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第88話 山の一日

 ラウネへ来て、四日目になった。


 最初に施設へ入り直してからも二度調査に同行したが、今のところ大きな異常は起きていない。その代わり、オルザが長年集めてきた記録と施設内の表示を照らし合わせる作業は、俺が加わったことで少しずつ形になり始めていた。


 意味の分からないまま写されていた文字の中には、区画名や設備の状態を示しているだけのものもある。一方で、文字そのものは読めても何を指しているのか分からず、過去の記録と合わせてようやく用途の一端が見えるものもあった。


 俺が表示を読み、オルザが該当する記録を探し、調査員たちが現在の状態を確かめる。


 その流れができてからは、一つの表示に何時間も掛かることは減った。それでも手を出せない設備は多く、読めた単語だけで判断できないものについては、これまで通り触れずに残している。


 オルザもそこを急かしはしなかった。


 むしろ解読できる表示が増えたぶん記録の整理が追いつかなくなり、昨日は日が傾くまで帳面を何冊も広げ、調査員と内容を突き合わせていた。


 そのため今日は施設へ入らないことになった。


「昨日までの分をまとめる。中は見張りだけでいい」


 朝、ヴァルドの家でグレンからそう告げられる。


「分かりました」


 答えると、グレンがわずかに眉を寄せた。


「アレン」


「何ですか?」


「それだ」


「それ?」


「その話し方だ。いつまで続けるつもりだ」


 一瞬、何を言われているのか分からなかった。


「普通に話してるつもりですけど」


「だから、それをやめろと言ってる」


 グレンは面倒そうに言ってから、机の上に広げられた記録へ片手を置いた。


「ラウネじゃ、年が上だから、役目が上だからといって、いちいち話し方を変えん。必要なら役目で呼ぶ。それで十分だ」


「そういうものなのか」


「今の方がまだ自然だ」


 言われてみれば、この数日、リーネだけでなくグレンもヴァルドも、俺たちに対して口調を変えたことはない。


 王国では年上や役職のある相手に言葉を選ぶのが普通だったから、特に意識せずそうしていた。


「何度も一緒に施設へ入ってるんだ。毎回そんな喋り方をされる方が面倒だ」


「なるほど……分かった、グレン」


「それでいい」


 グレンが頷く。


 隣で聞いていたフィアナが、自分を指した。


「……私も?」


「お前もだ」


「分かりまし――」


 途中まで言って、フィアナが口を閉じた。


「……分かった」


 グレンはもう用件が済んだらしく、机の上の記録へ視線を戻している。


 フィアナと目が合った。


「慣れるまで間違えそうだね」


「俺も今まで普通に使ってたからな」


「アレン、さっきもう普通に戻ってたけど」


「そうだった?」


「そうだったよ」


 フィアナが少し笑ってから、戸口へ目を向ける。


「じゃあ、私は診療所に行ってくるね」


「診療所?」


「昨日、手が空く日があったら手伝ってほしいって頼まれたの。治癒が使えるって分かったから」


「いつの間に」


「アレンがオルザと記録を見てる間」


 言われてみれば、ここ二日は施設から戻ったあとも記録を見る時間が長かった。


 俺にはこれといった予定がない。


 そう考えているところへ、戸口からリーネが顔を出した。


「暇?」


「ちょうど今、そうなった」


「なら手伝ってほしいんだけど」


 今日は施設へ入る時より軽い装備で、厚手の外套の下には革鎧を着けている。明るい金髪はいつものように後ろでまとめられ、腰には短い刃物が下がっていた。


「何を?」


「狩り。二人で行く予定だったけど、一人が鉱山の方へ回されたから」


「俺でいいのか?」


「歩けるし、荷物も持てるでしょ」


「なるほど、そこなんだ」


「獲物相手に白金級が必要なら、今日は行かないよ」


 確かにその通りだった。


 グレンは壁際に置かれていた俺の剣を取り、鞘ごとこちらへ差し出す。


「山へ出るなら持っていけ」


「今日はいいのか?」


「リーネが一緒だ。それに、外で丸腰にさせる理由もない」


 それだけ言うと、グレンはもう調査記録の方へ目を戻した。


「気をつけてね」


 フィアナが言う。


「そっちもな」


「私はラウネの中だから大丈夫。アレンは山なんだから、リーネの言うこと聞いた方がいいよ」


「そのつもり」


 俺が答えると、リーネが少しだけ笑った。


「じゃあ行こ。昼を過ぎるかもしれないから、水は持ってきて」


     ◇


 ラウネの東側から山へ入り、施設へ向かう道を途中で外れた。


 最初は細いながらも人が通った跡があったが、しばらく進むと地面を見ただけでは道なのかどうか分からなくなる。それでもリーネは迷わず、斜面の傾きや木の間隔を見ながら一定の速さで進んでいった。


