第86話 残された手順
翌朝、戸を開けると、ラウネはもう動き始めていた。
山に挟まれた集落へ朝日が届くにはまだ少し早く、東側の尾根だけが明るい。その下では白い息を吐きながら人々が行き交い、家々の間を縫う細い道では籠を背負った女が坂を下り、少し離れた囲いからは山羊の鳴き声が聞こえていた。
連れてこられた時よりずっと普通の朝に見えるせいか、ここがラウネで、俺たちは本当に北方まで来ているのだという実感がようやく追いついてきた。
「寒い?」
背後から出てきたフィアナが、肩掛けを寄せながら隣に立つ。
「王都よりはな。フィアナは?」
「平気。セレスにいた時も、このくらい寒い朝はあったし」
「そういえばそうか」
そんな話をしていると、坂の上から声が飛んできた。
「起きてた」
リーネがこちらへ降りてくる。
赤い外套の下には軽い革鎧を着け、明るい金髪は歩く邪魔にならないよう後ろでまとめていた。朝の冷え込みにも慣れているのか、俺たちよりずっと軽い足取りだ。
「寝てたら起こすつもりだった」
「まだそこまで信用されてない?」
「寝坊するかどうかは信用と関係ないでしょ」
「それもそうか」
リーネは俺とフィアナを見てから、家の中へちらりと目をやった。
「朝ごはんを食べたら出るよ。グレンとオルザはもう準備してる」
「施設まで二時間くらいだったよな」
「普通に歩けばね。今日は調査班から三人来る。記録を取る人と、普段あそこを見てる人」
ヴァルドの名前がないので聞いてみると、彼女は首を振った。
「ヴァルドはラウネに残る。何かあったらグレンが戻って報告する」
氏族長が毎回山へ入る必要はないのだろう。俺たちの扱いも施設の方針も決めた以上、現場はグレンへ任せるらしい。
するとリーネの視線が俺の腰元へ落ちた。
「それと、剣は返してもらえるよ。調査の間だけだけど」
「十分だ」
「私たちに向けなければね」
「五人で囲まなければ大丈夫だよ」
少し眉を上げたあと、リーネは意外にも笑った。
「それは、こっちも悪かった」
フィアナも横で笑う。昨日ならまだ棘が残っていたやり取りも、一晩経つと少しだけ違って聞こえた。
◇
朝食を済ませて合流すると、俺の剣を返してきたのはグレンだった。
「持っていけ」
鞘ごと差し出された剣を受け取り、腰へ戻す。
「いいのか?」
「中で何か出た時に、お前まで守る余裕はない」
「扱いが良くなったな」
「ここへ来た時は侵入者だった」
「今日は?」
「まだ客ではない」
低い声でそう言いながらも、グレンは剣を取り上げようとはしなかった。
完全に信用されたわけではない。それでも武器を持たせて構わない程度には、俺たちを見定めたらしい。
少し離れたところでは、オルザが革鞄へ何冊もの記録帳を詰め込んでいた。一冊でも相当重そうなのに、さらにもう一冊を入れようとしたところで、調査員の男が黙って鞄を取り上げる。
「まだ入る」
「重い」
「だから何だ」
「持つのは俺だ」
短いやり取りの末、オルザが不満そうに口を閉じた。
「それだけ持っていくんですか?」
フィアナが尋ねると、オルザは眼鏡を押し上げる。
「昨日、お前たちが現れた区画と外郭部に関係するものだけだ。今まで意味の分からなかった表示を読める者がいる以上、照合できるものは持っていく」
「読めるだけですよ」
「それで十分だ。仕組みまで分かるとは思っておらん」
言葉は素っ気ないが、少なくともこちらの説明は受け入れているようだった。
全員が揃うと、俺たちはラウネを出た。
最初は二頭の馬が並べそうな幅の山道を進む。左手には段々に下がっていく家並みがあり、その向こうには南へ続く谷と、小さな畑や家畜の囲いが見えた。
しばらく登った先で道が二つに分かれる。
片方はそのまま北へ、もう片方は東の山腹へ伸びていた。
「北へ行くと?」
「他の氏族の土地。もっと先まで行けば、大きい道にも繋がるよ」
リーネが北側を指す。
