第93話 閉じ方
翌朝、俺とフィアナがヴァルドの家へ行くと、昨日まで施設図を広げていた机は古い記録で埋まっていた。
革で綴じられた冊子、紐でまとめられた紙束、木板に挟まれた薄い記録。新しいものでも相当な年月が経っているらしく、どれも端が黒ずんでいる。
オルザとリーネは朝から仕分けを続けていたらしい。昨夜のうちに保管庫から関係しそうなものを選び、今朝になってヴァルドとグレンも加わったという。
「これで全部?」
フィアナが積み上がった記録を見て聞く。
「まさか」
オルザは眼鏡の位置を直しながら、手元の冊子を開いた。
「施設に関するものだけでも、まだ別の部屋にある。今出したのは、封鎖と当時の異常に関係しそうなものだ」
これでも一部らしい。
オルザが施設を調べ始めてから、もう四十年以上になるという。本人が九十八歳だと聞いた時には、さすがに一度聞き返した。
数日前、リーネから、エルフの血が濃い者は人間や他の亜人種より長命で、百三十歳前後まで生きる者も珍しくないと聞いている。成人するまでの速さは人間と大きく変わらず、その後の老い方が緩やからしい。
その話を聞いた時、何となく隣にいたリーネへ訊いた。
『じゃあ、リーネも見た目より年上なのか?』
『二十歳。正真正銘の二十歳』
少しむっとした顔で返されたので、それ以上は聞かなかった。
今思えば、あまり良い聞き方ではなかった気がする。
「何?」
視線に気づいたリーネが顔を上げる。
「いや、何でもない」
「変なの」
首を傾げただけで、また記録へ戻っていった。
オルザの年齢にも、もう驚かない。ただ、九十八年のうち四十年以上をこの施設に費やしてきたと考えると、重みは別だった。
「見つけた」
リーネの声で、俺も机へ意識を戻す。
彼女が開いていたのは、他より厚い革表紙の冊子だった。古代文字ではなく、北方で使われている文字が並んでいる。
「どれだ」
オルザが隣へ移り、記された年代を確かめる。
「原本じゃないな。百年ほど前に写されたものだ」
「中身はもっと古い?」
「ああ。元になった記録は、施設を封じた頃のものらしい」
何度か頁をめくったあと、オルザの指が止まった。
「これだ」
ヴァルドとグレンも机へ寄る。
オルザがゆっくり読み上げた。
「『奥の閉じた戸が、触れずとも開いた。四足の黒きものが外へ出たため、二つ目の戸を閉じて退いた』」
昨日見たものと、よく似ている。
さらに数行先へ指が動く。
「『黒きものは、かつて人が休んだ場所まで追ってきた。内を安全と考えるな』」
グレンが左腕を動かしかけ、途中でやめた。
「昨日と同じだな」
「ああ」
ヴァルドの返事は短かった。
オルザは別の頁へ移る。
「少し後の記録だ。『閉じた戸が再び動く。印を正しく合わせても、後に勝手に開くことあり』」
読み終えると、文字を見直すように眼鏡を押し上げた。
「これは以前から知っていた。ただ、当時の設備が壊れていたか、操作を誤ったものだと考えていた」
「昨日までは?」
ヴァルドが聞く。
「そうだ。今の施設では、手順を守れば隔壁は閉じていた」
何年も同じ方法で管理できていたなら、その判断にも根拠はあった。
昨日までは。
「浮いていたものは?」
俺が聞くと、オルザは別の紙束へ手を伸ばした。
「はっきりしたものはない。ただ、気になる記述が二つある」
古びた紙を広げ、短い一節を指す。
「『高きところより白き光。皮を抜き、肉を焼く』。もう一つは、『黒き小さき影、地に足をつけず』」
「同じものかな」
フィアナが覗き込む。
「分からん」
オルザはすぐに首を振った。
「同じ記録ではない。書かれた場所も年代も違う。似ているという以上のことは言えんな」
「でも、昔にも似たものがいたかもしれないんだね」
「ああ。その程度ならな」
フィアナはそれ以上聞かなかった。
ヴァルドはしばらく記録を見たあと、オルザへ尋ねる。
「閉じ方は?」
