対等な約束
雨が上がった翌朝、町のあちこちから記録紙が工房へ運び込まれた。
市場のパン屋からは、屋根を叩く雨音が太い線になって残っていた。染物屋から届いた紙には、水路の振動を示す細かな波が続いている。南門の記録は途中で一度、大きく針が跳ねていた。誰かが水門を動かした時刻と、ほとんど一致している。
リゼットは十二枚の紙を壁に貼り、時刻をそろえた。
「見てください。雨の強さは、どの場所でもほぼ同じです」
ユリウスが隣に立つ。
「ですが、貴族街へ分かれる水路だけ、振動が二度途切れている」
「水門を閉じたのね。記録を消した日と同じやり方で」
ノアが拳を握った。
「これなら、公開審査で十分戦えるんじゃないか?」
「十分かどうかは、審査する人が決めることです」
リゼットは記録紙の端をそっと押さえた。
「でも、私たちが見たものを、私たちの言葉で伝えられる」
作業を終えたころには、昼を過ぎていた。仲間たちは食事を取りに散り、工房にはリゼットとユリウスだけが残った。
窓から差し込む光が、濡れた石畳に反射している。昨夜まで町じゅうに響いていた雨音は消え、代わりに水路を流れる水の音が聞こえていた。
「少し、外を歩きませんか」
ユリウスが言った。
リゼットは意外に思った。彼は調査の話以外で、彼女を誘ったことがなかった。
「水路の確認ですか?」
「……半分は」
「残り半分は?」
ユリウスは答えず、工房の扉を開けた。
二人は職人街の裏手を抜け、古い石橋まで歩いた。橋の下では、雨を含んだ水が勢いよく流れている。遠くから荷車の音が聞こえ、風に混じって焼きたてのパンの香りがした。
ユリウスは欄干に手を置いた。
「あなたは、怖くないのですか」
「何がです?」
「証言台に立つことです。水利局は、あなたを詐欺師に仕立てようとしている。私の家も、あなたを守るとは限らない」
「怖いですよ」
リゼットは水面を見つめた。
「怖いから、できるだけ準備をしています。怖くなくなるまで待っていたら、いつまでも何もできませんから」
「あなたらしい答えです」
ユリウスの声には、かすかな笑みがあった。
「私は、あなたを守ると言いました」
「覚えています」
「けれど、あの言葉は正しくなかった」
リゼットは彼を振り返った。
ユリウスはいつもより硬い表情をしていた。水路の状態を読むときとも、役人と対峙するときとも違う。言葉を選び、失敗を恐れている顔だった。
「あなたは、誰かに守られて黙っている人ではない。あなた自身の判断で進み、間違えば自分で直し、誰かの力が必要なら頭を下げて頼む。私はそんなあなたを、守るべき弱い人だと思っていた」
「今は?」
「今は、隣に立ちたいと思っています」
リゼットの胸が、雨の前の空気のようにざわめいた。
ユリウスは一度目を伏せ、それからまっすぐ彼女を見た。
「私は、あなたが好きです。職人として尊敬しています。あなたの考え方も、声も、怒ったときに眉を寄せるところも好きだ。調査が終わった後も、あなたのそばにいたい」
水の流れる音だけが、二人の間を通り過ぎた。
リゼットはすぐには答えられなかった。
嬉しかった。けれど同時に、確かめたいことがあった。
「ユリウス。私はあなたの家の庇護を受けたいわけではありません」
「分かっています」
「工房も、観測所も、私が作ったものを私の名前で売りたい。あなたが伯爵家の人だからといって、私の決めたことを覆されたくない」
「覆しません」
「それから、あなたが忙しいからといって、私があなたの生活に合わせ続けるのも嫌です。あなたが私の仕事を尊重するなら、私もあなたの仕事を尊重します。でも、どちらかが上になる関係は望みません」
ユリウスは、迷いなくうなずいた。
「対等でありたい」
「言葉だけでは困ります」
「では、約束をしましょう」
彼は懐から小さな水路図を取り出した。調査で使い古された紙の裏に、二つの署名欄が引かれている。
「財産も仕事も、それぞれの名義にする。共同で行う事業は、利益も決定権も半分ずつ。あなたの工房を私の家の管理下に置かない。家族の反対があっても、私自身の意思で話す」
「結婚した後も?」
「結婚した後も」
リゼットは思わず笑った。
「ずいぶん実務的な告白ですね」
「あなたには、そのほうが信じてもらえると思いました」
「ええ。とても信じやすいです」
彼女は紙を受け取り、空いていた欄に自分の名を書いた。
リゼット・アルノー。
その横に、ユリウスが署名する。
風が吹き、紙の端が揺れた。リゼットが押さえようとすると、ユリウスの手が重なった。互いに離れる理由はなかった。
「ただし」と、リゼットは言った。「私も約束します。あなたを伯爵家の次男として扱わない。あなたが間違えたら、きちんと指摘する。あなたの仕事を理由に、私の夢を諦めない」
「それは助かります。あなたに黙って同意されるほうが、よほど怖い」
二人は顔を見合わせた。
笑い声が、石橋の上に小さく響いた。
工房へ戻ると、ミラが入口で腕を組んで待っていた。
「遅かったわね。ずいぶん真剣な顔で出ていったけれど、少しは明るくなった?」
リゼットは手にした紙を見せた。
「約束をしました」
ミラは署名を見て、目を細めた。
「仕事の契約書?」
「それだけではありません」
ユリウスが答えると、ミラは二人を交互に見た。そして、満足そうにうなずいた。
「なら、次は審査の準備ね。恋人になったからって、記録紙の整理を私に押しつけないでよ」
「恋人……」
リゼットが呟くと、ユリウスの耳がわずかに赤くなった。
窓の外で、雲の切れ間から日が差した。
町の水路は、誰の身分にも関係なく流れている。細い路地の井戸にも、貴族街の噴水にも、同じ雨が届く。その流れを正しく記すために、二人はこれからも並んで歩くのだ。
リゼットは新しい記録紙を作業台に広げた。
「行きましょう、ユリウス。まだ証明しなければならないことが残っています」
「ええ、リゼット」
彼は彼女の隣に立った。
守る者と守られる者ではなく、命じる者と従う者でもない。
二人は同じ紙に署名した、対等な約束を胸に、公開審査の日を迎える準備を始めた。