「盟主のいるところも?」
「方向はそっち。ここからはかなり遠いけど」
施設へ向かう道より少し広いその道を眺めていると、ヴァレクたちの顔が浮かんだ。
あの場で表示を見ていた以上、北方へ移動した可能性までは考えるだろう。だが、自分たちでさえここがどこなのか分かったのはつい昨日のことだ。向こうがラウネまで辿り着くには、相当時間がかかるはずだった。
「アレン?」
フィアナに呼ばれて前を見る。
「みんなのこと?」
「まあな」
フィアナも一度だけ北へ続く道を振り返った。
「探してるよね」
「たぶん。ガルドなら、探し始める前に王城で一騒ぎしてそうだけど」
「それはありそう」
笑いながら、フィアナが俺の隣へ歩調を合わせる。
分岐から東へ入ると道幅は徐々に狭くなり、森の中へ進むにつれて日差しも薄くなった。途中までは荷馬を使えるらしいが、岩場へ差しかかる頃には二人並んで歩くのがやっとになる。
やがて斜面の上へ組まれた見張り台が現れた。
二人の戦士がこちらを確認し、グレンと短く言葉を交わす。昨夜から入口周辺に変化はなく、音や光も確認されていないらしい。
そこからさらに進むと、見覚えのある岩肌が見えてきた。
山腹へ食い込むような入口。その周囲だけ自然の岩とは違って直線的に削られ、奥には灰色の壁が続いている。
改めて見ると、入口脇には大きな石材が積まれ、太い木材や鉄の留め具までまとめて置かれていた。
「これは?」
足を止めると、リーネもそちらを見る。
「昔の封鎖に使ってたもの。もっと中にもあるよ」
「入口まで物理的に塞いでたのか」
「そうみたい。今は一部を外してるけど」
オルザが振り返った。
「それについても記録がある。まずは中を確認してからだ」
百年以上も施設を封じてきたという話は聞いていたが、ただ扉を閉めて終わりというものではなかったらしい。
◇
施設へ入ると、外の風音が途切れた。
石とも金属ともつかない灰色の壁は相変わらず冷たく、通路の上部では白い光が一定の間隔で灯っている。
俺とフィアナが現れた部屋まで、グレンを先頭に全員で進んだ。
白い光に包まれたあと、気づけば立っていた場所。今は床にも壁にも変化はなく、静けさだけが残っている。
グレンは入口近くに二人を残し、自分でも部屋の周囲を確かめてからオルザへ頷いた。
「始めろ」
オルザが調査員から一冊の記録帳を受け取る。
「この区画について直接残っている記録は、百年以上前まで遡れる」
「百八十年前から全部じゃないんですね」
フィアナが聞くと、オルザは頁を開きながら答えた。
「そこまで都合よく残ってはいない。失われたものもあれば、古くなって写し直されたものもある」
王国側の記録も同じだった。
ただ、こちらには施設を監視してきた人間がいて、その時々に起きたことを残し続けている。
オルザが壁の一角へ歩み寄った。
黒い板のようなものが埋め込まれているが、今は何も表示されていない。
「ここには時折、文字が出る」
「何をすると?」
「何もしない。施設側で何かが変わった時に出るだけだ」
「いつ出るかも分からない?」
「分からん」
俺が黒い面を見る横で、オルザは記録帳を開いた。
「出た時刻、その前に何をしたか、その後に何が起きたか。読めない以上、それを残すしかなかった」
差し出された頁には、黒い面へ現れたらしい表示が形ごと丁寧に書き写されていた。
「この表示が出た時は、その先へ入るなと残されている」
記号を追っていくと、いくつか見覚えのある文字があった。
「……接続異常。その下は、隔離処理だと思います」
「隔離?」
「文字としてはそう読める。でも、何と何を隔離しているのかまでは分かりません」
オルザはすぐに別の頁をめくり始めた。
何枚か行き来したあと、一つの記録で指が止まる。
「百二十年ほど前だ。同じ表示が出た後、奥の隔壁が閉じ、その翌日まで向こう側から作動音が続いている」
