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第89話 伝えるべきこと

 翌朝、目を覚ますと、家の外ではもう人が動き始めていた。


 ラウネへ来たばかりの頃は、朝になるたびに家畜の鳴き声や斜面を行き交う足音が気になったが、四日も過ごせばそれなりに耳が慣れる。水を汲みに行く人、荷を背負って集落の外へ向かう人、山羊を囲いから出す子どもまで、窓から見える範囲だけでもそれぞれの一日が始まっていた。


 昨日は施設へ入らなかったが、今日は昼から調査を再開する。オルザたちはその前に、ここ数日で集めた記録を一度整理しておきたいらしく、俺には朝のうちにすることがなかった。


 フィアナは昨日に続いて診療所へ行くというので、朝食を済ませてから一緒に家を出た。


「午前だけ?」


「うん。今日は昼から施設でしょ。熱のある子をもう一度診たいのと、昨日来た人の傷も見てほしいって」


「腰が痛い人は?」


「来れば診るよ」


 フィアナが少し笑った。リーネの話では、本人が素直に休んでいる可能性は低そうだった。


 家の前で別れたあと、俺は一度ヴァルドの家へ寄った。


 調査に必要な荷物でもあれば運ぼうと思ったが、中ではオルザと数人の調査員が机いっぱいに帳面を広げ、朝からかなり込み入った話をしている。俺が入ると何人かが顔を上げたものの、手を止めるほどではないらしい。


 グレンも壁際に立って記録を見ていた。


「昼まで待て」


 何か手伝えることはないかと尋ねた結果がそれだった。


「本当に何もない?」


「ない。必要なら呼ぶ」


「分かった」


 俺が横に立っていたところで記録の整理が早くなるわけでもない。そのまま家を出て、特に行き先も決めず集落の北側へ歩いた。


 昨日通った道には、朝から薪を積んだ荷車が止まっている。鍛冶場の方からは一定の間隔で鉄を打つ音が聞こえ、斜面の上では数人が柵を直していた。


 その中に乾いた木同士がぶつかる音が混じり、そちらへ向かって坂を上ると、土を踏み固めた広場が見えてきた。


 十人ほどの戦士が集まっている。


 二人一組で武器を合わせている者もいれば、少し離れた場所では弓を射ている者もいた。王都の冒険者ギルドにあるような整った訓練場ではないが、地面の一部だけ色が変わるほど踏み固められており、普段から使われているのは分かる。


 その中に見覚えのある金髪があった。


 リーネは木製の短剣を二本持ち、少し年上に見える女の戦士と向かい合っている。俺が近づいた時にはちょうど打ち合いが終わったところで、相手から何か指摘を受けながら呼吸を整えていた。


「今日は診療所じゃないんだ」


 先にこちらへ気づいたリーネが言う。


「それはフィアナ。俺は昼まで暇になった」


「施設は?」


「オルザたちの整理待ち」


「じゃあ見てけば? グレンもいるよ」


 リーネは短剣を受け取りに来た戦士へ渡しながら、広場の端へ目を向けた。


 姿はもう見えていた。


 グレンは二人の戦士を同時に相手にしている。


 普段使っている長柄斧ではなく、先端まで木で作られた訓練用の長柄武器を持っていた。あの体格なら力任せに振り回すだけでも十分脅威になりそうだが、実際の動きはむしろ小さい。


 左右から入ろうとする二人に対し、長い柄を大きく回すことなく、片方の進路を塞いだままもう片方へ身体を向けている。正面の戦士が一気に距離を詰めたところで、木剣が届くより先に柄の後端が胸へ触れた。


「そこまで」


 打たれた戦士が息を吐きながら一歩下がる。


「また入れなかった」


「二人で同じところを見るな。正面にいる奴を俺に見せて、もう一人が足を見ろ」


「分かった」


「もう一度」


 説明はそれだけだったが、二人はすぐ立ち位置を変えた。


「いつもあんな感じ?」


「戦士が集まる日はね。全部自分で相手するわけじゃないけど、見てることは多いよ」


「戦士長だもんな」


「私も結構言われる」


「何を?」


「入り方が分かりやすいって」


「それは直した方がいいな」


「分かってるよ」


 少し不満そうに返されたところで、二度目の打ち合いが始まった。


 今度は片方がさっきより深くまで入り、もう一人も横から回る。それでもグレンは正面の木剣を柄の中ほどで受けながら、先端を横へ向けてもう一人の踏み込みを止め、二人が離れる頃には再び自分の正面へ戻していた。


