第90話 知っている危険
ラウネへ戻った頃には、山の向こうへ日が傾き始めていた。
グレンは道中で話した通り、そのまま俺たちをヴァルドの家へ連れていった。先に戻っていたオルザは昼の調査記録を机に広げており、少し遅れてリーネも姿を見せる。
全員が揃うのを待ってから、ヴァルドが俺とフィアナへ目を向けた。
「グレンから、王都で起きたことについて話があると聞いた」
「ああ。ラウネへ来た日に、黒い獣と戦ったことがあるとは話したけど、それだけじゃ足りないと思った」
隣でフィアナも頷いた。
「王都で何があったのか、私たちが実際に見た範囲で話すね」
どこまで伝えるかは昼のうちに二人で決めていたため、俺は王都の各地に魔物が現れ、軍や冒険者がそれぞれの場所で対応することになったところから話し始めた。
「外から入り込んだ魔物ではないのか」
「それだけじゃない。地下から出てくるのも見たし、古代施設の中には液体で満たされた大きな槽が並んでて、その中に魔物が入ってるのを俺もフィアナも見てる」
「生きたままか?」
「そう見えた」
オルザが机の上で組んでいた指をほどき、槽から出るところまで確認したのかと尋ねてくる。
「そこまでは見てない。ただ、施設の中に魔物が収められてたのは事実だし、地下から魔物が出てきたのも見てる。王都に出た全部がそうだったとは言えないけど、一部は施設から出たと考えるのが自然だと思う」
「私もそう思う。外で見た魔物と同じ種類もいたから」
フィアナの補足にヴァルドは短く頷き、続けて黒い獣について尋ねた。
「俺たちが見ただけでも複数いた。王都の別の場所でも戦闘になってる」
黒い獣については、ラウネへ来た日にすでにある程度話している。何より、北方ではその存在自体が失われた知識ではなかった。
百八十年ほど前に古代施設が動いたあと、北方では黒い異形との戦いと施設の封鎖が長く続いたらしい。ヴァルドたちの世代に実物を見た者はいないものの、祖先が何十年もかけて封鎖を続けたことは氏族の歴史として残っている。
「昔の記録にあるものと、同じに見えたのか」
ヴァルドに聞かれ、俺は頷いた。
「オルザから聞いた特徴とは合ってる。大きな四足で、全身が黒い殻みたいなもので覆われてた」
「なら、そこは昔と変わっていないか」
ヴァルドの声に驚きはなかったが、安心した様子もない。
「それと、人の形をした黒いやつもいた。二種類」
そこでリーネが眉を寄せた。
「二種類に分かれてたの?」
「ああ。一つは人間より少し大きいくらいだ。黒い外側に覆われてて、近づいて攻撃してくる」
「立って歩く黒いものなら、話にはある」
ヴァルドがオルザを見ると、老人も頷いた。
「ある。ただし曖昧だ。『人のように立つ黒きもの』、『細き黒きもの』としか書かれていない記録も多い。大きさも、同じものを指しているのかも分からん」
「俺が見た小さい方は、普通の戦士が一人で相手をするならかなり危ないと思う。俺たちが戦った一体も傷は負わせたけど、その場では仕留め切れなかった」
その個体のことだけは、今でもはっきり覚えている。
傷を負ったまま逃げたそいつは、その後になって避難路へ現れ、何人も死んだ。エーベルもそこにいた。
「後で避難していた人たちのところに出た。傷ついてても動き続けて、知り合いも一人死んでる」
グレンの表情がわずかに険しくなる。
「最後は?」
「ヴァレクが倒した。俺たちが最初につけた傷を使って」
「その大きさでも、それだけやるのか」
「ああ。見た目だけで判断しない方がいい」
グレンはそれ以上聞かず、覚えるように一度だけ頷いた。
「その個体に合う記録は?」
ヴァルドが尋ねると、オルザは机の上の帳面へ視線を落とした。
「探せば出るかもしれんが、今ここで同じものだと言える記述は思い当たらん。人型がいたこと自体は珍しい話ではないが、昔の記録は見た者によって呼び方が違う」
「なら、もう一つは?」
グレンに促され、今度は大型の人型について説明した。
