雨音を盗まれた工房
雨は、音から降り始める。
少なくとも、リゼットにとってはそうだった。
王都の貴族街、その一角にある古びた工房の屋根を、細い雨粒が絶え間なく叩いている。窓辺に吊るした銀糸の鈴が、雨の強さに合わせてかすかに震え、壁際の水晶板には淡い光の波が走っていた。
リゼットは作業台に身を乗り出し、羊皮紙へ音の形を書き写していた。
高い音。瓦を弾く雨。
低い音。石畳に溜まった水。
遠くで混じる、王都中央水路の轟き。
雨音は誰にでも聞こえる。けれど、同じ雨でも場所によって響きは違う。その違いを魔力で記録し、あとから再生できるようにする。それが、リゼットの作った魔道具――雨響記だった。
小さな銀筒の中に雨音を閉じ込めれば、いつでもその日の天候を呼び戻せる。農夫なら種まきの時期を知り、治水役人なら水路の異変を確かめられる。夢中になって改良を重ねた、彼女の発明だった。
だった、というのは。
「この設計、なかなか使えるじゃないか」
背後から聞こえた声に、リゼットは筆を止めた。
工房主のグラントが、彼女の机から設計図を持ち上げていた。赤ら顔の男は、まるで自分の所有物を点検するように紙を眺めている。
「それは私の設計です。返してください」
「君の設計? 君はうちの職人だろう。工房で考えたものは工房のものだ」
「材料費も、試作に使った魔石も、私が払いました」
「身分の低い職人が、ずいぶん偉くなったものだな」
グラントは鼻で笑い、設計図を机の上へ放った。紙の端が雨水で濡れ、記された魔法陣の一部がにじんだ。
「明日の審査には私の名で出す。王都の水利局も、私の発明なら話を聞くだろう」
「……それでは、記録魔法の核が壊れます」
「なら壊れないように作れ。君はそのために雇われている」
言い返したい言葉はいくつもあった。けれど、雇用証を握られているリゼットには、工房を出ていく勇気も資金もなかった。貴族街の工房で働けるだけでも幸運だと、何度聞かされたことだろう。
幸運。
そう呼ばれるたび、胸の奥に小さな針が刺さった。
グラントが出ていくと、工房には雨音だけが戻ってきた。だが、さっきまで聞こえていたはずの音が、急に遠く感じられた。
リゼットは濡れた設計図を拾い上げた。
そのとき、表の扉が三度、重く叩かれた。
「グラントさんなら、もう帰りました」
「リゼット嬢に用がある」
低く、よく通る声だった。
扉を開けると、雨の向こうに黒い外套の男が立っていた。濡れた銀灰色の髪、鋭い灰青の目。胸元には水路監督家の紋章が刻まれている。
リゼットは息をのんだ。
「ユリウス・ヴァレンシュタイン伯爵令息……?」
「知っているのか」
「王都全域の水路を管理する家の方ですから」
「なら話が早い」
ユリウスは工房の中へ視線を巡らせた。散らかった工具、魔石の屑、壁一面に貼られた雨音の記録。彼の目は物珍しそうにするでもなく、同情するでもなく、ひとつひとつを正確に測っていた。
「君が雨響記を作った職人だな」
「……そう名乗ることを、許されてはいません」
「誰に?」
「工房主に」
短い沈黙が落ちた。雨が屋根を叩く音だけが、その間を埋める。
ユリウスは懐から細長い黒箱を取り出した。蓋を開くと、中には銀色の筒が収められている。リゼットが作った雨響記と、ほとんど同じ形だった。
「三日前、王都北部の観測所からこれが届いた。雨量の記録を保存したものだ」
「再生できますか?」
「できない」
彼は銀筒を差し出した。
リゼットは受け取り、表面に指を滑らせた。魔力の流れは残っている。封印も破られていない。けれど、内部にあるはずの音の核だけが、まるごと抜き取られていた。
「消去魔法の痕跡は?」
「見つかっていない」
「自然に消えた、と?」
「水路監督官はそう報告した。だが、私は信じていない」
ユリウスの声には、静かな怒りがあった。
「北部だけではない。王都の各所で、雨音の記録がいくつも消えている。記録がなければ、降った雨の量も、水路に流れた水の量も証明できない」
リゼットは銀筒を見つめた。
記録を失えば、誰かが好きな数字を語れる。少ない雨を多いことにしても、多すぎる水を少ないことにしても、確かめる手段がない。
「私に、何を?」
「消えた記録がどこへ行ったのか調べてほしい」
思いがけない言葉に、リゼットは顔を上げた。
「私に頼むのですか。私はただの職人です」
「ただの職人なら、これを見て原因を考えようとはしない」
ユリウスは彼女の濡れた設計図へ目を向けた。
「それに、君の道具だからこそ分かることがある」
褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。身分でも、誰かの所有物でもなく、作った人間として見られたのは初めてだった。
「報酬は払う。調査中は、私が正式な協力者として扱う」
「グラントさんが反対します」
「反対する権利はない」
淡々とした言葉だったが、その奥には揺るがない力があった。
リゼットは黒箱の中の銀筒を見た。消えた雨音。その向こうに、誰かが隠そうとしている事実がある。
工房主に奪われた設計図も、奪われ続けた名前も、今すぐ取り戻せるわけではない。けれど、雨音まで誰かの都合で盗まれるのを、黙って聞いていることはできなかった。
「引き受けます」
ユリウスがわずかに目を細めた。
「後悔しないか」
「後悔するなら、調べてからにします」
外では雨が強くなっていた。
リゼットは作業台の上の道具を片づけ、濡れた設計図を丁寧に乾燥板へ載せた。そして、まだ誰のものでもない新しい記録帳を開く。
最初の頁に、日付を書いた。
その下に、聞こえた雨音を記した。
――王都貴族街。雨、北東より。屋根を打つ音の奥に、水路の振動あり。
彼女は筆を置き、ユリウスを見た。
「まず、北部観測所へ行きましょう。消えた記録が、本当に消えたのか確かめます」
「明朝、迎えに来る」
「雨が止んでも?」
「雨が止んでも」
扉が閉じると、工房は再びひとりになった。
けれど今度は、雨音が遠くなかった。
誰かに盗まれたはずの音が、まだ屋根の上で、確かに降り続いていた。