 そこでようやくこちらに気づいたらしい。


「暇なのか」


「昼まで待てって言ったの、グレンだろ」


「そうだったな」


 近くにいた戦士が笑ったが、グレン自身は気にした様子もなく俺の腰へ目を落とした。


「剣は持ってきたか」


「一応」


「それは使うな」


「使うわけないだろ」


 グレンは広場の端に並ぶ訓練用の武器へ向かい、木剣を一本選ぶとこちらへ放った。


 片手で受け取って軽く振ってみる。普段の剣より軽く、柄の感触も違うが、使えないほどではない。


「俺と?」


「ああ」


「急だね」


 リーネが面白そうに俺たちを見比べる。


 グレンは長柄武器を肩から下ろした。


「最初にこいつと会った連中は、五人で押さえられなかったと言っていた」


「押さえられなかったっていうより――」


「お前は黙ってろ」


「まだ何も言ってないけど」


 リーネが肩をすくめる。


 最初に施設の外で会った五人の一人なのだから、言いたいことはあるのだろう。


「報告だけじゃ分からない?」


「分からん」


 即答だった。


「魔法は?」


「なしでいい」


「分かった」


 周囲の戦士たちが自然と場所を空け、全員ではないものの、こちらを見る人数は増えていく。


 俺は広場の中央へ出た。


 正面に立ったグレンは、改めて見るとやはり大きい。体格だけならガルドにも近いが、持っているのは大剣ではなく長柄武器で、こちらの木剣なら二歩近づかなければ届かない場所から普通に攻撃してくる。


 グレンは柄を両手で持ち、身体の正面から少し外して構えた。


「始めるぞ」


「ああ」


 先に踏み込んだ。


 間合いそのものは見れば分かる。問題は、そこをどう越えるかだった。


 一歩目に合わせて長柄武器が動き、横薙ぎに振り抜くのではなく、先端だけが俺の進路へ入ってくる。外から回ろうと足をずらしても、グレンは必要な分だけ身体の向きを変え、武器の届く距離を崩さない。


 そのまま内側へ潜ろうともう一歩詰めると、今度は後ろ手が引かれた。長い柄が手の中を滑り、遠ざかった先端と入れ替わるように反対側が脇腹へ回ってくる。


 上体を捻ってかわした頃には、グレン自身も一歩下がっていた。


 こちらの剣はまだ届かない。


「近いと思った」


 グレンが言う。


「俺も」


 一度距離を取り、木剣を握り直した。


 長柄武器は懐へ入れば不利になる。その考え自体は間違っていないが、グレンは当然そこを分かっている。先端が使えなくなる距離まで入られても、柄を滑らせて持ち替え、反対側までそのまま攻撃に使う。


