第92話 安全だった場所
「戻るぞ」
俺が表示を読み終えると、グレンは隔壁がどう動くかを確かめることなく撤退を決めた。
オルザも反論せず、調査員二人へ記録道具をまとめるよう指示する。閉じていた区画に今までと違う変化が出たら、その先へは進まない。昨日決めた条件に従うだけだった。
俺もフィアナを先へ行かせようとした時、靴底から低い振動が伝わってきた。
「待って」
フィアナが振り返る。
厚い隔壁の向こうから、石同士を擦り合わせるような音が続いていた。夜明け前に見張りが聞いたものより大きく、壁の内側で何か重いものが動いているのが分かる。
横の表示板では、さっきまで浮かんでいた文字が切り替わっていた。
『隔離解除 進行中』
「開く。急げ」
グレンの声を受け、オルザと調査員二人が来た道へ戻り始めた。フィアナも続き、最後尾へ残ろうとしたリーネにはグレンが前を示す。
「先に行け。アレンと俺が残る」
「分かった」
リーネが走り出した頃には、隔壁の中央に人の腕ほどの隙間が生まれていた。
向こう側には照明がなく、奥までは見通せない。それでも扉がさらに開いたところで、床近くを四足の影が横切った。
「黒い獣だ」
俺が剣を抜くのと、黒い頭部が隙間へ押し込まれるのはほとんど同時だった。
完全に開くまで待つつもりはないらしい。肩が通るだけの幅ができると、黒い獣は殻を扉へ擦りつけながらこちら側へ抜けてくる。
「下がりながら止める」
グレンが長柄斧を構えて正面へ出た。
王都で戦った個体と、形も大きさもほとんど変わらない。黒い獣が身体を沈めて踏み込んだところへ、グレンは斧を振り下ろさず、柄を斜めに当てて頭部の向きを外へ逸らす。
巨体が流れた側へ俺が入り、右前脚の殻の継ぎ目へ剣を差し込んだ。刃に風を沿わせて押し込むと抵抗が抜け、黒い獣の足が大きく沈む。
追えない程度に削ればいい。
「離れるぞ」
グレンと一緒に距離を取ったが、隔壁の向こうにはすでに次の黒い影が見えていた。
さらに、その上にも何かいる。
最初は天井から外れた部品かと思った。
だが、黒い塊は床へ落ちなかった。俺の胸ほどの高さで静かに浮かび、翼も羽ばたくものも見えないまま、こちらへ向きを変える。
「グレン、上にもいる」
「あれは知らんぞ」
「俺もだ」
王都でも見ていない。
外殻の質感は黒い獣に似ていたが、大きさも形も違う。その前方にある細い窪みの奥で白い光が瞬いた瞬間、嫌なものを感じて身を沈めた。
「伏せろ!」
グレンも反応し、直後に細い光が俺たちの頭上を抜けた。
背後の石壁から硬い音が返る。
振り向けば、表面に細長い黒い跡が刻まれていた。王都で大型の人型が放った光ほどの威力ではない。それでも、人間が受けて確かめられるようなものではなかった。
「今の、直前に前が光った」
「覚えとけ。退くぞ」
グレンはそれ以上を確かめようとはしなかった。
黒い獣を倒し切る必要も、初めて見るものをここで調べる必要もない。俺たちは先に退いたフィアナたちを追って通路を戻った。
ところが、傷つけた黒い獣は前脚を引きずりながらもついてくる。奥から出てきた二体目と、宙に浮く黒い物体も隔壁を越え、そのまま追跡を続けていた。
最初の曲がり角へ近づいたところで、前方からリーネの声が響く。
「こっちは抜けた!」
「そのまま次の隔壁まで行け!」
返した直後、二体目の黒い獣が距離を詰めた。
グレンは一度だけ足を止め、長柄斧を短く持って進路を塞ぐ。頭部を壁側へ逸らしたところへ俺も入ろうとしたが、視界の上で白い光が瞬いた。
「上!」
グレンが身を沈め、光が肩口のすぐ上を抜けていく。
二度続けて同じ予兆だった。
「光った方から外れろ!」
「ああ!」
分かったのはそこまででいい。
俺たちは黒い獣が立て直す前に距離を取り、次の曲がり角へ入った。浮いている個体は高い位置から追うのではなく、通路の左右へ寄りながら位置を変えている。
単独なら対処できるかもしれない。
