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雨音を記す工房令嬢は、無口な水路伯爵と明日の街をつくる  作者: 銀細工ナギ


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6/20

任せられない伯爵令息

 ルーゼ村を発ってから、ユリウスはほとんど口を利かなかった。


 夕暮れの街道を、二頭の馬が静かに進んでいく。車輪の音と、荷台に積んだ測定器が揺れる音だけが続いていた。


 リゼットは干し果物の包みを膝に置き、向かいに座るユリウスを見た。


 彼はいつも無口だった。けれど今日の沈黙は、普段とは違う。考え込んでいるというより、何かを閉じ込めているように見えた。


「村の記録を、北部観測所へ持っていきますか」


「いや」


 返事が早かった。


「水利局へ提出する。写しを三部作り、王都の議会にも送る」


「では、私が写しを作ります」


「必要ない。私がやる」


 また、早かった。


 リゼットは目を瞬いた。


「測定器の記録を読み取るには、私の調整が必要です」


「ならば、調整方法だけ教えてくれ」


「ユリウス様が?」


「できる」


 その声には、妙な硬さがあった。


 リゼットはそれ以上言わなかった。彼が自分の仕事を奪おうとしているわけではないことくらい、分かっている。むしろ逆だった。


 誰かに任せることを、ひどく恐れている。


 北部観測所へ戻ると、ユリウスはすぐに記録室へ入り、村で採取した銀板と管の刻印を机に並べた。


「この銀板は、雨量ではなく流量を示している。村へ届いた水の量は、観測記録にあるはずの三分の一しかない」


「はい」


「だが、役所がこれを認めなければ、単なる読み違いだと言われる」


「だから、複数の記録を照合します」


「私がする」


 彼は銀板を一枚持ち上げた。


 その指先が、わずかに震えていた。


 リゼットが何も言わずにいると、ユリウスはしばらく銀板を見つめていたが、やがて低い声で言った。


「三年前、私は一度、同じような調査をした」


 雨の音が、窓の外で細く降り始めた。


「西部水路で、記録と実際の水量が合わないと報告があった。私は現地へ行かず、部下に確認を任せた」


「部下の方が、調査を?」


「ああ。信頼できる男だった。父の代から水路を見てきた者で、私より経験もあった」


 ユリウスは銀板を机へ戻した。


「彼は問題がないと報告した。私はその報告に署名し、調査を終えた」


「そのあと、何があったのですか」


「西部の貯水池が崩れた。雨が少ない年だったから大事故にはならなかったが、下流の町へ泥水が流れ込んだ。原因は、記録を改ざんしていた配水管だった」


 彼の声は淡々としていた。だからこそ、そこに残った傷の深さが分かった。


「任せた相手が、改ざんに加担していたのですか」


「そうだ。彼だけではない。上の役人も関わっていた。だが、最終的に署名したのは私だ」


 ユリウスは窓の外へ顔を向けた。


「伯爵家の次男で、水路管理を任されている者が、現地を見ずに報告を信じた。その結果、水を必要とする町を危険にさらした」


「それは、ユリウス様の失敗です」


「分かっている」


「ですが、だからといって、すべてを自分で抱え込む理由にはなりません」


 彼が振り返った。


 灰色の瞳に、鋭い光が浮かんでいる。


「任せた結果、誰かが傷つくかもしれない」


「任せなかった結果、もっと多くの人が傷つくこともあります」


 言ってから、リゼットは少し息を呑んだ。


 相手は伯爵令息だ。工房の雇い主にさえ、こんな言葉を返したことはない。


 けれどユリウスは怒らなかった。


「君は、私を責めないのか」


「責めています」


「……そうか」


「失敗したことではなく、失敗を理由に誰にも頼らなくなったことを責めています」


 雨脚が強くなった。窓を打つ音が、記録室いっぱいに広がる。


「私は、発明の権利を何度も奪われました」


 リゼットは机の上の銀板を見た。


「設計を見せた相手が、私の知らないところで名前を書き換えたこともあります。だから、最初は誰にも任せたくありませんでした。道具の仕組みも、記録の取り方も、全部ひとりで抱えていた」


 それでも、ひとりでは村の水門を動かせなかった。ユリウスが石板を支え、村人たちが水路を掃除してくれたから、水は畑へ届いた。


「でも、ひとりで守れるものには限りがあります」


 リゼットは彼をまっすぐ見た。


「任せる相手を選ぶことと、何も考えずに信じることは違います。確認する仕組みを作ればいい。誰か一人の報告だけで決めないようにすればいい」


 ユリウスはしばらく黙っていた。


「君なら、私に何を任せる」


「まずは、明日の朝までに水路の配置図を整理していただきます」


「私に?」


「はい。私は銀板の読み取りと、記録装置の調整をします。ユリウス様は、王都の水路と役所の管轄をご存じです。私より適任です」


「失敗するかもしれない」


「そのときは一緒に確かめます」


 ユリウスの表情が、ほんの少し緩んだ。


「君は、人使いが荒いな」


「任せるというのは、そういうことでしょう」


 翌朝、二人は記録室の机を分けた。


 ユリウスは古い水路図を広げ、村から貴族街へ伸びる管の経路を赤い糸で結んでいく。リゼットは銀板を読み取り、流量と水圧の変化を新しい紙へ写した。


 最初は互いの作業を覗き込むたびに、手が止まった。


 やがて、ユリウスが一枚の図面を指差した。


「この管は、旧水門から直接つながっていない。途中で分岐している」


「では、分岐点ごとに測定器を置けば、流れを追えます」


「だが、すべての場所へ人を送るには足りない」


「人を送らなくても記録できるようにします」


 リゼットは工具箱から小さな水晶片を取り出した。


「雨音を記録する装置を、流れの振動にも反応するよう改良します。水路の壁に取りつければ、夜中に管が開いたかどうか分かるはずです」


「それを、君ひとりで作るのか」


「いいえ」


 リゼットは作業台の上に、仲間たちへ送る手紙を並べた。


「工房の皆に頼みます。私だけでは数が足りませんから」


 ユリウスはその手紙を見つめ、それから静かに頷いた。


「私も、父の配下ではなく、自分で選んだ者に頼む」


「それでいいと思います」


 窓の外では、昨夜の雨が水路を満たしていた。


 流れる水は、目に見えない分岐へ進み、いくつもの街を通っていく。そのどこかで、また誰かが流れを変えようとしている。


 けれど今度は、ひとりで追いかけない。


 リゼットは新しい設計図を広げた。ユリウスも、その隣へ水路図を重ねた。


 二つの紙の端が触れ合い、隠された流れの上で、一本の線になった。

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