 近づけば楽になる相手ではなかった。


 今度はすぐに入らず、左右へ動いてみる。


 右へ行けば半歩、左へ戻ればまた半歩と、グレンの足がついてきた。大きく位置を変えないまま、長柄武器を使いやすい距離を保っている。


 速さだけで無理に正面を抜くこともできるかもしれないが、それでは相手の動きを見る意味がない。


 一度踏み込み、武器が伸びる直前に後ろへ抜けると、木の先が目の前を通り過ぎた。それでもグレンは追ってこない。


 二度目も似た入り方を見せると、今度は向こうから半歩出てきた。待ち続ければ俺が何か変えてくると見たらしい。


 横から来た一撃を木剣で受け流すと、腕にずしりと重さが乗った。このまま押し返せば力比べになるので、触れた瞬間に木剣を外し、身体だけを横へ抜く。


 グレンの前足が出ていた。


 そこへ合わせて踏み込み、長柄武器の内側へ身体を入れた。


 木剣を胸へ向けるのと、グレンが柄を引き戻すのはほとんど同時だった。こちらの肩へ木の柄が伸びてくる。


 胸へ届く寸前で剣を止めた。


 グレンの柄も、俺の肩の手前で止まっている。


「……相打ち?」


 少し離れたところからリーネの声がした。


 グレンは数秒そのまま俺を見てから、武器を下ろした。


「いや。俺の方が遅い」


 俺も木剣を下ろす。


 最後に肩へ来た柄は、俺が踏み込んだあとで軌道を変えていた。実戦なら、わずかだが俺の剣が先に届いている。


「もう一度なら変わる」


「次は同じ入り方を使わせない?」


「当たり前だ」


「だよな」


 一度通じたからといって、何度も同じ手が使える相手ではない。


 リーネがこちらへ近づいてくる。


「結局、どっちが強いの?」


「アレンだ」


 グレンが迷わず答えたので、リーネの方が少し驚いた。


「そんなすぐ決めるんだ」


「聞かれたから答えた」


「でも、今ほとんど同時だったよね」


「訓練だ。場所も人数も変われば別になる」


 それには俺も同意だった。今の条件なら俺の剣が先に届いた。それだけで、どんな場所でも同じ結果になるわけではない。


 グレンが俺の持つ木剣へ目を落とした。


「腕は分かった」


「報告だけじゃ分からなかった?」


「五人を斬らずに止めたという話は聞いた。実際に見たのは今が初めてだ」


「なるほど」


「思っていたより静かに入るな」


「もっと強引に来ると思ってた?」


「ああ」


「グレンも、もっと振り回すと思ってた」


「入られるだろ」


「途中で分かった」


 見た目だけなら、大柄な身体と長柄斧を使って正面から押す戦士に見える。


 けれど実際に向かい合って印象に残ったのは、力より武器の扱い方だった。遠ければ先端を使い、俺が詰めれば柄を滑らせ、さらに近づけば反対側まで攻撃に使う。長柄武器の懐へ入ったつもりでも、そこがそのまま安全な場所にはならない。


