第91話 山の向こうの名
「ヴァレク、また見られてるぞ」
隣から聞こえたガルドの声に、わざわざ周囲を確かめる必要はなかった。
王都を出てから数日。国境を越えて北へ入って以降、俺たちは行く先々で似たような視線を向けられている。
黒い外套の下に武器を持つ俺だけなら、北方ではさほど珍しくもない。だが、重装備のガルドと大斧を背負ったオスカー、それに細剣を携えたセレナまで一緒となれば、何者なのか探る目が集まるのも当然だった。
「お前とオスカーが並んで歩いてるのが悪い」
「俺かよ」
ガルドが不満そうに返すと、向かいのオスカーが椀を置いた。
「俺まで巻き込むな。お前の方がよほど物騒な顔をしてる」
「斧背負ってる奴に言われたくねえな」
「二人とも十分目立ってるわ」
卓上へ紙を広げていたセレナが、顔を上げずに割り込む。
「それに武器だけの問題じゃないでしょうね。北方の人間が一人、王国の武装した三人を連れて奥へ進んでる。何をしに来たのか気にされて当然よ」
反論する理由はなかった。
今いるのは、国境から北へ入った交易路沿いの集落だった。
南から運ばれてきた穀物や酒、鉄製品の一部が仲介人へ渡り、代わりに北からは毛皮や鉱石、薬草が持ち込まれる。昔から続く交易の接点ではあるが、王国と北方の人間が自由に行き来しているわけではない。
荷は人から人へ渡る。
王国の商人がそのまま北方の氏族領を巡ることも、北方の者が好きに王国内へ入ることもない。正式な和平すら成立していない今なら、なおさらだった。
ましてガルドたちほどの戦力を連れ、交易の範囲を越えて北へ向かう一団は珍しい。
「で、候補は減ったのか?」
ガルドが声を落とし、セレナの紙を覗き込んだ。
「だいぶ整理できたわ」
紙の上には、地名と短い注記が並び、そのいくつかに小石が置かれている。
アレンとフィアナが消える直前、王都地下に現れた表示から、二人が北方へ移されたと考えている。問題は、その先だった。
北方に古代施設は一つではない。完全に埋まったもの、入口を失ったもの、封鎖されたまま長く誰も入っていないものまで含めれば、王国側の記録だけで行き先を定めるのは難しかった。
「今も場所が分かっていて、人が近づける施設を優先してるの。何十年も埋まったままの場所を同じ順番で探しても仕方ないでしょう?」
「ハルヴァも残ってるんだな」
俺が紙の一角を見ながら言うと、セレナが頷いた。
「ええ。今も内部を調べているという情報がある場所の中では、有力な方ね」
「俺から聞いた話だけだがな」
「だから断定はしてないわ」
すぐに返ってくる。
「ハルヴァが施設を持っていて、数年前から調査を再開している。それはヴァレクが知ってる。でも、今の施設がどうなっているかは誰も確認してない。今欲しいのはそっちの情報よ」
「分かってる」
セレナは細かい。
だが、こういう時に余計な思い込みを混ぜないのは役に立つ。
ハルヴァの名そのものは、王都を出る前から挙がっていた。
北方諸族連合に属し、盟主という立場も認めている。それでも、古代施設を再び封じるよう求める盟主側の方針には従っていない氏族だ。
「ハルヴァってのは、盟主と敵対してるのか?」
ガルドが尋ねた。
「そんなに単純じゃない。盟主を盟主とは認めてる。ただ、自分たちの土地にあるものをどう扱うかまで指図される気はないという姿勢だ」
「俺たちが行ったら?」
「歓迎はされない」
即答すると、ガルドが顔をしかめた。
「少しくらい迷えよ」
「俺が盟主に近い立場だと分かれば警戒される。再封鎖の件で揉めてる最中だ。お前たちが王国から来たと知れば、もっと面倒になる」
「最悪じゃねえか」
「門前で追い返されるだけなら上等だ」
