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雨音を記す工房令嬢は、無口な水路伯爵と明日の街をつくる  作者: 銀細工ナギ


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12/20

家名を捨てた協力者

 公開審査まで、あと六日となった朝。


 工房の扉を開けたリゼットは、外に止まった黒塗りの馬車を見て足を止めた。紋章は、ユリウスの家のものだった。


 嫌な予感がした。


 馬車の脇には、濃紺の外套を着た男が立っている。ユリウスより年上で、整えられた髪にも、固く結ばれた口元にも、伯爵家の者らしい威圧感があった。


「リゼット殿ですね」


「はい」


「私はユリウス様の兄君、アーヴェル伯爵家の執事を務めております。ユリウス様に、至急ご帰邸いただくよう命令が下りました」


 命令。その言葉が、冷たい石のように胸へ落ちた。


「ユリウスは、ここに?」


「水路管理局の倉庫です。ですが、今朝方、伯爵閣下から正式な通達が届きました」


 執事は封蝋のついた書状を差し出した。


 リゼットが受け取る前に、工房の奥からグレンが出てきた。ミラとノアも、作業の手を止めてこちらを見ている。


「何の通達ですか」


 グレンが尋ねた。


「ユリウス様は、アーヴェル家の名を背負う者として、水利局への調査協力を中止する。今後、リゼット殿および工房との接触も控える。そう記されています」


 あまりに整った声だったので、かえって内容が残酷に響いた。


 リゼットの手から、書状が滑り落ちそうになった。


 これまでユリウスが積み上げてきた調査も、彼女の証言を支えるための整理も、家の命令ひとつで奪われる。彼がいなければ、議会へ提出した資料を守ることは難しい。彼の立場があったからこそ、役人たちはかろうじて話を聞いていた。


「分かりました」


 リゼットは書状を拾い上げた。


「ユリウスには、私からも伝えます。今までの協力に感謝していると」


 執事はわずかに目を伏せた。何か言いかけたようだったが、結局、礼をして馬車へ戻っていった。


 扉が閉まる。


 馬車の音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。


「感謝している、ね」


 ミラが静かに言った。


「それで終わらせるつもり?」


「終わらせるつもりはありません」


 リゼットは自分でも驚くほど早く答えていた。


 けれど、何をすればいいのかは分からなかった。


 ユリウスが家の命令に逆らえば、伯爵家との関係を失う。彼が持つ許可も、倉庫も、調査資料を運ぶ権限も使えなくなる。それは、彼が築いてきたものをすべて捨てることに等しかった。


 昼を過ぎても、ユリウスから連絡はなかった。


 リゼットは落ち着かず、何度も窓の外を見た。工具を手にしても集中できず、同じねじを三度も締め直した。


「あなた、手を止めているわ」


 ミラに言われ、リゼットはようやく顔を上げた。


「ユリウスがどうするのか、分かりません」


「あなたは、彼に何を望んでいるの?」


 問いかけられて、答えが詰まった。


 家に逆らってほしいわけではない。すべてを捨ててほしいわけでもない。まして、彼の身分や力で自分を救ってほしいわけではなかった。


 ただ、彼自身の意思を知りたかった。


 夕暮れ近く、工房の裏口を誰かが叩いた。


 リゼットが開けると、そこにユリウスが立っていた。いつもの外套は着ていたが、胸元の家紋を示す留め具が外されている。手には小さな革袋があった。


「入っても?」


「もちろんです」


 彼は工房へ入り、仲間たちに短く頭を下げた。


「家から調査中止の命令が出ました」


「聞きました」


「私はそれに従いません」


 リゼットは息をのんだ。


 ユリウスは革袋から一枚の金属板を取り出した。水路管理官の認証印が刻まれている。


「この認証は、伯爵家の代理人としてではなく、私個人が長年の現場勤務によって得た資格です。家へ返せと命じられましたが、資格まで譲渡することはできない」


「でも、家名を失うかもしれません」


「すでに、家からは調査に関わるなら次男として扱わないと告げられました」


 その声には、怒りも悲しみもほとんどなかった。ただ、決めた者の静けさがあった。


「それでも、続けるのですか」


「はい」


 ユリウスはリゼットをまっすぐ見た。


「私は、アーヴェル家のためにここへ来たのではありません。水路の記録が消された理由を確かめるために来た。あなたが自分の名前で証言すると決めたように、私も自分の意思で協力すると決めます」


「何もかも失うかもしれないのに」


「家名を失えば、私はただのユリウスになります」


 彼はほんの少しだけ笑った。


「そのほうが、あなたの隣にはふさわしいのかもしれません」


 胸の奥が熱くなった。けれど、リゼットはすぐに首を振った。


「私のために捨てないでください」


「あなたのためだけではありません」


 ユリウスは金属板を作業台に置いた。


「私自身が、これまで見ないふりをしてきたことの責任を取るためです。あなたにも、仲間たちにも、雨音を消された人々にも」


 グレンが腕を組み、低くうなった。


「家名がなくても、手は動かせるか」


「動かせます」


「なら、席はある」


 ミラが笑い、ノアは新しい帳簿を取り出した。


「協力者の欄に、何と書きましょう」


 ユリウスは少し考えた。


「ユリウス、とだけ」


「それでは身元が分かりません」


「身元を示す必要があるときは、本人が名乗ります。家名は、もう使いません」


 リゼットは彼を見た。


 これまで、家名は彼を守る盾だった。今、その盾を自ら下ろしたのだ。けれど彼の立ち姿は、以前より弱く見えるどころか、むしろまっすぐだった。


「では、ユリウスさん」


 リゼットが呼ぶと、彼はわずかに目を見開いた。


「今日から、私たちの協力者として働いてください。身分ではなく、あなたの知識と意思で」


「承知しました、リゼットさん」


 二人の間に、初めて何の家名も挟まらなかった。


 その夜、工房の中央に新しい作業台を置いた。ユリウスは水路図を広げ、リゼットは証言用の記録器を調整する。グレンは金具を削り、ミラは資料を分類し、ノアは証拠の一覧を書き始めた。


 窓の外で、細い雨が降り出した。


 記録器の針が、静かに動く。


 リゼットはその音を聞きながら、隣で紙を押さえるユリウスを見た。


 家名を失っても、彼はここにいる。


 そして彼女もまた、誰かの庇護を受けるためではなく、自分の名前で立っている。


 七日後、二人はそれぞれの意思を携えて、証言台の前に立つ。

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