町じゅうに置かれた耳
公開審査まで、あと五日。
朝、工房の扉を開けたリゼットは、作業台の上に並べていた記録器がすべて倒れているのを見つけた。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
昨夜、最後に工房を出たのは彼女だった。窓の鍵も、裏口の閂も確かめた。けれど、記録器だけが不自然に壊されている。
水晶板には細い亀裂が走り、雨音を拾う銀糸は切断されていた。床には黒い粉が散っている。魔力を吸い取るための鉱石を砕いたものだ。
「触らないでください!」
駆け寄ったノアを、リゼットはとっさに制した。
「壊されたのは記録器だけじゃない。魔力の痕跡を消そうとしている」
ユリウスが膝をつき、床に落ちた粉を指先で確かめた。
「水路局の倉庫で使われていた封印石と同じ成分です」
「つまり、向こうはもう、こちらの装置を壊しに来たのね」
ミラの声に、怒りが混じった。
グレンは割れた水晶板を拾い上げ、歯を食いしばった。
「新しい記録器は、これ一台だけじゃない。材料も時間も、簡単には取り戻せんぞ」
「だから、もう一台に頼るのはやめます」
リゼットは壊れた装置を見つめた。
これまで彼女たちは、より正確で、より強固な記録器を作ろうとしてきた。けれど、ひとつの装置に証拠を集めれば、そのひとつを壊されるだけで、すべてが消えてしまう。
「町のあちこちに、簡易記録器を置きます」
「簡易記録器?」
「雨音の大きさと、水路の振動だけを記録する小さな装置です。精度は新型に及びません。でも、同じ時刻に別の場所で記録できる。ひとつが壊されても、残りが証拠になる」
ユリウスが水路図を広げた。
「置く場所は、どこに?」
「市場の時計塔の下。職人街の共同井戸。南門の排水路。それから、貴族街へ水が分かれる分岐点の近く」
リゼットは地図に印をつけていった。
「雨の音は場所ごとに違います。でも、同じ雨なら、記録のつながりが生まれる。誰かが一部だけを消しても、不自然な空白が残るはずです」
ユリウスはしばらく地図を見ていた。
「水路の振動も同時に測れば、水門がいつ開閉したか確認できます。雨が降っているのに、特定の区域だけ流れが弱くなった場合も分かる」
「では、振動板を小さく削りましょう」
グレンが袖をまくった。
「材料は足りる。壊された装置の部品も、使えるところはある」
「記録紙は?」
「私が帳面を切ります」
ノアがすぐに答えた。
ミラは工房の棚から小さな木箱を取り出した。
「設置を頼める人なら、心当たりがあります。市場のパン屋、水路沿いの染物屋、それから南門の見張り番。みんな、雨が消えたせいで困っている人たちよ」
リゼットは仲間たちを見回した。
昨日まで、彼女は証拠を守ることを自分の責任だと思っていた。けれど今、作業台の周りには、同じ怒りと決意を持つ人々がいる。
「お願いします。説明するときは、危険があることも伝えてください。装置を置くかどうかは、相手に決めてもらいましょう」
「断られたら?」
ノアが尋ねた。
「別の場所を探します。誰かに無理をさせてはいけない」
昼前には、簡易記録器が十二台完成した。
木箱ほどの大きさで、蓋を開けると中央に薄い銀板がある。雨音を受ける膜と、水路の振動を伝える針。その横に、時刻を書き込む小さな窓をつけた。
リゼットは一台ずつ、設置する人に使い方を説明した。
「雨が降り始めたら、ここを押してください。雨が止んだら、こちらです。途中で針が急に跳ねた場合は、時刻を書いてください。装置を見張る必要はありません。異常を感じたら、無理をせず知らせてください」
市場のパン屋の主人は、粉のついた手で装置を受け取った。
「うちの屋根なら、誰かが勝手に持ち去ることもない。置いていきな」
染物屋の女主人は、水路を見下ろしながらうなずいた。
「染料を流す水が、日によって来たり来なかったりするの。これで理由が分かるなら、協力するよ」
南門の見張り番は、装置を胸に抱いた。
「役所に見つかったら、取り上げられないか?」
「その可能性はあります」
リゼットは正直に答えた。
「だから、記録紙は毎晩、工房へ届けてください。届けられない場合は、別の場所へ隠してください。証拠を守る方法も、あなた自身で決めてください」
見張り番はしばらく黙り、それから笑った。
「なら、門番の仕事と同じだな。守る場所を、自分で決める」
夕方までに、十二台の装置は町へ散っていった。
けれど、その夜。
工房へ戻ったリゼットのもとに、パン屋の主人が息を切らして駆け込んできた。
「市場の装置を見に行ったら、箱が開けられていた! だが、中身は無事だ」
続いて、染物屋からも使いの少年が来た。
「店の裏に置いた装置の周りに、黒い粉が落ちていたって!」
ユリウスが地図を広げた。
「狙われたのは二か所だけです。相手は、すべての装置の場所をまだ把握していない」
「なら、場所を変えましょう」
リゼットは即座に言った。
「固定する必要はありません。毎日、別の場所へ移す。設置場所と時刻は、紙ではなく口頭で伝える」
「町じゅうを、記録器が移動することになりますね」
ノアが目を輝かせた。
「そう。ひとつの耳を塞がれても、別の耳が聞いている」
そのとき、外で雨が降り始めた。
工房の窓を叩く音が、次第に強くなる。遠くの市場でも、南門でも、誰かが小さな装置の蓋を開けているはずだった。
リゼットは中央の記録器に紙を差し込んだ。
針が震え、細い線を描き始める。
町のどこかで、同じ雨を聞く人々がいる。
その事実が、暗い工房に確かな明かりを灯した。
「リゼット」
ユリウスが窓の外を見ながら呼んだ。
「何ですか」
「もう、証拠は私たちだけのものではありません」
リゼットは、雨に濡れた石畳を見た。
市場にも、井戸にも、門にも、雨音を記す小さな装置が置かれている。誰かの命令で消された音を、町そのものが拾い直しているのだ。
「ええ」
彼女は記録紙を押さえた。
「だから、もう簡単には消せません」
雨は夜通し降り続いた。
町じゅうに置かれた耳が、それぞれの場所で、真実の音を聞いていた。