三、四メートルほどの黒い人型で、細長い手足を持ち、顔らしいものの代わりに頭部へ縦長の発光部があったこと。そこから石壁まで壊す光を放ち、近づいても強かったこと。そして、そいつが現れてから黒い獣の動きが明らかに変わったことまで話したところで、オルザだけでなくヴァルドも表情を変えた。
「……大きな黒いものが、他を従えていたという話は残っている」
ヴァルドの言葉に、今度は俺が顔を上げた。
「知ってるのか?」
「見た者はもういない。だが、祖先が施設を封じるまで長く戦ったことはラウネでも知られている。その中に、大きな黒いものの周りへ他の異形が集まったという話がある」
「光についても?」
「それもある」
答えたのはオルザだった。
「人や石を焼く光があったという記述は複数残っている。ただし、それを放ったものが何だったのか、同じ個体を指しているのかまでは伝わっていない」
リーネが少し考えてから口を開く。
「昔から聞く話だと、黒いものが何種類も出て、それを封じるのに何年もかかったってくらいだった。形まで細かく聞いたことはない」
「それが普通だ」
オルザが答える。
「戦った者が残した記録も、後からまとめたものも、同じ言葉を使っているとは限らん。黒い獣のように特徴がはっきりしていて、何度も記録されたものの方が珍しい」
俺が王都で見た大型個体について、グレンは光が出る前の兆候や間隔、避けるなら何を見るべきかまで細かく確認してきたため、実際に戦って分かった範囲で答えた。
「そいつが黒い獣を動かしていたのか」
オルザの問いには、少し考えてから答える。
「仕組みは分からない。でも、偶然だとは思ってない。あいつが出てから黒い獣の動きが変わったのは確かだ」
声や合図を確認したわけではない。それでも、回り込みや退路の遮断まで揃い始めた動きを偶然で片づける気にはならなかった。
「なら、昔の記録も見直した方がいいな」
ヴァルドがそう言うと、オルザはすでに立ち上がっていた。
「少し待て。似た記述があったはずだ」
壁際に積まれた帳面を何冊か確かめ、その中からかなり古びた一冊を抜き出す。机へ戻ったオルザは、傷めないよう慎重に頁をめくり、書き直した跡や別の筆跡による追記が混じる中で指を止めた。
「これだ。原本ではない。百年以上前に、それより古い記録を写したものだ」
ヴァルドが身を寄せる。
「読め」
「『四足の黒きものが退かず、大きな黒き影の周囲へ集まる』」
そこでオルザは一度指を止め、続く行へ移した。
「『光の後、石壁が割れた。正面に立つな』」
知っていた昔話の輪郭が、急に具体的な形を持ったようだった。
リーネも帳面と俺を見比べている。
「……本当に、王都にいたのと同じみたい」
「俺も、同じ種類のものを指してると思う」
オルザが顔を上げた。
「言い切るか」
「大きな黒いものの周りに黒い獣が集まって、石を壊す光まで一緒に残ってる。これが全部別のものだと考える方が無理がある」
百年以上前に記録されたものと、王都で戦った個体が細部までまったく同じなのかは分からない。ただ、そこまで可能性を広げてしまえば、今ある情報から何も判断できなくなる。
「同じ系統のものが昔にもいた。俺ならそう考える」
オルザは記録へ視線を戻し、しばらく考えてから頷いた。
「……私もそう思う。口伝だけなら慎重になるところだが、ここまで重なるなら偶然と考える方が難しい」
「いつ頃の記録だ?」
グレンが尋ねる。
「元になったものは、施設で大きな災害が起きた時代の記録とされている。およそ百八十年前だ。ただし、これは後世の写しだから、元の文がどこまでそのまま残っているかは保証できん」
場所については北方のどこかとしか残っておらず、この施設そのものの記録と断定できるものではなかった。
「小さい方も探せる?」
リーネの問いに、オルザは帳面を閉じずに首を振る。
「今ここでは無理だ。人型についての記録をまとめて当たり直す必要がある。ただ、昔の北方に人型の黒いものがいたこと自体は間違いない」
「王国より、かなり残ってるんだな」
