伯爵家の水路依頼
翌朝、雨は上がっていた。
雲の切れ間から差し込む光が、貴族街の石畳に細長い筋を作っている。夜の雨を吸った街は静かだったが、排水溝の奥では、流れきれない水が低く唸っていた。
リゼットは工房の裏口から出た。肩には工具箱、胸元には新しい記録帳を入れている。昨夜はほとんど眠れなかった。消えた雨音のことを考えていたのだ。
自然に記録が消えるなら、魔力の減衰があるはずだった。銀筒の内側に残る魔力は、時間とともに薄くなり、音の核を包む層から順に崩れていく。だが、ユリウスが持ってきた銀筒には、魔力の流れが奇妙なほど整然と残っていた。
壊れていない。
消えたのではない。
そう思うと、胸の奥が冷たくなった。
「早いな」
通りの角に、ユリウスが立っていた。
昨日と同じ黒い外套だったが、今日は雨除けの帽子を手にしている。彼の隣には家紋の入った馬車が停まっていた。御者が扉を開けると、ユリウスはリゼットの工具箱へ目をやった。
「それも調査に必要か」
「必要です。記録を読むだけなら、もっと小さな道具で済みますけれど」
「分かった」
彼は工具箱を受け取ろうと手を伸ばした。
リゼットは反射的に抱え直した。
「自分で持てます」
「重そうだ」
「重いです。でも、私の道具ですから」
ユリウスは一瞬だけ彼女の手を見た。指先には細かな火傷の跡があり、爪の間には魔石を削った粉が残っている。
「そうか」
それ以上、彼は言わなかった。
馬車の中は簡素だった。向かい合って座ると、車輪が石畳を踏む振動が床から伝わってくる。リゼットはその揺れを無意識に数えながら、銀筒を膝の上で回した。
「北部観測所へは、どれほどかかりますか」
「半刻ほどだ。観測所の記録管理官には、君を調査員として紹介する」
「正式な協力者ではなく?」
「調査員だ」
ユリウスは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。水路監督家の印章が押され、王都水利局の仮承認まで添えられている。
そこには、リゼット・アーデルを王都北部観測所の記録調査員に任じる、と記されていた。
リゼットは目を見開いた。
「いつ、これを?」
「昨夜のうちに申請した」
「私の名前で?」
「君の名前以外に、誰の名前を書く」
何気ない言葉だった。けれどリゼットには、それがひどく眩しく感じられた。
これまで彼女が作ったものには、必ず別の名前がついた。彼女の手は使われても、彼女の名が呼ばれることはなかった。なのにユリウスは、当然のように名前を書いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。仕事に必要な手続きだ」
「それでも、です」
ユリウスは窓の外へ顔を向けた。耳がわずかに赤くなったように見えたが、朝の光のせいかもしれなかった。
北部観測所は、古い水門のそばに建っていた。灰色の石造りで、塔の上には風向きを示す銅板が取り付けられている。門前には、水路局の青い制服を着た男が二人立っていた。
「ヴァレンシュタイン卿、お待ちしておりました」
年嵩の男が頭を下げる。
「こちらはリゼット・アーデル。今日から消失記録の調査に入る」
「職人を?」
男の視線が、リゼットの作業着から工具箱へ滑った。
「調査員だ」
ユリウスの声は低かった。
「彼女の権限は私と同等とする。記録保管庫への立ち入り、装置の分解、関係者への質問を許可してほしい」
男は困ったように眉を寄せた。
「しかし、規定では身分の確認が――」
「確認済みだ」
ユリウスは羊皮紙を差し出した。
男は印章を見て、それ以上反論できなくなった。
リゼットは思わずユリウスを見た。彼は彼女を庇ったのではない。彼女が調べる権利を、先に制度の中へ通したのだ。
「では、こちらへ」
観測所の記録室には、棚いっぱいに銀筒が並んでいた。日付と場所を刻んだ札がそれぞれに結ばれている。記録管理官は北部一帯の雨量をまとめる役目を担っていた。
「問題の銀筒は、三日前の夜に届いたものです」
彼が示した棚から、リゼットは銀筒を取り出した。
工房で見たものと同じ型だった。蓋を開け、細い検査針を差し込む。魔力の流れが、針の先で淡く光った。
「音の核は残っています」
管理官が息をのんだ。
「ですが、再生回路だけが切断されている」
「やはり故障ではないのか」
ユリウスが尋ねる。
「はい。自然に消える場合、核を守る薄膜から先に劣化します。この筒は逆です。音の核を抜き取ったあと、再生できないよう回路だけを閉じています」
リゼットは銀筒の底を指で撫でた。そこには、目には見えないほど細い傷があった。
「誰かが開けています」
「開封印は破られていない」
「正規の鍵を使ったのでしょう。外側の封印を壊さず、内側だけを開く鍵です」
部屋の空気が変わった。
管理官は青ざめ、ユリウスは黙って銀筒を見つめている。
リゼットは工具箱から小さな黒石を取り出した。魔力を吸う検査石を底面に当てると、淡い紫色の線が浮かび上がった。傷の周囲だけ、誰かが後から触れた痕跡が残っている。
「この作業をした人は、雨響記の構造を知っています。壊すのではなく、音だけを取り出す方法を知っている」
「つまり、専門家か」
「少なくとも、素人ではありません」
ユリウスは記録室の棚を見渡した。
「同じ痕跡が、他の銀筒にもあるか調べられるか」
「調べます。ただし、全部を分解するには時間がかかります」
「時間はかける。君の判断で進めてくれ」
その言葉に、リゼットは顔を上げた。
「私の判断で?」
「正式な調査員なのだろう」
ユリウスは淡々と言った。
けれど、その態度は昨日までの誰とも違っていた。命令される側ではなく、判断する側として扱われている。
リゼットは工具箱を開いた。
「では、まず記録を三種類に分けます。自然劣化、破損、意図的な処理。銀筒の底に同じ傷があるものを集めてください」
管理官は戸惑いながらも、指示に従い始めた。
棚から銀筒が次々と運ばれてくる。リゼットは一本ずつ検査し、日付と場所、魔力の状態を書き留めた。
昼を過ぎるころ、机の上には五本の銀筒が並んでいた。
すべて同じ場所に、同じ細い傷がある。
北部観測所だけではない。王都南東、旧市場、貴族街の外縁。異なる地区の記録が、同じ方法で処理されていた。
「偶然ではありませんね」
リゼットが言うと、ユリウスは答えなかった。
彼の視線は、五本の銀筒ではなく、その横に置かれた記録札へ向いていた。
記録札の日付には、共通するものがあった。
雨が強く降った日。
水路の水位が、平年を大きく上回った日。
リゼットは背筋に冷たいものを感じた。
「雨音を消したのではなく……」
「雨が降った事実を、消したかった」
ユリウスが静かに言った。
窓の外で、乾きかけた水路が低く鳴った。
その音は、昨日の雨をまだ覚えているようだった。