だが足元から黒い獣が来る状況では、視線を上だけへ向けるわけにもいかなかった。
次の曲がり角を越えると、フィアナたちがさらに先へ退いているのが見える。予定していた隔壁まではもう遠くない。
その時、奥からもう一つ黒い物体が浮かび出てきた。
「二つになった」
「片方だけ追え。両方見るな」
グレンが言った直後、中央寄りを進む一体が白く明滅した。
俺たちは左右へ分かれ、通路の中央を細い光が抜ける。
そこへ傷のない黒い獣が踏み込んできた。
グレンは低くなった姿勢のまま斧の柄で頭部を外へ流す。俺も援護に入ろうとしたが、その巨体に遮られ、壁側へ動いていたもう一体の姿が一瞬見えなくなった。
嫌な位置だった。
「グレン、左――」
黒い獣の向こうで白い光が見えた時には、もう遅かった。
グレンも身体を捻ったため胸への直撃は外れたが、光は左の上腕を掠めるように走った。
「ぐっ……!」
革の焦げる臭いが広がり、グレンの左腕が下がる。
「下がれ!」
「動ける!」
声は変わらない。
ただ、両手で長柄斧を扱える状態ではなくなった。
俺は彼の前へ入り、追ってきた黒い獣の頭部へ横から風をぶつけた。巨体そのものは飛ばせなくても、踏み込みの向きを乱すには足りる。
獣が壁へ寄った隙に、グレンが右手だけで斧を引き寄せた。
「先に行け」
「置いていく気はない」
「なら走れ。邪魔になる前には言う」
傷を負っても判断は鈍っていなかった。
俺たちは曲がり角を利用して背後からの射線を切りながら退き、次の隔壁へ辿り着く。
リーネが内側で待っていた。
「早く! オルザが閉める!」
「フィアナたちは?」
「もう向こう!」
俺たちを確認すると、リーネも隔壁の内側へ下がった。
ここから先は、ハルヴァが何年も調査に使ってきた範囲だ。
古い記録で立ち入りを禁じられていた場所でも、新しく開いた区画でもない。
それでも黒い獣は止まらなかった。
曲がり角の向こうから姿を現し、宙に浮く二つの黒い物体も続いてくる。
グレンが低く息を吐いた。
「……ここまで来るのか」
それまでとは声が違っていた。
俺たちは隔壁を越え、オルザが横の設備を操作する。
「閉じるぞ!」
厚い扉が低い音を立てて動き始めた。
間に合うと思ったところで、傷のない黒い獣が速度を上げる。閉じかけた隙間へ頭を入れようとしたため、俺は隔壁の前へ戻った。
正面から受ければ押し負ける。
踏み込んできた瞬間に横へ回り、風を重ねながら剣の腹で頭部の向きを扉の縁へ逸らした。
黒い獣の肩が金属へ激突し、勢いが止まる。
閉じる扉に挟まれる前に獣が頭を引いた。その背後で、白い光が見えた。
「伏せろ!」
全員が身を低くした直後、細い光が狭くなった隙間を抜け、こちら側の床へ焼け跡を残した。
隔壁が閉じきる。
向こう側から何かがぶつかる鈍い音が返ってきたものの、扉自体は動かなかった。
グレンは右手だけで長柄斧を支え、オルザを見る。
「閉まったか」
「今はな。向こうがどうなっているかは分からん」
「それでいい。入口まで戻る」
「待って」
フィアナがグレンの前へ回った。
「腕を見せて」
「外に出てからでも――」
「そのまま二時間歩いていい傷か、先に見るよ」
口調は穏やかだったが、譲る気はなかった。
グレンも諦めたらしく、斧を壁へ預けて左腕を差し出す。
肩から上腕にかけて革鎧の一部が焼け、裂けた隙間から赤黒く変色した皮膚が見えていた。出血は多くないものの、表面だけの傷ではない。
フィアナは焼けた革を傷へ触れないよう避け、両手を近づける。
淡い光が広がる間、グレンは黙って壁へ背を預けていた。
「骨は大きく傷ついてないと思う。でも、筋肉まで深く焼けてる」
「歩けるか」
「歩くのは大丈夫。ただ、左腕は使わないで。ラウネに戻ったらもう一度治す」
グレンは指を少し動かしただけで力を抜いた。
「斧は?」
「駄目」
「いつまでだ」
「帰ってから診て決める」