「今探している」
「黒い獣が出てから、どう封じたかだ」
「分かっている」
オルザは少し苛立ったように返したが、手は止めなかった。
俺とフィアナは北方語の文章を読めない。リーネに年代や見出しを教えてもらい、該当しそうな束を抜き出してオルザへ回した。
しばらくして、グレンが薄い冊子を一つ取り上げる。
「これは?」
オルザが受け取り、数頁読んだところで動きを止めた。
「……あった」
全員の視線が集まる。
「施設内部の隔壁を閉じたあと、さらに外側を塞いでいる」
「昨日通った場所か?」
グレンが聞く。
「もっと入口側だ。岩盤が狭くなっているところがあるだろう」
俺にも覚えがある。
施設へ入ってしばらく進んだ場所に、左右から岩が張り出した狭い区間があった。その脇に石材や太い梁が積まれていたが、補修用だと思っていた。
「あれは封鎖用なのか」
「ああ」
オルザは記録を机へ置き、施設図の入口側を指す。
「岩の狭まりを利用して、厚い石板と横梁を入れる。隙間は石で埋め、楔で固定する。古代の設備じゃない。先祖が自分たちで造ったものだ」
「今も使える?」
リーネが尋ねる。
「毎年点検している。人が通れるよう一部を外してあるだけで、封鎖点そのものは残っている」
ヴァルドが図面を見たまま言う。
「戻せば通れなくなるんだな」
「人はな」
オルザが答える。
「黒い獣まで止められるかは分からん。当時は、それだけで終わらせていない」
「まだあるのか」
「ああ。入口そのものを塞いでいる」
グレンが眉を寄せた。
「坑道を?」
「石を積んだだけじゃない。入口近くの短い区間を補強して、その外側を石と土で埋めている。元へ戻すなら人手がいる」
「何人だ」
「数十人は欲しい。石を運ぶ者、梁を組む者、入口側を固める者。数日はかかる」
再調査を始める時、簡単には開け直せなかったわけだ。
「数年前は、どうやって入ったんだ?」
「入口の閉塞を一部取り除いた。全部崩したわけじゃない。人が通れるだけ開けたんだ」
「塞ぎ直すなら戻せる?」
「昔の形に戻せる部分もある。ただ、崩れた場所は補修がいる。記録を読めばそのまま終わる仕事じゃない」
オルザの声に、さっきまでとは違う重さが混じった。
ヴァルドは椅子へ座り直し、机に両腕を置く。
「内側の隔壁。石の封鎖点。入口の坑道。三つか」
「そうなる」
「内側は信用できん」
グレンが言った。
「昨日、勝手に開いた」
「だから外側まで封じたんだろう」
ヴァルドは図面から目を離さなかった。
しばらくして、オルザが口を開く。
「ヴァルド」
「なんだ」
「今閉じれば、次に開けられる保証はない」
声は静かだった。
「外側を塞ぎ、入口まで埋めれば、また調べる時には大勢を集めて掘り返すことになる。施設では百八十年ぶりかもしれない変化が起きている。しかも今は、古代文字を読める人間までいる」
視線が俺へ向いた。
「アレンがいつまでもラウネにいるわけではない。この機会を逃せば、次がいつ来るか分からん」
四十年以上追い続けた場所で、今までにない変化が起きている。その時に初めて、表示を読める人間まで現れた。
オルザにとっては、危険が増したのと同時に、調べる価値も増している。
「俺は文字を読めるだけだ」
そう言うと、オルザがこちらを見る。
「それでも違う」
「昨日の扉がなぜ開いたかは分からない。止め方も知らないし、浮いていたものが何なのかも分からない」
「分かっている」
「なら、俺がいるから大丈夫だとは考えないでくれ」
「大丈夫だとは言っていない」
「でも、今なら調べられるとは思ってるだろ」
オルザは否定しなかった。
俺だって知りたい。
王都からここへ飛ばされた仕組みも、施設がフィアナへ反応する理由も、黒い獣たちの正体も分からない。
だが、その答えを探すために誰かを中へ送り続ける気にはなれなかった。
「フィアナは?」
ヴァルドが尋ねる。