さらに別の記録を開いた。
「こちらでは、この表示の後に外郭の照明が消えた」
「だから、その表示が出たら退避するようになった?」
「おそらくな。理由を理解していたわけではないが、同じ前触れの後に危険が起きるなら、次から近づかなければいい」
フィアナが記録帳を覗き込む。
「文字が読めなくても、そこまでは分かるんですね」
「分かる、という言い方は少し違う」
オルザは指先で古い頁を押さえた。
「意味が分からなくても、死なない方法は残せる」
その言葉に、俺はもう一度記録を見る。
俺には表示の意味が分かる。
けれど、その後に何が起きるのかまでは読めない。
逆にオルザたちは文字そのものを理解できなくても、現象と結果を何世代にもわたって積み上げてきた。
「俺が読めるものと、こっちに残ってる記録。両方あった方がいいですね」
オルザが顔を上げる。
「当然だ」
「否定されるかと思った」
「なぜだ。私が知りたいのは、自分が正しかったと証明することではない」
そこで一度言葉を切り、記録帳へ視線を戻す。
「この施設で何が起きているかだ」
少なくとも今の言葉に嘘は感じなかった。
◇
その後も外郭のいくつかの区画を見て回った。
ハルヴァが日常的に利用している範囲は、想像していたより狭い。壁沿いの照明やいくつかの扉、小さな保管室など、長年動作が安定していると確認された設備が中心だった。
「これは?」
オルザに示された表示へ目を向ける。
「補助照明……この辺りの灯りだと思います」
「やはりそうか」
「用途は分かってたんですよね」
「操作すれば灯りがつく。そこまでは文字が読めなくても分かる」
それを聞いて、俺は表示面から手を離した。
「やっぱり、俺が読めても急に使えるものが増えるわけじゃないですね」
「文字から用途を推測できるだけでも違う」
「でも、これが補助照明だと分かっても、どうやって光ってるのかは分からない」
「若造に何度も言われんでも承知している」
少し苛立った声に、横を歩いていたリーネが笑う。
「何だ」
「別に」
「お前も最近、私を無茶をする老人のように扱うな」
「最近?」
「リーネ」
「はいはい」
普段からこんな調子なのだろう。
少なくとも、記録にない設備へ片端から触れるような人物ではない。
その先の通路へ入ったところで、フィアナが歩みを緩めた。
「……少しだけする」
すぐに足を止める。
「何が?」
「あの感じ。でも昨日ほどじゃない」
「引っ張られる?」
「そこまではないよ。遠くで何か動いてるみたいな……そのくらい」
グレンがこちらへ戻ってきた。
「戻るか?」
「まだ大丈夫。でも、強くなったら言う」
「分かった。無理はするな」
オルザもフィアナを見ていたが、口を挟まずに頷いた。
フィアナの反応を確かめながら進むと、やがて通路の先を大きな隔壁が塞いでいた。
黒に近い灰色で、継ぎ目の少ない厚い壁。その脇には表示面があるものの、今は何も映っていない。
「ここから先は?」
「今日は行かない」
答えたのはグレンだった。
リーネが隔壁へ目を向ける。
「最近、向こうから音がするようになった場所の一つ。前は何年も静かだった」
「開ける方法は?」
「手順は残っている」
オルザが答える。
「でも開けない?」
「お前たちが現れたばかりだ。今日そこまで急ぐ理由はない」
思わずオルザを見ると、向こうも気づいたらしい。
「何だ」
「もっと開けたがるかと思ってました」
「私を何だと思っている」
「四十年以上ここを調べてる人」
「なら、四十年生き残っている理由も考えろ」
もっともだった。
横でリーネが吹き出し、オルザがそちらを睨む。
結局、その隔壁から先へは進まず、現在使っている範囲の記録を一通り確認したところで調査を切り上げることになった。
◇
施設の外へ出ると、山の冷たい風が思っていた以上に心地よかった。
見張り場の近くで休憩を取り、水と固いパン、干した肉を口へ入れる。
