消えた記録片
北部観測所を出たとき、日はすでに西へ傾いていた。
古い水門は、観測所の裏手を流れる水路の先にあった。水門番の詰め所と、錆びた歯車を収める石室。かつては王都の水量を一手に調整していた場所だが、現在は新しい水門に役目を譲り、ほとんど使われていない。
ユリウスは石造りの堤を歩きながら、手にした記録札を見ていた。
「五本の銀筒に共通するのは、雨量だけではない」
「水門の開閉記録ですか」
「そうだ。雨が強かった日の翌朝、旧水門が動かされている」
リゼットは足を止めた。
「水路局の記録には、旧水門は三年前から封鎖中とあります」
「書類の上ではな」
ユリウスは短く答えた。
水門の前には、太い鎖がかかっていた。鎖は黒ずみ、留め金には王都水利局の封蝋が残っている。だが、よく見ると土台の近くに新しい靴跡がいくつもあった。
リゼットはしゃがみ込み、泥を指先でなぞった。
「最近、誰かが出入りしています」
「封印は?」
「破られていません。鍵を持っている人間でしょう」
ユリウスは懐から鍵束を取り出した。その中から細長い鉄鍵を選び、鎖の錠へ差し込む。重い音を立てて錠が開いた。
「伯爵家が管理している鍵ですか」
「水路監督家の予備鍵だ。旧水門は、表向きは封鎖されていても、緊急時には使える」
「では、使用記録も家に残っているはずですね」
「確認する」
二人は水門の石室へ入った。中は冷たく、湿った空気が満ちていた。壁には大きな歯車が並び、中央に伸びる操作軸には、かすかな魔力の光が残っている。
リゼットは工具箱から小さな音叉を取り出した。軸に触れさせると、音叉は低く震えた。
「最近、動かされています」
「どれほど前だ」
「三日以内。昨日の雨より前です」
ユリウスが操作軸の周囲を調べる。軸の根元には、黒い布の切れ端が引っかかっていた。
リゼットが拾い上げると、布には銀糸で細い線が刺繍されていた。
「水利局の制服の袖布です」
「局員がここへ来た証拠か」
「それだけではありません」
彼女は布の裏側を光にかざした。黒い染料の中に、青白い粉が混じっている。
「封水石の粉です。水門の魔力機構を調整するときに使います。制服の布に付くようなものではありません」
「誰かが水門の作業をしていた」
「しかも、正規の作業ではないと思います」
水門の奥から、かすかな水音が聞こえた。
リゼットは壁際へ歩き、積み重ねられた木箱を動かした。背後には、石壁に埋め込まれた小さな棚があった。棚の奥に、半透明の硝子片が落ちている。
「記録片……?」
拾い上げると、硝子片の内部に淡い光が走った。雨音に似た細かな振動が、彼女の掌へ伝わってくる。
けれど、音は途中で途切れていた。
「銀筒から抜き取った音の核を、こちらに移したのかもしれません」
リゼットは慎重に硝子片を布へ包んだ。
そのとき、石室の外で何かが鳴った。
二人が振り返る。鎖が揺れ、入口の向こうに人影が走った。
「待て!」
ユリウスが外へ出る。
リゼットも続いたが、堤の先には誰もいなかった。水路沿いの茂みが揺れているだけだった。ユリウスは地面に膝をつき、落ちていた小さな金具を拾い上げた。
それは、青銅製の札留めだった。刻印には、王都水利局の紋章がある。
「逃げた者は、局の関係者でしょうか」
「断定はできない」
「でも、偶然ここにいたわけではありません」
リゼットは石室の方を見た。古い水門は、長いあいだ沈黙していた。そこへ誰かが入り、記録を抜き取り、水を動かした。そして、二人が調査に来ることを知っていたかのように姿を消した。
「記録を消した人間は、水利局だけではないかもしれません」
彼女が言うと、ユリウスは静かにこちらを見た。
「理由は」
「銀筒を扱った痕跡は局の技術者。水門を動かしたのも局の関係者。でも、銀筒の保管場所を知り、記録札を書き換えられるのは観測所の管理官です」
リゼットは手の中の硝子片を見下ろした。
「それに、王都の水を配る決定をする役所も関係しているはずです。雨が降った事実を隠して得をする人たちが、一つの部署だけとは思えません」
ユリウスはしばらく黙っていた。
やがて、彼は水路の下流へ目を向ける。そこには貴族街へ続く分岐水路があり、澄んだ水が絶えず流れていた。一方、外縁地区へ向かう水路は細く、底の石が露出している。
「雨が降ったのに、水が足りない場所がある」
「本来なら、分配を見直すべきでした」
「見直さず、記録を消した」
ユリウスの声に、初めて怒りが滲んだ。
リゼットはその横顔を見つめた。彼は貴族だった。水を優先して受け取る側の家に生まれ、古い制度の恩恵を受けてきたはずだ。それでも、目の前の水の流れを見て、見過ごせないものとして受け止めている。
「この硝子片は、観測所へ戻すべきでしょうか」
「いや」
ユリウスは即座に答えた。
「誰が味方か、まだ分からない。君の工房へ持ち帰る」
「私の工房へ?」
「君なら、誰にも知られずに調べられる」
リゼットは少し驚いた。ユリウスが彼女の技術だけでなく、判断力を頼っていることが伝わってきた。
「分かりました。ただし、工房の仲間にも隠し通せないと思います」
「信頼できる者なら、協力を頼めばいい」
「あなたは、人を疑うのが苦手なのかと思っていました」
「逆だ。疑いすぎるから、一人で抱え込む」
ユリウスは淡々と言った。
その言葉が、石室の冷気よりも深くリゼットの胸に残った。
二人は水門を閉じ、鎖を元に戻した。帰り道、リゼットは硝子片を胸元へしまい、何度もその重さを確かめた。
消えたはずの雨音は、完全には失われていない。
誰かが隠した記録の隙間で、まだ震えている。
そしてその音は、王都の水を巡る、もっと大きな秘密の入口だった。