思わずそう言うと、ヴァルドがこちらを見た。
「こちらでは、一度起きて終わりではなかったからな」
その言葉には、実際に見た者ではなくても氏族の歴史として知っている重さがあった。
「施設が動いたあとも、北方では長く戦いが続いた。封じた場所も一つではない。俺たちの祖先も、ここを閉じて終わりにしたわけじゃない。見張り、崩れれば直し、異常があればまた人を出した。それを何代も続けてきた」
王国では途切れていたものが、こちらでは生活の一部として残ったのだろう。
だからこそ、今も施設を恐れるだけではなく、使えるものなら使おうとする考えまで生まれたのかもしれない。
ヴァルドは話を戻すように俺を見る。
「王都では、そういうものが出る前に何か兆候はあったか」
「一つじゃない。施設の表示が変わったり、止まってた設備が動いたりしてた。魔物が出た場所も一か所じゃなかった」
「順番は?」
「全部は分からない。俺たちも王都中を見てたわけじゃない」
「ここで起きてる変化と似てる?」
リーネに尋ねられ、ここ数日の調査を思い返す。
「表示や設備が勝手に変わるって意味では似てる。ただ、それだけで王都と同じことが起きるとは思ってない」
似た現象があることと、その先まで同じになることは別だった。
ヴァルドは今度はフィアナへ目を向ける。
「お前が感じるものはどうだ」
「施設に入ると、何かに引かれるような感じがすることがある。でも、いつも同じじゃないし、それだけで危険が来るかどうかまでは分からないよ」
「ここでも感じているな」
「うん。今も少しあるけど、最初に来た日よりは弱い」
ヴァルドは机に開かれた古い記録をしばらく見下ろしてから、やがて腕を組んだ。
「王都で起きたことを聞いたからといって、今すぐあの施設を閉じるとは言わん。昔の危険を知らずに調べ始めたわけでもないし、数年かけて確認してきた範囲では、今まで事故なく扱えていた設備もある」
オルザが黙って続きを待つ。
「だが、王都で昔と同じものが出た以上、今までと同じやり方を続ける理由もない。調査は続けるが、範囲は広げない」
ヴァルドはグレンへ向き直った。
「入口の見張りを増やせ。中へ入る人数は増やすな。全員まとまって動いて、新しく開いた場所があっても入るな。表示が変わる、閉じていたものが動く、聞いたことのない音がする、フィアナの感じ方が急に強くなる――何か一つでもあれば、その場で進むのをやめろ」
「退く場所も決めておく」
「ああ。昔の記録に撤退手順があるなら、それも使え」
グレンが頷く横で、オルザが開いた帳面へ手を置いた。
「一ついいか。今の話と昔の記録が同じものを指しているなら、調べる意味はむしろ大きくなった。長く断片でしか残っていなかったものが、王都で実際に動いたなら、何が施設内で変わっているのか――」
「調べるなとは言っていない」
ヴァルドの低い声が途中で遮る。
「だが、昔の人間が何十年もかけて封じた理由まで忘れたつもりはない。知るために氏族の人間を死なせる気もない」
しばらく二人の視線がぶつかったものの、オルザはやがて頷いた。
「分かっている」
「ならいい」
そこで話は終わった。
オルザは危険そのものを否定しているわけではない。それでも、四十年以上追ってきた場所で、昔の記録にしかなかったものが現実に動いていると分かれば、確かめたい気持ちはむしろ強くなるのだろう。
俺には、その気持ちまで否定する理由はなかった。
ただ、王都で見たものは伝えた。ハルヴァ側が元から持っていた記録とも繋がった以上、もし同じものに出会うとしても、少なくとも何も知らずに向き合うことにはならない。
◇
家へ戻る頃には、外はかなり暗くなっていた。
戸を開けると朝から残っていた薪の匂いがして、フィアナは窓を少し開けてから小さな炉へ火を入れる。俺も水の入った器を机へ運んでいると、火を見ていたフィアナがこちらを振り返った。
「話してよかったと思う?」
「ああ。王都で見たものと、あそこまで同じ記録が残ってるとは思ってなかった」
