身分より確かな測定器
翌朝、リゼットは工房の作業台に硝子片を置き、薄い布を何重にも巻いた。
夜のあいだ、硝子片は何度か淡く光った。雨音の核が残っている証拠だ。けれど、音を再生しようと魔力を流すと、決まって途中で途切れる。誰かが意図的に記録を切り取ったのか、それとも別の装置へ移す際に壊れたのか、まだ分からなかった。
「王都水利局へ行く」
ユリウスが工房の扉を開けた。
リゼットは顔を上げた。
「昨日の水門の件を、正式に調べるためですか」
「旧水門の使用記録と、局員の出入りを確認する。君も来てほしい」
「私が?」
「硝子片を見つけたのは君だ。調査員として同席する」
リゼットは作業台の端に置かれた自分の古い外套を見た。裾は油で汚れ、袖口には細かな金属粉が染みついている。貴族街の役所へ行くには、あまりにも職人らしい服だった。
「局が、私を調査員として認めるでしょうか」
「認めさせる」
ユリウスは短く言った。
水利局は、王都の中央広場から少し離れた白い建物にあった。正面玄関の上には、水を抱く女神の彫像が掲げられている。石段を上がると、受付の男がユリウスの姿を見て立ち上がった。
「これはユリウス様。ご来局の予定は伺っておりませんが」
「北部観測所の雨音記録と、旧水門の使用について確認したい」
「記録の閲覧には局長の許可が必要です」
「では、局長に取り次げ」
「本日は会議中でして」
男はそう言いながら、リゼットへ視線を移した。汚れた外套、革の工具袋、短く結んだ髪。その目に、露骨な値踏みの色が浮かぶ。
「そちらの方は?」
「私の調査補佐だ」
「補佐……ですか」
男の口元がわずかに歪んだ。
「職人を役所の記録室へ入れる規定はありません。部外者の立ち入りはご遠慮ください」
「彼女は観測記録を解析できる」
「解析なら、局の技術官が行います」
「その技術官が扱った記録に、不自然な欠落がある」
ユリウスの声が冷たくなった。
受付の男は一瞬だけ黙ったが、すぐに慇懃な笑みを戻した。
「伯爵家の方がご興味を持たれるのは自由ですが、身分のない職人を正式な調査員として扱うことはできません」
リゼットの指が工具袋の革をつかんだ。
身分がない。
その言葉は、何度も聞いてきた。発明を横取りされたときも、設計の対価を値切られたときも、いつも最後には同じ言葉が置かれた。身分がないから、名前を残す資格がない。身分がないから、証拠を示しても信用されない。
けれど、今日は引き下がるつもりはなかった。
「では、局の技術官が測った記録と、私の測定結果を比べてください」
リゼットは工具袋から、小さな金属箱を取り出した。
箱の上面には、細い管と三枚の薄い銀板が取りつけられている。中心には雨滴ほどの水晶が埋め込まれていた。
「これは何だ」
受付の男が眉をひそめる。
「水路振動測定器です。水の流れが石壁や水門の軸に伝える振動を、音の高さと強さに分けて記録します」
「雨音の記録ではないだろう」
「雨が水路へ入った量は、水路の振動に残ります。音の核を消しても、水の通った痕跡までは消せません」
リゼットは箱の側面を開き、銀板を一枚抜いた。
「昨夜、旧水門の下流で測定しました。三日前の夜から翌朝にかけて、通常の降雨では生じない水圧の変化があります。水門が開かれた証拠です」
銀板には、細い線が幾重にも刻まれていた。深く刻まれた部分が、夜半から明け方にかけて急に増えている。
「それが本物だという保証は?」
「この測定器は私が作りました」
「だから信用できないと言っている」
受付の男は鼻で笑った。
「名もない職人の手製の道具など、役所の記録と同列には扱えません」
リゼットが言い返すより早く、背後から別の声が響いた。
「ならば、同じ場所で局の測定器と比べればいい」
ユリウスだった。
彼は受付台の前へ進み、銀板を手に取った。
「この測定器の製作者はリゼット。魔道具職人として、北部観測所の記録を解析し、旧水門で記録片を発見した。私は彼女を正式な調査員として保証する」
「しかし、伯爵家の保証だけでは――」
「伯爵家の名を使っているのではない」
ユリウスは男の言葉を遮った。
「私自身が、彼女の測定結果を証拠として扱うと言っている」
広い玄関に、声が通った。
奥の廊下から数人の局員が顔を覗かせる。誰も口を挟まない。リゼットは、胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。
ユリウスは彼女を守るために、前へ立ったのではない。
彼女の技術を、彼女の名で認めさせようとしている。
その違いが、はっきり分かった。
「でしたら、実演させてください」
リゼットは銀板を受付台へ置いた。
「この建物の地下水路に、局の基準測定器があるはずです。そこで同じ時間帯の記録を照合すれば、どちらが正しいか分かります」
受付の男は顔をこわばらせた。
「地下水路は関係者以外立ち入り禁止です」
「先ほど、私は正式な調査員だと保証されました」
リゼットは静かに答えた。
「それでも拒むなら、拒んだ理由も記録に残してください」
ユリウスが卓上の記録帳を引き寄せた。
「名前と役職を」
男の手が止まる。
そこへ、階段の上から杖を突く老人が現れた。水利局の紋章をつけた長衣。その後ろには、見覚えのある青い袖の男がいる。旧水門で逃げた人物と同じ布地だった。
「何の騒ぎだ」
老人が尋ねた。
ユリウスは振り返り、淡々と告げた。
「旧水門の不正使用について、調査を開始する。彼女は私が認めた調査員だ」
リゼットは金属箱を抱え直した。
役所の白い壁は、どれほど厚くても水の振動を隠せない。
測定器の針が刻む線は、身分も命令も知らない。ただ、そこを流れた水の量だけを、正確に語る。
そしてその声を、今度こそ誰にも消させない。




