも送る」
「では、私が写しを作ります」
「必要ない。私がやる」
また、早かった。
リゼットは目を瞬いた。
「測定器の記録を読み取るには、私の調整が必要です」
「ならば、調整方法だけ教えてくれ」
「ユリウス様が?」
「できる」
その声には、妙な硬さがあった。
リゼットはそれ以上言わなかった。彼が自分の仕事を奪おうとしているわけではないことくらい、分かっている。むしろ逆だった。
誰かに任せることを、ひどく恐れている。
北部観測所へ戻ると、ユリウスはすぐに記録室へ入り、村で採取した銀板と管の刻印を机に並べた。
「この銀板は、雨量ではなく流量を示している。村へ届いた水の量は、観測記録にあるはずの三分の一しかない」
「はい」
「だが、役所がこれを認めなければ、単なる読み違いだと言われる」
「だから、複数の記録を照合します」
「私がする」
彼は銀板を一枚持ち上げた。
その指先が、わずかに震えていた。
リゼットが何も言わずにいると、ユリウスはしばらく銀板を見つめていたが、やがて低い声で言った。
「三年前、私は一度、同じような調査をした」
雨の音が、窓の外で細く降り始めた。
「西部水路で、記録と実際の水量が合わないと報告があった。私は現地へ行かず、部下に確認を任せた」
「部下の方が、調査を?」
「ああ。信頼できる男だった。父の代から水路を見てきた者で、私より経験もあった」
ユリウスは銀板を机へ戻した。
「彼は問題がないと報告した。私はその報告に署名し、調査を終えた」
「そのあと、何があったのですか」
「西部の貯水池が崩れた。雨が少ない年だったから大事故にはならなかったが、下流の町へ泥水が流れ込んだ。原因は、記録を改ざんしていた配水管だった」
彼の声は淡々としていた。だからこそ、そこに残った傷の深さが分かった。
「任せた相手が、改ざんに加担していたのですか」
「そうだ。彼だけではない。上の役人も関わっていた。だが、最終的に署名したのは私だ」
ユリウスは窓の外へ顔を向けた。
「伯爵家の次男で、水路管理を任されている者が、現地を見ずに報告を信じた。その結果、水を必要とする町を危険にさらした」
「それは、ユリウス様の失敗です」
「分かっている」
「ですが、だからといって、すべてを自分で抱え込む理由にはなりません」
彼が振り返った。
灰色の瞳に、鋭い光が浮かんでいる。
「任せた結果、誰かが傷つくかもしれない」
「任せなかった結果、もっと多くの人が傷つくこともあります」
言ってから、リゼットは少し息を呑んだ。
相手は伯爵令息だ。工房の雇い主にさえ、こんな言葉を返したことはない。
けれどユリウスは怒らなかった。
「君は、私を責めないのか」
「責めています」
「……そうか」
「失敗したことではなく、失敗を理由に誰にも頼らなくなったことを責めています」
雨脚が強くなった。窓を打つ音が、記録室いっぱいに広がる。
「私は、発明の権利を何度も奪われました」
リゼットは机の上の銀板を見た。
「設計を見せた相手が、私の知らないところで名前を書き換えたこともあります。だから、最初は誰にも任せたくありませんでした。道具の仕組みも、記録の取り方も、全部ひとりで抱えていた」
それでも、ひとりでは村の水門を動かせなかった。ユリウスが石板を支え、村人たちが水路を掃除してくれたから、水は畑へ届いた。
「でも、ひとりで守れるものには限りがあります」
リゼットは彼をまっすぐ見た。
「任せる相手を選ぶことと、何も考えずに信じることは違います。確認する仕組みを作ればいい。誰か一人の報告だけで決めないようにすればいい」
ユリウスはしばらく黙っていた。
「君なら、私に何を任せる」
「まずは、明日の朝までに水路の配置図を整理していただきます」
「私に?」
「はい。私は銀板の読み取りと、記録装置の調整をします。ユリウス様は、王都の水路と役所の管轄をご存じです。私より適任です」
「失敗するかもしれない」
「そのときは一緒に確かめます」
ユリウスの表情が、ほんの少し緩んだ。
「君は、人使いが荒いな」
「任せるというのは、そういうことでしょう」
翌朝、二人は記録室の机を分けた。
ユリウスは古い水路図を広げ、村から貴族街へ伸びる管の経路を赤い糸で結んでいく。リゼットは銀板を読み取り、流量と水圧の変化を新しい紙へ写した。
最初は互いの作業を覗き込むたびに、手が止まった。
やがて、ユリウスが一枚の図面を指差した。
「この管は、旧水門から直接つながっていない。途中で分岐している」
「では、分岐点ごとに測定器を置けば、流れを追えます」
「だが、すべての場所へ人を送るには足りない」
「人を送らなくても記録できるようにします」
リゼットは工具箱から小さな水晶片を取り出した。
「雨音を記録する装置を、流れの振動にも反応するよう改良します。水路の壁に取りつければ、夜中に管が開いたかどうか分かるはずです」
「それを、君ひとりで作るのか」
「いいえ」
リゼットは作業台の上に、仲間たちへ送る手紙を並べた。
「工房の皆に頼みます。私だけでは数が足りませんから」
ユリウスはその手紙を見つめ、それから静かに頷いた。
「私も、父の配下ではなく、自分で選んだ者に頼む」
「それでいいと思います」
窓の外では、昨夜の雨が水路を満たしていた。
流れる水は、目に見えない分岐へ進み、いくつもの街を通っていく。そのどこかで、また誰かが流れを変えようとしている。
けれど今度は、ひとりで追いかけない。
リゼットは新しい設計図を広げた。ユリウスも、その隣へ水路図を重ねた。
二つの紙の端が触れ合い、隠された流れの上で、一本の線になった。