「私も。アレン、かなりはっきり同じものだって言ったね」
「さすがにな」
「珍しい」
「俺だって何でも分からないって言うわけじゃない」
そう返すと、フィアナが少し笑った。
「黒い獣が集まる大きな黒いものと、石を壊す光まで一緒なら、同じ系統だと思う。そこまで偶然で重なる方が変だ」
「うん。私もそう思う」
薪を一本足すと炎が少しだけ強くなり、フィアナはしばらくその揺れを眺めていた。
「でも、ここの人たちは思ってたより知ってたね」
「ああ。俺たちより長く残してきたんだろうな」
「昔のことなのに?」
「何十年も戦って、そのあともずっと見張ってたなら、昔話だけじゃ済まないんだと思う」
王国では、百八十年前の出来事を調べようとしても、記録そのものが途切れていることが多かった。ここでは文字が読めなくても、危険だった場所を閉じ、近づかないための手順を残し、それを次の世代へ渡してきた。
違う残り方をしただけなのかもしれない。
「明日も入るんだね」
「ああ」
「怖くない?」
「警戒はしてる」
「怖くは?」
そこまで聞かれて、少し考える。
「何が出るか分からないのは嫌だな。ただ、王都で見たものなら今度は最初から知ってる」
「知らないものが出たら?」
「その時は退く」
「本当に?」
「そこ疑うところか?」
「ちょっとだけ」
フィアナが笑ったので、俺も苦笑しながら夕食の支度を手伝った。
◇
翌朝は、昨日までより少し早くラウネを出た。
人数そのものは大きく変わらず、俺とフィアナ、オルザ、リーネ、調査員が二人。グレンは長柄斧を背負い、さらに戦士を一人連れている。
施設の入口へ着くと、昨日まで二人だった見張りが四人に増えていた。
「本当に増やしたんだ」
「決めたことだ」
リーネにそれだけ返したグレンは見張りへ近づき、夜の状況を確認する。
「外には異常なし。ただ、夜明け前に一度だけ奥で音がした」
「どんな音だ」
「石か、重い板が擦れるような音だった。一度だけだ」
「確認したか」
「してない。全員入口に残った」
「それでいい」
最近、閉じた区画の向こうから音がしたこと自体はあるため、それだけなら初めてではない。ただ、昨日の話をした直後ということもあって、誰も軽く受け取る様子はなかった。
グレンは全員の装備を一度見回してから、施設の入口へ向き直る。
「今日は俺が先頭。アレンはフィアナの近くにいろ。リーネは後ろを見る。何かあれば戻る。追うな」
「分かった」
中へ入ると、最初の部屋は昨日までと変わらず静かだった。俺とフィアナが現れた場所にも目立った変化はなく、壁には弱い光が残っている。
「フィアナ」
声を掛けると、フィアナは目を閉じて少しだけ奥へ顔を向けた。
「……昨日より強い」
その言葉でグレンが足を止める。
「どれくらいだ」
「少しだけ。でも、昨日とは違う」
「戻るほどか?」
「そこまでは感じないよ」
グレンはすぐには進まず、周囲を確認してから、今日は確認済みの範囲までにすると念を押した。
そこから奥へ進んでも、途中の表示に目立った変化は見つからない。昨日確認した補助照明の表示もそのままで、接続待機と読んだ場所にも新しい文字は出ていなかった。
やがて、夜中に音がしたという区画へ近づく。
そこは、この数日も先へ進まなかった場所だった。通路の先には厚い隔壁があり、その横の壁には黒い表示板が埋め込まれている。
昨日までなら、そこには何も映っていなかった。
先頭のグレンが足を止めたのとほとんど同時に、俺も表示板の変化に気づいた。
「アレン」
「ああ。見えてる」
黒かった板の上に、白い文字が浮かんでいる。
「昨日はなかった」
オルザの声を聞きながら、隔壁から距離を取ったまま二行の文字を追う。どちらも読めないものではなかった。
「何て書いてある?」
背後から聞こえたリーネの声に、俺は表示をもう一度確かめた。
「『隔離区画』。その下が――『解除準備』」
その意味が伝わると、誰も隔壁へ近づかなかった。
目の前の厚い扉は、まだ閉じたままだった。