俺が岩へ腰を下ろしていると、リーネが隣へ来た。
「どうだった?」
「想像してたのとは違った」
「どんなの想像してたの?」
「もっと手当たり次第に動かしてるのかと」
「失礼だな」
「施設を使おうとしてるって話だけ聞けば、多少はな」
リーネは否定しかけて、結局口を閉じた。
「オルザも、昔は今より慎重だったよ」
「今でも十分慎重に見えたけど」
「最近は調べたがることが増えた。ずっと動かなかったものが反応するようになったから、今なら分かるかもしれないって思ってるんだと思う」
手にしたパンをちぎりながら、彼女は施設の入口へ目を向ける。
「リーネは?」
「私は……前は、使えるなら使えばいいと思ってた」
少し考えてから続けた。
「危ない場所に入らなければ問題はなかったし、オルザたちも長い間そうやってきたから。でも最近は、こっちが決めた通りに動いてない」
「朝には止まってた場所から、俺たちが出てきたしな」
「そう。あなたたちが何かしたわけじゃないのは分かってるけど、それでも今までとは違う」
分からないから警戒するリーネと、分からないから確かめようとするオルザ。
見ているものは同じでも、そこから先の考え方が少し違う。
「また来ることになりそうだな」
「今日の記録を見て、ヴァルドが決めると思う」
リーネは残ったパンを口へ入れ、施設から視線を外した。
「私は来るつもりだけど」
「見張りとして?」
「それもある」
「他には?」
「あなたが何を読むのか見たい」
「結局それか」
「気になるものは気になるから」
昨日よりずいぶん話しやすくなった。
少し離れた場所では、フィアナがグレンと話している。体調を確認されているらしく、フィアナが何度か頷くと、グレンもそれ以上は追及せず離れていった。
北方の戦士とフィアナが普通に言葉を交わしている光景にも、少しずつ違和感がなくなっている。
まだ、ここへ来て一日しか経っていないのに。
◇
ラウネへ戻ったのは、日が西の山へ近づき始めた頃だった。
朝より人通りが増え、俺たちが坂を下りていくと何人かがこちらを見る。警戒が消えたわけではないが、縄を掛けられて連れてこられた時のような張り詰め方は感じなかった。
ヴァルドへの報告はグレンとオルザが行うことになり、俺とフィアナは借りている家へ戻る。
椅子へ腰を下ろしたフィアナが、靴を少しずらして足を伸ばした。
「疲れた?」
「歩いたからね。でも平気」
「中では?」
「今は何も感じないよ」
「ならよかった」
俺も向かいへ座る。
今日見たものを思い返していると、フィアナが窓の外を眺めたまま口を開いた。
「オルザ、思ってたより普通だったね」
「本人に言ったら怒るぞ」
「アレンも同じこと思ったでしょ」
「まあな」
昨日の印象では、もっと施設そのものに取り憑かれているように見えた。
実際、興味が強いのは間違いない。だが、四十年以上ここを調べてきた経験も、残してきた記録も本物だった。
「今日の、ちょっと面白かった」
フィアナが言う。
「記録と文字が繋がったやつ?」
「うん。ずっと意味が分からなかったものが、少しだけ分かるようになるの」
「オルザ寄りになってない?」
「危ないことはしないよ」
「ならいい」
「アレンも楽しんでたでしょ」
「少しはな」
文字を読めること自体は、これまでも何度か役に立った。
けれど今日のように、意味だけでは足りないと実感したのは初めてかもしれない。百年以上残された記録がなければ、「隔離」という言葉を読めても、その先で何が起きるのか想像するしかなかった。
今日見た隔壁の向こうに何があるのかは分からない。施設が俺たちをここへ送った理由も、最近になって動きを変えた理由も同じだ。
それでも今日は、残された手順の範囲を確かめただけで終わった。
明日も同じように終わるとは限らないが、今はそれで十分だった。