オスカーが小さく笑い、セレナも口元を緩めた。
「でも、今の材料だけでハルヴァと決めるのは早いわね」
「ああ」
施設がある。今も調べられている。そして王都から北方への接続が起きた。
条件は合うが、二人の行き先を示すものではない。
「今の様子が分かれば、もう少し判断しやすいんだけど」
セレナがそう言った少し後、宿の戸が開いた。
冷たい風と一緒に三人の男が入ってくる。
外套も長靴も山道の泥で汚れ、背負った荷には毛皮の束と小さな革袋が括りつけられていた。先頭の男には額の横から短い角が生えている。残る二人は王国の人間と見分けがつきにくいが、話しているのは北方の言葉だった。
この辺りを行き来する交易人だろう。
宿の主人と短く話したあと、三人は少し離れた卓へ腰を下ろす。一度だけ俺たちを見たが、声を掛けてくることはなかった。
こちらも気に留めるつもりはなかった。
やがて聞こえてきた氏族名までは。
「……ハルヴァの方はやめとけ。東へ回った方が面倒がない」
ガルドがこちらを見る。
セレナも紙から顔を上げた。
「聞いてくる」
「俺も――」
「座ってろ」
「まだ言い切ってねえだろ」
「来る気だっただろ」
ガルドを残して立ち上がると、オスカーが背後で笑った。
三人の卓へ近づいたところで、角のある男が俺を見る。顔、角、腰の武器と順に視線が動いた。
「何だ」
「ハルヴァの話が聞こえた」
「聞き耳か?」
「聞こえる声で話してた」
男は鼻を鳴らしたものの、追い払おうとはしなかった。
「ハルヴァで何かあったのか」
「別に。行商なら面倒だから、あっちを通るなって話だ」
「何が面倒なんだ?」
「見張りだよ。前から山の奥へ入れば止められたが、しばらく前から随分手前まで出てくるようになった。荷を運んでるだけでも確認される」
「いつからだ?」
男は隣の連れへ目を向けた。
「ここ数日じゃないな」
「ああ。少し前からだ」
隣の男が続ける。
「最近は前より細かく聞かれる気はするけどな」
アレンたちが現れてから急に始まったわけではない。
むしろ、二人が来る前からハルヴァ側に警戒する理由があったことになる。
「どの辺りだ」
「東の山側。昔の石の場所がある方だ」
「古代施設か」
男の目がわずかに細くなった。
「知ってるなら話が早い。俺たちは近づかん。ハルヴァの連中も、用がないなら来るなと言う」
「施設で何かあったって話は聞いたか?」
「知らん」
返事は早かった。
「光ったとか、変な音がするとか」
「だから知らんって。ハルヴァが自分たちの施設の話を、通りすがりの行商に教えると思うか?」
「思わないな」
そう答えると、男の険しさが少し薄れた。
横にいた年嵩の男が、干し肉を噛みながら口を挟む。
「警戒が強くなってるのは本当だ。前なら顔を知ってりゃそのまま通れた道でも、今は一度止められる」
「揉めてる様子は?」
「いや。向こうも喧嘩腰じゃない。通す奴と通さない奴を前よりきちんと見てるって感じだな」
理由を知りたければ、本人たちに聞くしかない。
「助かった」
礼を言って離れようとした時、最初の男に呼び止められた。
「ハルヴァへ行くのか?」
「そのつもりになるかもしれない」
「なら正面から行け。山を知ってるつもりで横から入るなよ。迷うか、見つかった時に余計な疑いを持たれる」
「分かってる」
「ならいい」
今度は引き止められなかった。
席へ戻ると、ガルドがすぐに口を開く。
「どうだった?」
聞いた内容をまとめて伝える。
ハルヴァが以前から施設のある山側への警戒を強めていること。最近は交易人への確認も細かくなっていること。ただ、施設内部で何が起きているかまでは外の人間には伝わっていない。
セレナはしばらく黙って聞いていた。