「分かった」
それ以上は食い下がらなかった。
入口までの帰路は俺が先頭へ回り、オルザと調査員二人を中央へ入れた。リーネが後方を確かめ、フィアナは歩きながら何度かグレンの腕を見る。
閉じた隔壁の向こうから追ってくるものはなかった。
入口の外光が見えると、待っていた四人がこちらへ駆け寄ってくる。
「何があった?」
「中へ入れるな」
グレンが答えた。
「黒い獣が出た。ほかにも見たことのないものがいる。ヴァルドへ知らせるまで、誰も中へ入れるな」
見張りの一人が焼けた左腕に気づき、顔色を変える。
「施設の中でやられたのか?」
「ああ」
グレンは少し考え、四人のうち一人を指した。
「お前は先にラウネへ戻れ。ヴァルドへ、中で異常が起きたとだけ伝えろ。詳しい話は俺たちがする」
「分かった」
男はすぐに走り出した。
残った三人へ入口の監視を任せ、俺たちもラウネへの道を戻った。
◇
帰りは、いつもより時間がかかった。
グレンは自分で歩けたが、左腕を揺らさないよう速度を落とす必要があり、途中で一度長めに休んだ。フィアナもそこで治癒を重ね、悪化していないことを確認してから再び歩き出す。
昼をかなり過ぎた頃、ようやくラウネの屋根が山の間に見えた。
先に走らせた男から話を聞いていたのだろう。集落へ入ると、ヴァルドが家の前で待っていた。
まずグレンの腕へ目を向けたが、質問はしなかった。
「先に治せ」
フィアナも頷く。
「そうする」
近くの治療所へ移り、グレンの革鎧を外して傷を改めて確認した。
施設内で一度治癒を受けていても、傷はまだ深い。光が通った部分だけではなく、その周囲の肉まで熱を受けたらしく変色している。
フィアナが傷を洗わせてから治癒を始める間、俺たちは邪魔にならない位置で待った。
リーネは外された革鎧を手に取り、肩に近い位置に開いた細い穴を見つめている。
「これ、革鎧がなかったら違った?」
「大きくは変わらなかったと思う」
俺が答えると、リーネは穴の向こうから俺を見る。
「防げないんだ」
「あの光に対しては、頼らない方がいい」
黒い獣の爪や牙なら意味はある。
だが、同じつもりで受ければ危険だ。
しばらくして治癒の光が消え、フィアナが息を吐いた。
「今日はここまで。かなり落ち着いたけど、無理に動かしたら傷が開くよ」
「腕は動く」
「動くのと、斧を振れるのは別だからね」
グレンは右手で左肩を軽く押さえた。
「分かった。右だけで――」
「長柄斧は使わないで」
「……分かってる」
リーネが呆れたように息を吐いた。
治療を終えてから、俺たちはヴァルドの家へ移った。
◇
机の上には、施設の見取り図が広げられていた。
ヴァルドのほかに、グレン、オルザ、リーネ、俺とフィアナが座る。調査員の一人も今日の記録を持って壁際に控えていた。
ヴァルドは改めてグレンの腕を見る。
「使えるのか」
「日常ならな。斧はしばらく無理らしい」
「なら持つな」
「ああ」
傷については、それで終わった。
「中で何が起きた」
グレンが順に報告する。
夜明け前に見張りが聞いた音。昨日まで消えていた表示板に『隔離区画』『解除準備』と現れたこと。撤退を始めた直後に表示が変わり、閉じていた隔壁が自動で開いたこと。
「中から黒い獣が出た。確認したのは二体だ」
ヴァルドの目が細くなる。
「記録にあるものと同じか」
「王都で戦ったものと同じに見えた」
俺が答える。
「形も大きさも、動き方もほぼ同じだった」
「昔の記録とも合う」
オルザも続けた。
「記述されている四足の黒い異形と考えていいだろう」
ヴァルドが次に見たのは、グレンの左腕だった。
「それにやられたのか」
「違う」
グレンが首を振る。
「別のものだ。人よりずっと小さく、空中に浮いていた。翼はない」
「二体見た」
俺は自分で確認した範囲だけを伝える。
「黒い外殻で、前方から細い光を放つ。二度、光る直前に同じ場所が白くなるのを見た。ただ、毎回同じかは分からない」
