家名を捨てた協力者
公開審査まで、あと六日となった朝。
工房の扉を開けたリゼットは、外に止まった黒塗りの馬車を見て足を止めた。紋章は、ユリウスの家のものだった。
嫌な予感がした。
馬車の脇には、濃紺の外套を着た男が立っている。ユリウスより年上で、整えられた髪にも、固く結ばれた口元にも、伯爵家の者らしい威圧感があった。
「リゼット殿ですね」
「はい」
「私はユリウス様の兄君、アーヴェル伯爵家の執事を務めております。ユリウス様に、至急ご帰邸いただくよう命令が下りました」
命令。その言葉が、冷たい石のように胸へ落ちた。
「ユリウスは、ここに?」
「水路管理局の倉庫です。ですが、今朝方、伯爵閣下から正式な通達が届きました」
執事は封蝋のついた書状を差し出した。
リゼットが受け取る前に、工房の奥からグレンが出てきた。ミラとノアも、作業の手を止めてこちらを見ている。
「何の通達ですか」
グレンが尋ねた。
「ユリウス様は、アーヴェル家の名を背負う者として、水利局への調査協力を中止する。今後、リゼット殿および工房との接触も控える。そう記されています」
あまりに整った声だったので、かえって内容が残酷に響いた。
リゼットの手から、書状が滑り落ちそうになった。
これまでユリウスが積み上げてきた調査も、彼女の証言を支えるための整理も、家の命令ひとつで奪われる。彼がいなければ、議会へ提出した資料を守ることは難しい。彼の立場があったからこそ、役人たちはかろうじて話を聞いていた。
「分かりました」
リゼットは書状を拾い上げた。
「ユリウスには、私からも伝えます。今までの協力に感謝していると」
執事はわずかに目を伏せた。何か言いかけたようだったが、結局、礼をして馬車へ戻っていった。
扉が閉まる。
馬車の音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
「感謝している、ね」
ミラが静かに言った。
「それで終わらせるつもり?」
「終わらせるつもりはありません」
リゼットは自分でも驚くほど早く答えていた。
けれど、何をすればいいのかは分からなかった。
ユリウスが家の命令に逆らえば、伯爵家との関係を失う。彼が持つ許可も、倉庫も、調査資料を運ぶ権限も使えなくなる。それは、彼が築いてきたものをすべて捨てることに等しかった。
昼を過ぎても、ユリウスから連絡はなかった。
リゼットは落ち着かず、何度も窓の外を見た。工具を手にしても集中できず、同じねじを三度も締め直した。
「あなた、手を止めているわ」
ミラに言われ、リゼットはようやく顔を上げた。
「ユリウスがどうするのか、分かりません」
「あなたは、彼に何を望んでいるの?」
問いかけられて、答えが詰まった。
家に逆らってほしいわけではない。すべてを捨ててほしいわけでもない。まして、彼の身分や力で自分を救ってほしいわけではなかった。
ただ、彼自身の意思を知りたかった。
夕暮れ近く、工房の裏口を誰かが叩いた。
リゼットが開けると、そこにユリウスが立っていた。いつもの外套は着ていたが、胸元の家紋を示す留め具が外されている。手には小さな革袋があった。
「入っても?」
「もちろんです」
彼は工房へ入り、仲間たちに短く頭を下げた。
「家から調査中止の命令が出ました」
「聞きました」
「私はそれに従いません」
リゼットは息をのんだ。
ユリウスは革袋から一枚の金属板を取り出した。水路管理官の認証印が刻まれている。
「この認証は、伯爵家の代理人としてではなく、私個人が長年の現場勤務によって得た資格です。家へ返せと命じられましたが、資格まで譲渡することはできない」
「でも、家名を失うかもしれません」
「すでに、家からは調査に関わるなら次男として扱わないと告げられました」
その声には、怒りも悲しみもほとんどなかった。ただ、決めた者の静けさがあった。
「それでも、続けるのですか」
「はい」
ユリウスはリゼットをまっすぐ見た。
「私は、アーヴェル家のためにここへ来たのではありません。水路の記録が消された理由を確かめるために来た。あなたが自分の名前で証言すると決めたように、私も自分の意思で協力すると決めます」
「何もかも失うかもしれないのに」
「家名を失えば、私はただのユリウスになります」
彼はほんの少しだけ笑った。
「そのほうが、あなたの隣にはふさわしいのかもしれません」
胸の奥が熱くなった。けれど、リゼットはすぐに首を振った。
「私のために捨てないでください」
「あなたのためだけではありません」
ユリウスは金属板を作業台に置いた。
「私自身が、これまで見ないふりをしてきたことの責任を取るためです。あなたにも、仲間たちにも、雨音を消された人々にも」
グレンが腕を組み、低くうなった。
「家名がなくても、手は動かせるか」
「動かせます」
「なら、席はある」
ミラが笑い、ノアは新しい帳簿を取り出した。
「協力者の欄に、何と書きましょう」
ユリウスは少し考えた。
「ユリウス、とだけ」
「それでは身元が分かりません」
「身元を示す必要があるときは、本人が名乗ります。家名は、もう使いません」
リゼットは彼を見た。
これまで、家名は彼を守る盾だった。今、その盾を自ら下ろしたのだ。けれど彼の立ち姿は、以前より弱く見えるどころか、むしろまっすぐだった。
「では、ユリウスさん」
リゼットが呼ぶと、彼はわずかに目を見開いた。
「今日から、私たちの協力者として働いてください。身分ではなく、あなたの知識と意思で」
「承知しました、リゼットさん」
二人の間に、初めて何の家名も挟まらなかった。
その夜、工房の中央に新しい作業台を置いた。ユリウスは水路図を広げ、リゼットは証言用の記録器を調整する。グレンは金具を削り、ミラは資料を分類し、ノアは証拠の一覧を書き始めた。
窓の外で、細い雨が降り出した。
記録器の針が、静かに動く。
リゼットはその音を聞きながら、隣で紙を押さえるユリウスを見た。
家名を失っても、彼はここにいる。
そして彼女もまた、誰かの庇護を受けるためではなく、自分の名前で立っている。
七日後、二人はそれぞれの意思を携えて、証言台の前に立つ。