「そこ、踏まない方がいい」


 前から声が飛んできて、下ろしかけた足を止める。


 乾いた枝が数本、落ち葉に半分埋もれていた。


「音か」


「うん。この辺は静かだから結構響くよ」


 横へ足をずらすと、リーネが一度振り返る。


「そういうのは分かるんだね」


「追跡や野営なら仕事でもやるから。ただ、獲物を持ち帰るための狩りはほとんど経験ない」


「なるほど」


 リーネはそれ以上聞かず、また先へ進んだ。


 少しして道の脇でしゃがみ込むと、湿った土に残る二つに割れた蹄の跡を指した。


「これ、何だと思う?」


 俺も横へ屈む。


「鹿かな」


「うん。いつ通ったかは?」


 そこまでは分からない。跡自体は崩れていないが、新しいと言われても昨日と言われても納得できそうだった。


「今朝?」


「これは昨日。夜露が入ってるから」


 リーネが跡の内側を示した。


「今朝なら、踏まれたところがもう少し濃く残るよ」


 言われてみれば周囲との違いはある。


 そこから少し進んだ場所では、低木の枝先が食いちぎられていた。


「こっちは今日」


「足跡だけを見るわけじゃないんだな」


「残ってるものは何でも見るよ。足跡が出ない場所の方が多いし」


 毛の引っかかった樹皮や押し倒された草の向きも教えられた。


 施設ではリーネが俺の読む文字を横から見ていたが、山では逆になる。俺にはただの土や枝に見えるものを、彼女は立ち止まるたびに意味のある痕跡として拾っていった。


「白金級でも知らないこと結構あるんだね」


 前を歩きながらリーネが言う。


「白金級は何でも知ってる人間じゃないからな」


「もっと何でもできるのかと思ってた」


「戦うだけなら俺の方が上だろうけど、ここで一人にされたらリーネの方がよほど役に立つよ」


「そこまで?」


「帰り道くらいは分かると思う」


「じゃあ、まだ大丈夫だね」


 軽く笑って、リーネは斜面の先へ視線を戻した。


     ◇


 山へ入って一時間ほど経った頃、リーネが速度を落とした。


 前方で木々が途切れ、その先に緩い草地が見える。彼女が手で合図したので、俺も声を出さずに木の陰へ入った。


 草地には鹿が二頭いた。


 一頭はまだ小さく、もう一頭は十分に育っている。大きい方は草を食べながら何度も顔を上げ、周囲を警戒していた。


 リーネが身を低くしたまま戻ってくる。


「大きい方だけにする。小さい方は逃がすよ」


「分かった」


「私が向こうへ回って、こっちへ出す。たぶん谷側へ逃げるから、この辺を抜けそうなら仕留めて」


「外れたら?」


「追わない。今日は一頭で十分だから」


 そう言いながら風向きを確かめ、斜面を大きく回り込んで森へ消えた。


 俺は鹿から見えにくい木の陰へ移り、逃げ道になりそうな隙間を見る。


 風に葉が擦れ、鳥の声が遠くで続いていた。


 やがて林の奥で枝がわずかに鳴り、鹿が顔を上げる。大きい方が斜面を蹴ると、リーネの読み通り谷側へ向かった。


 ただ、そのままでは俺の位置より少し上を抜ける。


 地面を崩せば止められるが、転ばせ方によっては脚を折る。進路の先へ弱い風を送り、草と低木をまとめて揺らすと、鹿はそちらを避けて向きを変えた。


 十分に近づいたところで踏み込み、首筋へ一度だけ剣を入れる。


 勢いのまま数歩進んだ鹿が斜面へ倒れた。


 息が止まったのを確かめていると、森の中からリーネが戻ってくる。


「今の、風?」


「ああ。足元を崩すよりいいかと思って」


 リーネは傷口を確かめてから頷いた。


「うん。これなら処理しやすい」


「土も考えたけど」