「見張りを増やしたのは、アレンたちが現れるより前なのね」
「ああ」
「だったら、二人を警戒して始めたものではない。ハルヴァ自身に、それ以前から警戒を強める理由があった」
「施設が原因とは限らないぞ」
「分かってる。でも、施設のある山側で警戒が強くなってるなら、確認する価値は上がったわ」
セレナはハルヴァを示す小石を取り、他の候補より手前へ置いた。
「今も人が出入りしていて、周辺の監視も強まってる。先に見るならここね」
「決まりだな」
ガルドが言う。
「ハルヴァへ行こう」
「第一に当たる」
そう答えると、ガルドが眉を上げた。
「まだ言い切らねえのか」
「着いて違ったら次だ。二人がいる証拠はまだない」
「まあ、それはそうだな」
オスカーが紙を覗き込む。
「ここから何日だ?」
「近くはない」
ハルヴァの領域はさらに北へ入り、途中から山側へ寄る。
交易路を使えば道を大きく外すことはないが、山へ入ってからは足も遅くなる。天候や道の状態次第では、予定通り進めるとも限らない。
「昔なら、途中から山を横切る道もあった」
「昔なら?」
セレナが顔を上げた。
「俺が知ってるのは昔の道だ。今も残ってるかは知らない」
「なら使わない方がいいわね」
「俺もそう思う」
セレナが少しだけこちらを見る。
「意外ね」
「何がだ」
「王都を出てから、遠回りを選んだことあった?」
「今回は遠回りとは限らない。崩れた道を探して山の中を歩き回る方が遅い」
「ちゃんと考えてたのね」
「お前は俺を何だと思ってる」
言ってから、また同じようなやり取りになりかけたことに気づく前に、セレナは紙を畳み始めた。
「急いでるのは知ってる。でも、急いで迷ったら意味がないでしょう?」
「だから正規の道を使う」
それで話は済んだ。
急いでいるからこそ、古い記憶だけを頼りに山へ入る気はない。警戒を強めている氏族の領内へ横から踏み込めば、辿り着いた後の話まで難しくなる。
「交易路を進む。ハルヴァ領へ入る道まで行って、見張りを探す」
「止められたら?」
オスカーが尋ねる。
「止まる。俺が話す」
「王国からの書状は?」
「求められれば出す。ただ、最初から王の名で押し通す気はない」
セレナが頷いた。
「まずアレンとフィアナを探してることを伝えた方がいいわね。和平の話まで一度に持ち込んだら、余計に警戒される」
「俺もそうするつもりだ」
ハルヴァが盟主の方針に反発しているなら、俺が王都へ使者として赴いたことも、最初から前面に出す必要はない。
目的は二人の捜索だ。
「向こうが先に仕掛けてきたら?」
ガルドが聞いた。
「殺す気がないなら受けるだけにしろ」
「見分けろって?」
「そのくらいできるだろ」
ガルドが鼻を鳴らす。
「注文が多いな」
「話をしに行くんだ。戦争に行くんじゃない」
「本気で来たら?」
「その時は止めろ。ただし、必要以上にやるな」
「分かったよ」
ガルドなら、その判断はできる。
オスカーも異論はないらしく、残っていた飲み物を静かに空にした。
「じゃあ、明日はハルヴァ方面だな」
「日の出前には出る」
「早えな」
「山へ寄る前に距離を稼ぐ」
「そういう理由は先に言えよ」
ガルドが文句を言う横で、セレナが紙と小石を片づけていく。
王都を出た時、分かっていたのは二人が北方へ移されたらしいということだけだった。
今も居場所を掴んだわけではない。
ただ、古代施設を今も調べ、その周辺への警戒を強めている氏族がいる。
ハルヴァ。
いくつもあった名前の一つが、初めて行き先になった。
宿の外へ出ると、冷えた空気の向こうに山影が幾重にも重なっていた。
あの向こうに二人がいるかどうかは分からない。
だからそれを、確かめに行く。




