水不足の村と小さな成功
水利局の地下水路へ入る許可は、結局その場では下りなかった。
局長を名乗った老人は、記録帳を閉じるなり「調査は追って通知する」と言い残し、青い袖の男を連れて奥へ消えた。拒まれた理由が、立ち入り規定ではなく、見られたくないものがあるからだということは明らかだった。
けれど、リゼットは手ぶらで帰らなかった。
ユリウスが局の外で足を止める。
「北部観測所へ戻るか」
「いいえ。その前に、旧水門の下流にある村へ行きたいです」
「村?」
「昨夜の測定器が示した水圧の変化は、下流へ流れた水の量と合いません。水門を開けたあと、どこかで水を分けたはずです」
ユリウスは少し考え、頷いた。
「ルーゼ村。旧水門から半日ほどだ」
王都の外れにあるルーゼ村は、石壁に囲まれた小さな集落だった。畑には乾いた土がひび割れ、共同井戸の前には空の桶がいくつも並んでいる。村人たちは二人を見て警戒したが、ユリウスが水路管理の調査だと名乗ると、年配の女が深いため息をついた。
「調査なら、もう何度も来ましたよ。役所の人は、雨が少ないから仕方ないと言って帰るだけです」
「今年の雨量は、昨年と比べて極端に少ないわけではありません」
リゼットが言うと、女は驚いたように目を見開いた。
「そうなんですか?」
「観測所の記録では、少なくとも北部では例年の七割ほどあります。畑を枯らすほどではないはずです」
村人たちの間にざわめきが広がった。
村長に案内されて水路へ向かうと、細い用水路の底に乾いた藻が張りついていた。水が流れた形跡はある。だが、畑へ分かれる三つの支流には、ほとんど水が届いていなかった。
リゼットは工具袋から金属箱を取り出し、用水路の石壁に測定器を固定した。水晶が淡く光り、銀板に細い線が刻まれていく。
「ここでは、ほんの少しだけ水が流れています」
「ほんの少し?」
「上流から来た水の量に比べて、少なすぎます」
彼女は水路の分岐点へ歩き、泥に埋もれた鉄の板を見つけた。板の端には、役所の紋章が刻まれている。
村長が唸った。
「そんなものは、昔からありました。動かそうとしてもびくともしません」
「動かないのではなく、動かすための鍵が別にあるのかもしれません」
リゼットは鉄板の隙間へ細い針を差し込んだ。中で小さな歯車が噛み合う音がする。錆びた留め具を外すと、板はわずかに持ち上がった。
その下から、細い水が勢いよく噴き出した。
村人たちが息を呑む。
水は地中へ伸びた別の管へ吸い込まれていた。管の先は村の畑とは逆方向、丘の向こうへ続いている。
「水を抜くための管です」
リゼットは管の継ぎ目に測定器を当てた。
「いつも開いているわけではありません。夜中にだけ開く仕組みになっているようです」
ユリウスが周囲を見渡した。
「丘の向こうには何がある」
「貴族街へ水を送る貯水池があります」
村長の声が震えた。
「では、私たちの水を、あちらへ?」
「まだ断定はできません。ですが、記録と装置を照合すれば分かります」
リゼットは村人たちに手を借り、管の出口を探した。丘の裏側には古い石槽があり、そこへ水が流れ込んでいた。石槽の側面には、最近つけられた新しい刻印がある。王都の貴族街にある邸宅名と、配水量を示す数字だった。
ユリウスの表情が険しくなる。
「村の分配管から、直接、貴族街へつないでいる」
「これが旧水門の開閉と連動しているなら、記録から雨音を消した理由も説明できます」
リゼットは石槽の縁に腰を下ろした。
「雨が降った日に水が足りないことを知られたくなかった。村へ届くはずの水を別の場所へ回しても、雨量記録が少なければ、単なる渇水だと言い張れます」
そのとき、村の子どもが一人、空の桶を抱えて近づいてきた。
「あの水、畑に流せる?」
リゼットは管を見た。封じるだけなら簡単だ。だが、貴族街へ向かう管を無理に止めれば、上流の水路があふれる恐れがある。
「水門の板を少しだけ戻し、流れを分けます」
彼女は工具を取り出し、錆びた歯車を外した。代わりに自作の小さな留め金を取りつけ、管の開き具合を調整する。ユリウスも黙って石板を支えた。
何度か試すうち、細い水が村の支流へ流れ始めた。
乾いた溝を、水が銀色に走っていく。
畑の手前で流れが止まると、子どもが歓声を上げた。村人たちは桶を持って集まり、土へ水を注ぎ始める。ひび割れた畑がすぐに豊かになるわけではない。それでも、枯れかけた苗の根元に水が届いた。
「これで、三日ほどは持つでしょう」
リゼットが言うと、村長は何度も頭を下げた。
「たったこれだけの仕掛けで……」
「仕掛けを作っただけです。動かしたのは、皆さんです」
リゼットはそう答えたが、胸の奥には温かなものが残った。
これまで彼女の魔道具は、貴族の命令書や工房の帳簿のために使われてきた。誰かが名前を奪い、利益を持っていくたび、自分の仕事が誰の役に立っているのか分からなくなっていた。
けれど今、目の前の水は、確かに人の手を救っている。
ユリウスが、濡れた銀板を覗き込んだ。
「小さな成功だな」
「小さいでしょうか」
「この村にとっては、大きい」
彼の言葉に、リゼットは笑った。
測定器の銀板には、水が流れた時間と量が刻まれている。その線は、役所の記録よりも短く、粗い。それでも、誰にも消されない新しい証拠だった。
帰り際、村長が干し果物の包みを差し出した。
「お礼です。たいしたものではありませんが」
リゼットは両手で受け取った。
「十分です」
丘の上から村を振り返る。細い水路は、夕日に照らされながら畑の間を進んでいた。
「ユリウス様」
「何だ」
「この調査、最後まで続けましょう」
彼は彼女を見た。
「最初から、そのつもりだ」
リゼットは包みを抱きしめ、水の音に耳を澄ませた。遠くで、見えない水門が軋んでいる。隠された流れは、まだいくつもある。
けれど、ひとつは見つけた。
そして今度は、その水を正しい場所へ戻せた。