 さっき二人を相手にしていた時も同じだった。相手との距離が変わるたびに大きく構え直すこともなく、持つ場所と使う部分だけを変えていた。


 あれだけ大きな武器を持ちながら、近づかれること自体を失敗にしていない。


「白金級って聞いても、昨日まではいまいち分からなかったけど」


 リーネが俺とグレンを見比べる。


「少し分かった気がする」


「俺だけ見て決めない方がいい。白金級でも戦い方は全然違う」


「昨日もそんなこと言ってたね」


「じゃあ覚えてるじゃないか」


「覚えてるよ。話で聞くのと、実際に見るのは違うってこと」


 昨日、山から戻りながら話したことを思い出しているらしい。王国の冒険者等級そのものにはまだ馴染みがないはずだが、聞き慣れない制度だからこそ興味があるのだろう。


「じゃあ、もう一回やったら?」


「やらん」


 グレンはすでに訓練用の武器を戻し始めていた。


「まだ聞いてないよ」


「聞くつもりだっただろ」


「まあね」


 リーネが笑う。


「昼から施設だ」


「分かってるって」


 俺も木剣を武器掛けへ戻そうとしたところで、さっきグレンに教えられていた二人のうち一人が近づいてきた。


「あんた、かなり強いんだな」


「一応、そういう仕事だからな」


「あれでもグレンが負けるのか」


「今の条件ならな。実戦なら何があるか分からない」


「そういうもんか」


 納得したような、していないような顔で戻っていく。


 初日に施設の外で武器を向けられたことを思えば、随分と普通に話されるようになったものだ。


     ◇


 広場を離れようとしたところで、坂の下からフィアナが歩いてきた。


 診療所から戻る途中らしく、小さな布袋を抱えている。俺たちの前まで来ると、まずグレンの持っていた長柄武器を見て、それから俺の服についた土へ視線を移した。


「何してたの?」


「少し訓練。グレンと」


「怪我は?」


「してない」


「当ててない」


 グレンが横から補足すると、フィアナは俺の腕や肩を確かめるように見てから、今度はグレンへ目を向けた。


「グレンも大丈夫?」


「問題ない」


「ならよかった」


 それだけ確認すると、少し安心したように表情が緩んだ。


「診療所は終わった?」


「今日は午前だけ。施設から戻るのが早かったら、夕方にもう一度顔を出すつもり」


「俺も一度戻る」


「鹿、まだ残ってるよ。朝に少し焼いておいたから」


 そう話していると、リーネも横から顔を出した。


「今日も鹿?」


「まだあるから」


「昨日結構食べてたよね」


「リーネもでしょ」


「あ、そうだった」


 昨日の夕食は結局三人になった。借りた家の小さな炉で鹿肉を焼き、リーネが持ってきた根菜まで一緒に煮たせいで、思ったより量が多かった。


「昼から来るよね?」


 リーネが俺に聞く。


「施設?」


「うん」


「そのつもり」


「じゃあ後で」


 リーネは午後の調査まで広場に残るらしく、俺とフィアナは二人で坂を下った。


     ◇


 家へ戻ると、朝のうちに焼いてあった鹿肉とパンを並べた。


 窓を少し開けておけば、外を通る人の声と遠くの鍛冶場から響く音が入ってくる。昨日は三人だった食卓も、今日は俺とフィアナだけだった。


「診療所、どうだった?」


 肉を切りながら尋ねる。


「昨日よりは少なかったよ。熱があった子も、一人はもう下がってた」


「もう一人は?」


「まだ少し。でも食べられてるから、今のところは大丈夫そう」


「腰の人は来た?」


 フィアナが苦笑する。


「来なかった。代わりに孫が来て、『朝から山羊のところにいる』って」


「リーネの言った通りだな」


「夕方まで痛がってたら連れてくるって言ってたよ」


 北方へ飛ばされてきたばかりの頃には、ここで普通に昼飯を食べながら診療所の老人の話をすることになるとは思っていなかった。


 それでも午後には、またあの施設へ入る。


 皿の上の肉が半分ほどなくなった頃、そのことを考えているうちに、ここ数日ずっと頭の片隅にあったものが戻ってきた。


「フィアナ」


「うん?」


「王都で起きたこと、ヴァルドたちにもう少し話した方がいいと思う」


 パンをちぎっていた手が止まり、フィアナがこちらを見る。


「……あの時のこと?」


「ああ」


 ラウネへ来た日に、王国側でも黒い獣を見たことがあり、実際に戦ったことまではオルザたちへ伝えている。


 けれど、それだけでは足りない。


 あの日、王都では各所に魔物が現れた。数も多く、普通なら街の中で見るはずのないものまで混じっていた。そこへ黒い獣が加わり、少なくとも俺たちが戦った場所には、人の形をした巨大な黒い存在まで現れた。


 街のあちこちで戦闘が続き、軍も冒険者も大きな被害を受けた。俺たちの近くにいた人間だけを見ても、無傷で済んだ者の方が少なかった。


「魔物のことも話す?」


「話した方がいいと思う」


 王都の地下で見た光景を思い出す。


「施設の中で、液体の入った槽に魔物が入ってるのは見た。だから無関係だとは思ってない。ただ、王都に出た魔物が全部そこから出たのか、どういう仕組みで外へ出たのかまでは分からない」


「そうだね。あそこにいたのは私も見た」


「黒い獣だけの話にするのも違うしな」


「うん。それに、あの大きいやつも」


 フィアナの表情が少し硬くなる。


「光を撃ってきたやつ」


「ああ」


 黒い外殻をまとった、人の形をした大きな存在。


 頭部から放たれた光は石の壁さえ抉り、まともに受ければどうなるかは考えるまでもない。俺たちが戦った一体だけでも十分に危険だったし、そいつがいる間、黒い獣の動きがそれまでとは違って見えた場面も覚えている。


「黒い獣を動かしてたって話す?」


「そう見えた、までだな。仕組みは分からないし、普通の魔物まで同じだったかも分からない」


「そこは分けた方がいいね」


「ああ」


 フィアナは少し考えながら、話す内容を一つずつ確かめていく。


「王都でたくさんの魔物が出たこと。施設の中で魔物が入った槽を見たこと。黒い獣も何頭も出て、人の形をした大きな黒いやつもいたこと。それから、黒い獣の動きが変わったように見えたこと」


「あと光の攻撃だな。あれは知らないまま出会ったら危険すぎる」


「うん」


 そこにはフィアナも迷わなかった。


 初日に相手の立場も分からないまま、王都で知ったことを全部話すつもりはなかった。けれど何度か一緒に施設へ入り、ヴァルドたちが何を基準に判断しているのかは少しずつ見えてきている。