「転ばせると骨が折れることもあるから、今の方がいいよ」


「分かった。次もそうする」


「うん、よろしく」


 そう言いながら、リーネは腰の刃物を抜いた。


「最初の処理は私がやる。途中から手伝って」


「何すればいい?」


「まず見てて。切る場所だけ覚えて」


「了解」


 しゃがみ込んだリーネの手元を見る。刃を入れる位置も順番も迷いがなく、俺が何かするより、まず覚えた方がよさそうだった。


     ◇


 必要な処理を済ませ、持ち帰る分を二人で分ける。


 帰りは荷が増えたぶん歩みも遅くなったが、行きほど静かにする必要はなかった。


「南の冒険者って、倒した魔物はどうするの?」


 少し前を歩くリーネが聞く。


「依頼によるよ。素材になるなら使える部分を持ち帰るし、討伐の証明だけ取ればいいこともある」


「食べることもある?」


「食べられる種類なら。でも毎回じゃないな」


「じゃあ普段は何してるの?」


「護衛とか採取とか調査。魔物の討伐もあるけど、そればっかりじゃない。街にいる時は訓練してる日もあるし、仕事を受けないこともある」


「白金級になったら、ずっと難しい依頼ばかりになりそう」


「なったのは最近だし、そんな生活してたら長生きできない」


「じゃあ、暇な白金級もいる?」


「いるんじゃないか。俺も今日こうして鹿を運んでるし」


「確かに」


 リーネが笑った。


「リーネはラウネから出ることあるのか?」


「周りの集落ならよく行くよ。交易について北の氏族のところまで行ったこともある」


「南側は?」


「国境近くまで一度だけ」


「越えたことは?」


「ない。向こうへ行く理由もなかったし」


「まあ、普通はそうか」


 俺だって古代施設に放り出されなければ、北方の氏族領へ突然入ることなどなかった。


「でも南は見てみたい」


 リーネが続ける。


「何が見たいんだ?」


「大きい街。交易で来る人から聞くけど、ラウネとは全然違うんでしょ?」


「違うな。人の数からして比べものにならない」


「市場も?」


「王都なら店だけでも相当ある」


「一日歩いても街の端まで行けないって本当?」


「真っ直ぐ歩くだけならそこまでじゃないと思うけど、見て回るなら一日じゃ足りない」


「そんなにあるんだ」


 声に素直な驚きが混じる。


「俺も北のことは似たようなものだったよ」


「どういうこと?」


「氏族があって、盟主がいて、いろんな人が暮らしてる。それくらいはヴァレクから聞いて知ってた。でも、実際の暮らし方までは知らなかった」


 リーネは少しだけ振り返る。


「来てみてどう?」


「思ってたより普通」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


「微妙だなあ」


 二人で笑いながら、山道を下った。


     ◇


 ラウネへ戻った頃には、日が西へ傾き始めていた。


 獲物を共同の作業場へ運ぶと、近くにいた男たちがすぐに集まってくる。


「獲れたか」


「一頭」


 リーネが荷を下ろしながら答えた。


「仕留めたのはアレン」


 年嵩の男が俺を見る。


「兄ちゃんが?」


「最後だけだよ。見つけたのも追い出したのもリーネだから」


「傷は綺麗だったよ」


 リーネが鹿を示すと、男は傷口を確かめて頷いた。


「これなら十分だな」


「ほとんど言われた通り動いただけだけど」


「初めてならそれでいい。余計なことする奴の方が困る」


 そう言って笑う。


 周りにいた何人かも鹿を運ぶのを手伝いながら普通に声を掛けてきた。ここへ来た日に比べれば、随分と空気が変わった気がする。


