第84話 ハルヴァ氏族
山道を下り始めてから、しばらく経った。
両手を身体の前で縛られているせいで歩きにくいが、左脚はもうほとんど気にならない。ただ、岩の多い下り坂なので、踏み外さないよう足元だけは選んで進んだ。
隣を歩くフィアナを見ると、施設を出た直後より顔色は戻っている。
「頭は?」
「もうほとんど平気」
それなら今は問題なさそうだ。
先頭を歩く大柄な男は、ときどき後ろを確認する程度で、周囲の戦士たちも武器こそ持っているものの、必要以上にこちらへ近づいてはこない。俺たちが話していても止める様子はなかった。
俺の剣と予備の短剣は預けたままだ。
この人数を相手に、両手を縛られた状態から逃げるのは面倒だ。それ以前に、施設の場所も王都へ戻る方法も分からない以上、今ここで逃げる意味がない。
少し前を歩いていた金髪の女が、またこちらを振り返った。
明るい金髪は肩より少し下まであり、全部を束ねず、一部だけを後ろでまとめている。赤を基調にした厚手の衣服に軽い革鎧を重ね、腰には短剣を鞘に収めていた。
視線が合っても、今度はすぐには逸らさない。
「何だ?」
「別に。見ていただけ」
「さっきから何度か見てるだろ」
「だから、見てるだけ」
女はそれ以上説明する気もないらしく、前へ向き直った。
施設の前では、俺が次にどう動くかを警戒していたはずだ。今はそれより、何者なのか見極めようとしているように見える。
しばらく進むと、道が二つに分かれた。
一方は谷へ向かってさらに下り、もう一方は山肌に沿って横へ伸びている。分岐の脇には木を組んだ小さな見張り場があり、中にいた二人の男が俺たちを見るなり立ち上がった。
「グレン」
その呼びかけで、先頭の男の名前が分かった。
「施設で何かあったのか」
「あとで話す」
グレンは短く答えると、金髪の女へ向いた。
「リーネ。先に戻ってヴァルドへ知らせろ。施設から南の人間が二人出てきた」
「分かった」
「こっちに死者はいない。それも伝えろ」
女は一度俺たちを振り返ってから頷き、山肌に沿った道を走り出した。
岩や木の根が多いのに速度がほとんど落ちない。戦った時にも動きは速かったが、山道では足を置く場所を探している様子さえなく、慣れた斜面を迷いなく駆けていく。
あの女はリーネというらしい。
フィアナも走り去る背中を見ていたが、特に何も言わず、俺たちはグレンに促されてそのまま下りを進んだ。
道の周囲に人の手が入った跡が増え始めたのは、それから間もなくだった。
切った薪がまとめて積まれ、斜面の一部には山羊が囲われている。荷を運ぶためなのか道幅も少し広くなり、崩れやすそうな場所には石を積んで補強した跡があった。
やがて山腹が開け、その先にまとまった数の建物が見えてくる。
もっと砦に近い場所を想像していたが、実際にあったのは普通に人が暮らしている集落だった。
家々の間には薪や樽が積まれ、どこかから一定の間隔で金属を打つ音が聞こえてくる。皮を担いだ男が道を横切り、籠を持った女が別の家へ入っていく。俺たちに気づいた子どもが足を止め、近くにいた大人の後ろへ隠れた。
目につくのは、長く尖った耳だった。
けれど全員ではない。
小さな角を持つ者もいれば、耳と角の両方がある者、見た目だけなら王国の人間とほとんど変わらない者まで同じ道を歩いている。
「思ってた感じと違うね」
フィアナが周囲を見ながら小さく言った。
「ああ」
俺も同じことを考えていた。
王都の地下で見たのは、北方中継点と読める表示だった。雪の残る山地に、長い耳や角を持つ人々が暮らしていることまで合わせれば、ここが北方である可能性は高い。
それでも、まだ確認したわけじゃない。
ただ、もし本当に北方なら、王国でひとまとめに「魔族」と呼んでいた言葉は、ずいぶん大雑把だったらしい。
目の前にあるのは武装した者だけの拠点ではなく、薪を割り、家畜を飼い、子どもが道を歩く普通の暮らしだった。
俺たちを見る視線は友好的とは言えない。警戒する者もいれば、遠巻きに睨んでくる者もいるが、グレンたちが連れているせいか、武器を手に近づいてくる者はいなかった。
集落の中央に近づくにつれて人が増え、その中でも少し大きな建物の前でグレンが足を止めた。
先に着いていたリーネが入口の脇に立っている。
「ヴァルドが待ってる」
グレンが頷き、俺たちへ振り返った。
「中でも勝手なことはするな」
「するつもりはない」
「ならいい」
建物の中へ入ると、外より少し暖かかった。
奥には何人かの男が待っていたが、その中で自然と目を引くのは中央に座る男だった。
肩より長い金髪の一部を細く編み込み、顎には同じ色の髭がある。長く尖った耳を持ち、深い赤を基調にした衣服の上には厚い毛皮が掛けられていた。見た目だけなら五十代半ばほどだろうか。
声を上げて威圧するような様子はないが、周囲の者の立ち位置を見れば、この男が中心なのは分かる。
その少し後ろには、さらに年上に見える男がいた。
長い銀白色の髪と白い髭に、細い眼鏡。服装は同じように赤を基調としていたが、戦士というより学者に近く、手元には大きな黒い表紙の本を置いている。
金髪の男がグレンを見た。
「報告を」
グレンは俺たちを見つけてからの経緯を簡潔に話した。
最初にいた五人と俺が戦ったこと、その後に自分たちが到着し、話をしたうえでここまで連れてきたこと。最後に、最初の五人にも死者はなく、刃物による傷はないと付け加える。