「グレンは危ないと思えば止めるし、ヴァルドも状況を見ないで先へ進める人じゃない。オルザも……最初に思ってたよりは手順を守ってる」


「思ってたより?」


「もっと勝手に奥へ行きたがる人かと思ってた」


「私もちょっとだけ思ってた」


 フィアナも同じだったらしく、少し笑った。


「ここの施設にも同じものがあるかは分からない。でも、似たものが出てくる可能性を考えるなら、知らないまま入ってもらう方が危ない」


「そうだね」


 フィアナはパンを皿へ戻し、今度は少し声を落とした。


「じゃあ……私たちに出た文字は?」


 やはりそこだった。


 王都地下でフィアナの前に現れた表示と、俺が触れたあとに変わった文字。そして北方へ移される直前に出たもの。


「そこまでは、まだ話さなくていいと思う」


「私もそう思う」


 フィアナがわずかに息を吐いた。


「隠したいっていうより、私たちにも何なのか分かってないから」


「ああ。聞かれても説明できないし、王都で確認した危険を伝えるのとは別の話だ」


「オルザなら知ったら絶対聞くよね」


「たぶんな」


 それは簡単に想像できて、二人で少し笑った。


 古代文字が読めると分かった初日から、オルザの質問は途切れない。ただ、その興味だけで危険な設備へ勝手に手を出すようなことは、この数日見ていなかった。


「ラウネへ来た日に同じことを聞かれてたら、たぶん私はもっと話したくなかったと思う」


「俺もだ」


 今でも全部を信用しているわけではない。


 ヴァルドが王国との和平に懐疑的なのも知っているし、オルザは今も施設を利用する価値があると考えている。それでも、何度か同じ道を歩き、同じ施設へ入り、何を危険と見て、どこで止まる人たちなのかは少しずつ分かってきた。


「話すなら、私も一緒にいるよ」


「そのつもりだ」


「アレンだけが決めたみたいになるのも変だしね」


「ああ。あの場にいたのは俺だけじゃない」


 フィアナは残っていたパンを手に取り、少し考えてから続けた。


「今日の調査が終わってから?」


「ヴァルドにも聞いてほしい。グレンとオルザ、それにリーネもいた方がいいと思う」


「じゃあ、戻ってから頼もうか」


「そうしよう」


 話す範囲を二人で決めてしまうと、それ以上迷うことはなかった。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃、俺たちはラウネを出た。


 山道を二時間ほど歩くのも、これで何度目かになる。足場の悪い場所や沢を避けるところくらいなら俺にも覚えができてきたが、先頭は今日もリーネに任せている。


 その後ろをオルザと二人の調査員が歩き、俺とフィアナが続く。グレンは最後尾寄りにつき、ときどき後方や斜面へ視線を向けていた。


 朝にあれだけ動いたあとでも歩みは変わらない。


 さっきの模擬戦で見たものが残っているせいか、長柄斧を背負って山道を歩く姿にも目が行った。訓練の時と同じで、足場が狭くなっても大きな身体を持て余す様子はなく、岩や木を避ける時も長い武器が邪魔になっていない。