「この腕をやった光か」
「ああ」
リーネが持ってきた革鎧を机の端へ置いた。
焼けた穴を見ても、ヴァルドは手を伸ばさなかった。
「オルザ。記録にあるか」
「今の話とそのまま一致するものは思い当たらん」
オルザは少し考えてから続ける。
「空に浮く黒いもの、飛ぶものまで広げれば似た記述が残っている可能性はある。だが、今ここで同じものだとは言えん」
「なら後で探せ」
「ああ」
ヴァルドは施設図へ目を落とした。
「黒い獣はどこまで来た」
グレンが右手を伸ばし、今日開いた隔離区画を指す。
「ここから出た。俺たちはこの通路を使って下がったが、二体とも追ってきた」
指が入口側へ動く。
「この隔壁までか?」
「越えた」
さらに手前へ移動する。
「ここまで来た。浮いていた二体も同じだ」
ヴァルドの視線が止まった。
「ここは、普段使っている場所だな」
「ああ」
今度はリーネが答えた。
「再調査を始めてから何度も通ってる。ここであんなものが出たことはない」
オルザも否定しなかった。
ヴァルドはしばらく図面を見てから、グレンへ確認する。
「お前たちが退けば戻る様子はあったか」
「ない。隔壁を閉めなければ、もっと来たと思う」
「最後の隔壁は閉じた」
オルザが言った。
「操作には応じた。今のところ、あれより手前へ出てきたとは考えにくい」
グレンが彼を見る。
「今は、だ」
「分かっている」
「奥の隔壁も、昨日までは閉じていた」
オルザは返さなかった。
ヴァルドが二人の間へ視線を動かす。
「オルザ。今閉じている隔壁が、向こうから動かないと言い切れるか」
「言えん」
「今日、実際に一つ開いた」
「ああ」
ヴァルドはそこで図面から手を離した。
「中へ入るのは止める」
オルザが顔を上げた。
「調査もか」
「今はな。入口の見張りを増やせ。中で音がしても確かめに行くな。外へ何か出たら、すぐラウネへ知らせろ」
「内部を見なければ分からないこともある」
「分からないままでいいとは言っていない」
ヴァルドの声は静かだった。
「昨日まで安全だった場所へ黒い獣が来た。記録にないものまで一緒にな。それを見た翌日に、また同じ人数を入れる理由はない」
オルザは反論しなかった。
「百八十年前の記録を出せ」
ヴァルドが続ける。
「黒い獣が出た時、閉じていた区画が動いた時、それまで何も起きなかった場所へ異形が出た時。似たものから当たれ」
「量がある」
「今夜で全部読めとは言わん。何を先に見るべきかは分かるだろう」
オルザはしばらく黙ったあと、頷いた。
「分かった」
ヴァルドはグレンへ向き直る。
「お前は休め」
「見張りの配置だけ決める」
「それが済んだら休め」
「ああ」
「リーネはオルザを手伝え。施設へは戻るな」
「分かった」
最後に俺とフィアナを見る。
「二人も休め。必要なら呼ぶ」
俺が何か言う前に、フィアナが先に頷いた。
「分かった」
俺もそれ以上は言わなかった。
これで終わるのかと思ったが、ヴァルドはもう一度、机の上の施設図へ目を落とした。
指先が、今日開いた隔離区画から、俺たちの退路をゆっくり入口まで辿っていく。
「オルザ」
「なんだ」
「百八十年前、最後はどうした」
オルザが顔を上げる。
「何の話だ」
「ここをだ。黒い獣が出て、奥を使えなくなったあと、先祖たちはどうやって施設を閉じた」
オルザはすぐには答えなかった。
俺たちが見ている中、やがて図面の入口近くへ視線を落とす。
「記録はある。内側の隔壁だけじゃない。入口側にも、いくつか残っているはずだ」
「なら、それを先に出せ」
「再封鎖するつもりか?」
ヴァルドはそこで初めてオルザを見た。
「まだ決めていない」
少しの間を置き、入口を押さえていた指を動かさずに続ける。
「だが、閉じ方も知らずに、開けたまま考える気はない」
オルザは何も返さなかった。
ヴァルドの指だけが、施設図の入口に残っていた。