突然話を振られ、フィアナは一度瞬きをしてから考える。
「昨日、奥から感じてたものは前より強かった。でも、何だったのかは分からない」
「また起きるか?」
「それも分からない。止められるかって聞かれても、たぶん無理だと思う」
フィアナは少し言葉を選んだ。
「私が近くにいることで何かが動いてるなら、離れた方がいいのかもしれない。でも、それも確かじゃないから、私だけを理由に決めないでほしい」
「分かった」
ヴァルドは頷き、今度はリーネを見る。
「お前はどう思う」
リーネはすぐには答えず、机に並んだ記録へ目を落とした。
「私は、使えるなら使っていいと思ってた」
初めて会った頃にも聞いた考えだった。
「今も、危ないから何でも埋めればいいとは思ってない。でも、今まで調べられたのは、入っていい場所と駄目な場所を分けられたからでしょ」
「ああ」
「昨日は、それが通じなかった。だったら、同じやり方を続けるのは違うと思う」
ヴァルドはそれ以上聞かず、グレンへ視線を移した。
「俺は戦士だ」
グレンは使えない左腕を膝の上へ置いたまま答える。
「出てきたものなら止める。だが、中で何が増えるか分からん施設を、見張りを増やせば守れるとは言わない」
全員が同じ意見ではない。
施設を使うことで氏族の力になると考えてきた者も、オルザ以外にいるだろう。
それでも、決めるのはヴァルドだった。
彼は長い間、机の上に広げられた三つの封鎖箇所を見比べていた。
「俺が再調査を認めた」
やがて口を開く。
「数年やって、大きな事故は起きなかった。使えるものがあるなら氏族のために使うべきだと考えた。今でも、その判断まで間違いだったとは思っていない」
オルザが顔を上げる。
「だが、続ける条件はなくなった」
ヴァルドの指が、昨日黒い獣が越えた区画をなぞる。
「触れていない隔壁が開き、昔の記録にある黒い獣が出た。知らないものもいる。何年も何も起きなかった場所まで追ってきた。今閉じている扉も、次まで閉じているとは限らん」
指が施設図の入口へ移る。
「施設を閉じる」
オルザの表情が固まった。
「三つともか」
「まず内部の隔壁を、外から操作できる範囲で閉じる。奥へは入らん。その後、石の封鎖点を戻す」
「入口まで塞ぐ必要はない」
オルザが初めて強く口を挟んだ。
「二重に閉じれば時間は稼げる。その間に――」
「時間を稼いで、何を待つ」
ヴァルドの声は低いままだった。
「次に隔壁が開くのをか。昨日より多く出てくるのをか」
「そういう意味じゃない」
「なら何だ」
オルザが口を閉じる。
ヴァルドは怒鳴らなかった。
「入口も塞ぐ」
「ヴァルド」
「盟主に言われたからじゃない」
その一言で、オルザが黙った。
「俺たちが見て、俺が決めた。開けることを認めたのも俺だ。閉じる責任も俺が持つ」
誰も口を挟まなかった。
「今日から準備を始める。施設の見張りは増やしたまま、中へは入れるな。石工と鍛冶を集めろ。梁と楔を確認して、足りない分はラウネから運ぶ」
ヴァルドはグレンを見る。
「お前は現場へ行くな。人の割り振りだけやれ」
「分かった」
「リーネは封鎖点の確認に行く者へ手順を渡せ。入口より奥へ入らせるな」
「うん」
「オルザ」
呼ばれたオルザは、少し間を置いてから顔を上げた。
「……なんだ」
「封鎖記録をまとめろ。昔と同じでいいところと、今の状態では変えた方がいいところを分けろ。お前が一番知っている」
閉じると決めても、施設についてオルザ以上に知る者はいない。
ヴァルドも、それを外すつもりはないらしい。
「分かった」
返事は小さかった。
ヴァルドが立ち上がり、机の上の施設図を畳み始める。
その脇で、オルザだけは動かなかった。
九十八年生き、そのうち四十年以上を費やした場所を、自分の手で閉じることになる。
やがてオルザは一番古い冊子を引き寄せ、封鎖の頁を開いた。