 作業場を出ると、リーネが坂の下を見る。


「フィアナ、まだ診療所かな」


「行ってみるか」


 診療所はラウネの中央から少し外れた場所にある、周囲より大きめの平屋だった。入口の近くには乾かしている薬草が吊られ、中から話し声が聞こえる。


 戸口から覗くと、フィアナが年配の男の手に布を巻いていた。


「きつくない?」


「ああ、大丈夫だ」


「傷は閉じてるけど、今日はあまり使わないで。無理するとまた開くから」


「分かったよ」


 返事は素直だった。


 立ち上がった男がこちらに気づく。


「お、鹿が獲れたって聞いたぞ」


「もう知ってるのか」


「このくらいの集落ならすぐ回るさ」


 笑いながら外へ出ていった。


 フィアナがこちらを見る。


「おかえり」


「ただいま。忙しかった?」


「思ってたより人が来たよ」


 机の上には包帯や小さな瓶、乾かした薬草が並んでいる。


「治癒魔法をずっと使ってたわけじゃないけどね。小さい傷なら洗って手当てした方がいいし、何でも治してたらきりがないから」


「どんな人が来た?」


「薪割りで手を切った人と、足を捻った人。熱がある子が二人。それから腰が痛いっていう人」


「腰も治療した?」


「少し楽にはしたけど、原因が分からないからそれ以上はしてないよ。休んでって言っただけ」


「誰?」


 リーネが尋ねた。


「ボルさんって人」


「ああ」


 名前を聞いた途端、リーネが納得した顔になる。


「たぶん休まないよ」


「やっぱり?」


「明日の朝には山羊のところにいると思う」


 フィアナが困ったように笑った。


「じゃあ、また痛くなって来そうだね」


「来なかったら孫に言えばいいよ。たぶん連れてくるから」


「覚えておく」


 三人で診療所を出た。


 坂を上りながら、フィアナが思い出したように自分の髪へ触れる。


「今日、子どもに髪を触っていいって聞かれた」


「珍しいからだと思う」


 リーネがフィアナの銀白色の髪を見る。


「ラウネじゃほとんど見ない色だし」


「ずっと見られてたから、何かついてるのかと思ったよ」


「アレンの髪も珍しいよ」


「黒も?」


「いるけど多くはないかな」


「じゃあ二人とも目立ってるんだ」


 フィアナがこちらを見る。


「最初から目立ってただろ。施設から出てきたし」


「それは髪のせいじゃないね」


 リーネが笑った。


 家々の間を抜ける頃には、夕食の支度をする匂いが漂い始めていた。薪の煙に焼いた肉の匂いが混じり、斜面の下からは家畜を囲いへ戻す声が聞こえる。


「今日の鹿、アレンの分も回ると思うよ」


 リーネが言う。


「それはありがたいな」


「今夜食べる分なら、そのまま焼くのが一番早いけど」


 フィアナが少し考える。


「借りてる家で焼けるなら、私がやるよ」


「手伝おうか?」


「うん。リーネも一緒に食べる?」


「いいの?」


「もちろん」


 二人の間で夕食の話が進み、俺は荷物を持ったままその隣を歩いた。


 施設へ行かなかった一日は、思っていたより早く終わった。


 明日になれば、またオルザの記録を読むことになるかもしれない。それでも今日は山を歩き、診療所へ寄り、ラウネの人たちと話しているうちに日が暮れた。


 坂ですれ違う人の中にも、この数日で見覚えのある顔が増えている。


 帰る方法はまだ見つかっていないが、ここへ来た時ほどラウネを遠い場所には感じなくなっていた。

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