「間違いないか」
今度は金髪の男がリーネを見る。
「ない。全員動ける」
「傷は?」
「打ったところと、ひねった人がいるくらい。一人も斬られてない」
リーネの答えを聞いてから、男の視線が俺へ移った。
「名前を聞こう」
「アレン・クロイツ。王国の冒険者です」
「フィアナ・エルシェです」
隣からフィアナが続ける。
「ヴァルド・ハルヴァ。この氏族を預かっている」
やはり、この男が氏族長らしい。
ヴァルドは俺たちの手首へ目を落とし、そのままグレンを見る。
「武器は預かっているな」
「ああ」
「なら縄は外せ」
近くにいた何人かがわずかに反応したが、グレンは問い返さなかった。
後ろにいた戦士が俺とフィアナの縄を解いていく。自由になった手首を軽く回すと、縛られていた跡が少し残っている程度だった。
「武器はまだ預かる」
「構いません」
ヴァルドは頷くと、正面から俺たちを見た。
「王国の人間が、なぜ我々の施設から出てきた」
「その前に、一つ聞いてもいいですか」
ヴァルドが先を促すように顎を引いた。
「ここはどこです?」
「ハルヴァ氏族の領地だ」
「北方諸族連合の?」
「そうだ」
やはり北方だった。
地下で見た表示と、この山地の景色から予想はしていたが、これでようやく確かめられた。
フィアナを見ると、向こうも同じことを考えていたらしく、わずかに頷く。
ヴァルドが続けた。
「場所が分かったところで、今度はこちらに答えてもらおう。なぜ施設から現れた?」
「それは俺たちにも分かりません」
周囲の何人かの表情が変わったので、そのまま続ける。
「分かっているところまでは話せます。王都の地下にも古い施設があって、俺たちはそこを調べていました。途中で設備が動き出して、俺たち二人が光に囲まれたんです」
「何か操作したのか」
「少なくとも、俺たちは触っていません。そのあと、接続先が北方中継点だと読める表示が出て、光が強くなった。気づいた時には、そちらの施設にいました」
そこで、銀白色の髪の男が初めて顔を上げた。
「待て。今、何と言った?」
「北方中継点です」
「それが表示されていたのか」
「はい」
男の目が細くなる。
「誰がそう判断した」
「俺です」
「お前が?」
「そうですけど」
男はすぐには続けず、眼鏡の奥から俺を見た。
ヴァルドがそちらへ一度視線を向けたあと、話を戻す。
「グレンから、ヴァレク・ノルガの名を出したと聞いている」
「はい」
「知っているのか」
「王都で会いました。今日の地下調査にも一緒に入っています」
リーネがわずかに目を見開き、ヴァルドも初めて表情を変えた。
「ヴァレクが、王都の地下に?」
「はい」
「どういう経緯でそうなった」
俺は少し間を置いた。
ヴァレクが王都にいることは、施設を出たところですでにグレンへ話している。だが、どうして王都へ来たのかまで伝えていいかは俺には決められない。
「そこから先は、俺の判断では話せません」
「理由を聞いても?」
「あなた方とヴァレクがどういう関係なのか、まだ分からないので」
ヴァルドは俺から目を逸らさない。
「私が氏族長だと名乗ってもか」
「そこは疑ってません。ただ、ヴァレク自身の事情まで俺が勝手に話すのは違うと思います」
しばらく沈黙があった。
グレンも口を挟まず、ヴァルドの判断を待っている。
「分かった。今はそれでいい」
もっと問い詰められると思っていたが、ヴァルドはそれ以上求めなかった。
「ヴァルド」
銀白色の髪の男が口を挟む。
「そちらは後でも聞ける。先に確かめたい」
「オルザ、だろうな」
ヴァルドの返しに、男――オルザは否定しなかった。
膝の上に置いていた本を閉じ、俺へ向き直る。
「先ほど、施設の表示を読んだと言ったな」
「はい」
「古代文字が読めるのか」
「ある程度は」
「ある程度、とは?」
「書いてある言葉の意味が分かるくらいです。施設がどういう仕組みで動いているのかまでは分かりません」
オルザの眉がわずかに寄った。
「文字が読めても?」
「『扉』と書いてあるのが分かっても、鍵の中身までは分からないでしょう。それと同じです」
オルザは一度黙った。
納得できないというより、今聞いたことを頭の中で整理しているように見える。
「オルザ・レグンだ。古い記録と、あの施設について調べている」
そう名乗ると、黒い本の表紙へ片手を置いた。
「氏族には、施設の封鎖や異常について後世に残された記録がある。それを頼りに調べてきたが、施設そのものに使われている文字は読めない」
「誰も?」
「ああ」
横を見ると、リーネもこちらを見ていた。
施設の前から何度も向けられていた観察するような目に、今ははっきりと興味が混じっている。
オルザは眼鏡の位置を直し、少し身を乗り出した。
「北方中継点と出る前には、他にも表示があったのか」
「ありました」
「何と書かれていた?」
返事をする前に、フィアナへ一度目を向ける。
あの時の表示には、フィアナを指しているとしか思えないものもあった。
今ここで話すには、まだ相手のことを知らなさすぎる。
「その前に、こっちからも聞かせてください」
オルザが眉を上げる。
「何をだ」
「あなた方は、あの施設で何をしてるんですか?」
ヴァルドとオルザの視線が、同時に俺へ向いた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日執筆時間が取れたので臨時で投稿しました。