 俺が見ていたことに気づいたのか、グレンがこちらを向いた。


「何だ」


「いや。武器が長い割に、山でも邪魔にならないんだなと思って」


「邪魔になる持ち方はしない」


「それもそうか」


「前を見ろ」


「分かった」


 前方でリーネが振り返り、何の話かとでも言いたげにこちらを見たが、そのまま歩き続けた。


 やがて施設のある岩山が木々の間から見え始める。


 入口の見張り場には二人の戦士が残っており、夜から昼まで外側で変わったことはなかったらしい。グレンが短く報告を聞き、全員で内部へ入った。


 最初の部屋は、俺とフィアナが現れた日から変わっていない。


 壁の一部には弱い光が残っているものの、あの時のような表示は出ておらず、床にも新しい変化は見当たらない。


「フィアナ」


「うん」


 声を掛けると、フィアナは部屋の奥へ意識を向けるようにしばらく黙った。


「昨日までと同じ。何かある感じはするけど、強くはないよ」


「分かった」


 グレンにも聞こえていたらしく、一度だけ頷いた。


 今日は新しい区画へ進むのではなく、ここ数日で確認した場所をもう一度回り、朝までに整理した記録と表示を照らし合わせる予定だった。


 少し奥へ進み、最初の表示の前でオルザが帳面を開く。


「ここだ。三十二年前と、その九年後に同じ形が記録されている」


 俺は壁に残る文字を追った。


「……『補助照明、停止』だと思う」


「やはり照明か」


「たぶん。ただ、どこの照明を指してるのかまでは書いてない」


 オルザが帳面の別の箇所を指で追う。


「三十二年前の記録では、この表示が出た翌日に南側通路の照明が消えた。九年後も同じだ」


「なら関係はありそうだな。ただ、この文字だけでは南側だとは言えない」


「分かった」


 オルザは俺の言葉をそのまま書き足し、表示の写しに印をつけた。


 こうした作業が、この数日でかなり増えている。


 俺が読めることで古い記録の意味が分かる場合もあれば、文字だけでは何を示しているのか判断できず、オルザの持つ記録がなければ用途の見当さえつかない場合もあった。


 少し先で、別の表示を見せられる。


「これは?」


「……『接続待機』だと思う」


 答えると、オルザが眉を寄せた。


「この表示が記録された時には、その日のうちに隔壁が閉じている」


「接続できる相手がなくなったから閉じたのかもしれない。ただ、それは推測だ」


「接続する相手が何なのかも分からんか」


「ここには書いてない」


 オルザはしばらく表示を見たあと、そのまま帳面へ視線を落とした。


「なら、そう残しておく」


 最初の頃なら「接続」という言葉だけでさらにいくつも聞かれたかもしれない。興味が薄れたわけではないのだろうが、この数日で俺が文字を読めることと、その先の仕組みまで分かることは別だと理解してきたらしい。


 分からないものを、分からないまま記録へ残している。


 その手元を見て、昼にフィアナと決めた話を先延ばしにする理由はないと思った。


 調査はその後も予定した範囲だけで続いた。


 グレンが先を確認し、調査員が現在の状態を書き留める。オルザは過去の記録と違う箇所があれば立ち止まったが、予定になかった奥の隔壁へ近づこうとはしなかった。


 フィアナの感じるものにも変化はなく、結局、その日は何も起きないまま確認を終えた。


「今日はここまでだ」


 まだ日が落ちるには早かったが、グレンがそう告げると、オルザも反対せず帳面を閉じた。


「十分だ。戻って今日の分を合わせる」


 来た道を引き返して外へ出ると、薄暗い施設に目が慣れていたせいか、午後の日差しが思った以上に眩しかった。


     ◇


 ラウネへ戻る山道をしばらく歩いてから、俺は列の後ろへ下がった。


 グレンがこちらを見る。


「何だ」


「戻ったら、ヴァルドに少し時間をもらいたい」


「施設のことか」


「ああ。王都で起きたことについて、まだ話してないことがある」


 グレンの視線が少し鋭くなった。


「危険に関わる?」


「関わると思う。大量の魔物や黒い獣が街に出て、俺たちが戦った場所には人の形をした大きな黒いやつもいた」


 数歩先を歩いていたリーネが振り返った。


 グレンも今度はすぐには返事をしなかった。


「今話せるか」


「話せる。ただ、ヴァルドとオルザにも聞いてほしい。フィアナも一緒に話す。リーネにも知っておいてほしい」


「分かった」


 グレンは前へ視線を戻した。


「戻ったら集める」


「頼む」


 それ以上は聞いてこなかった。


 少し前にいるフィアナへ目を向けると、こちらを見て一度だけ頷いた。


 木々の間から、ラウネの屋根が少しずつ見え始めている。


 王都の通りへ溢れた魔物。施設の槽に収められていた個体。黒い獣との戦闘。そして、人の形をした黒い巨体の頭部が白く光り、石壁まで抉った光景。


 あの日に見たものを、ただ「黒い獣と戦ったことがある」という一言だけで済ませるには、俺たちが知っている危険は多すぎた。


 俺はフィアナたちの後を追い、ラウネへ続く坂道を下っていった。

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