第79話 空いた場所
主通路をさらに下るにつれて、床に残る死骸は少なくなり、代わりに灰色の壁そのものが変わり始めた。
これまでは継ぎ目の少ない平らな面が続いていたが、左右には同じ幅の窪みが一定の間隔で並び、その奥に閉じた扉が見える。床にも細い溝のような線が何本も走り、それぞれ壁際へ消えていた。
市の技術者がしゃがみ込み、溝の一つへ灯りを向ける。
「水路ではありませんね」
「何か通してたのか?」
ガルドが聞くと、技術者は溝の先へ視線を走らせた。
「そこまでは。ただ、傾斜がほとんどありません。排水だけを目的にしたものには見えません」
触れずに確認できる範囲だけ見て、俺たちは先へ進んだ。
やがて正面に、それまでより一回り大きな扉が現れた。
片側が途中で止まり、人が数人並んで通れるほど開いている。扉そのものに大きな損傷はないが、床には乾いた黒い跡が残り、そのまま奥へ続いていた。
「文字があるわ」
セレナに言われて左側を見ると、壁に埋め込まれた細長い面へ白い文字が残っていた。
BIOLOGICAL STORAGE SECTOR
その下には小さく、
SUSPENSION SYSTEM ACTIVE
とある。
「……バイオロジカル・ストレージ」
「何の区画?」
フィアナが聞いた。
「生き物を保管する場所、だと思う」
自分で訳してから、下の文字をもう一度追う。
「その下は……休止状態を維持する仕組みが動いてる、みたいな意味だと思う」
「まだ動いてるの?」
「そう書いてある」
答えながら扉の向こうを見たが、持ち込んだ灯りの届く範囲には何も動いていない。
ガルドが大剣の柄へ手を置いた。
「入る前に確認する。フィアナ」
「大丈夫。何も感じないよ」
「アレン、読めるものがあっても勝手に触るなよ」
「分かってる」
「オスカーもだ」
「なんで俺まで言われんだ」
「お前だからだ」
「信用ねえな」
「斧で壁叩いたやつが言うな」
オスカーが何か言い返しかけたが、結局黙った。
先頭をガルド、その後ろを俺と工兵が進み、セレナと市の技術者は少し距離を空けて続く。フィアナとヴァレク、その後ろに記録係たちが入り、オスカーは最後尾に残った。
扉を抜けて十歩ほど進んだところで、ガルドが止まり、俺もその横で足を止めた。
「……何だ、これ」
後ろから聞こえたオスカーの声も、それまでより低かった。
広い空間だった。
天井は主通路よりさらに高く、左右の壁は持ち込んだ灯りの外まで離れている。その暗闇の中に、巨大な透明の筒が規則正しく並んでいた。
一列ではない。奥へ向かって何列も続き、近いものだけでも十を超えている。ランタンを高く掲げると、その先にも同じ輪郭が次々と浮かび上がった。
筒の内部は淡く濁った液体で満たされ、外からの暖色の灯りを鈍く反射している。
そして、その中に何かがいた。
最も近い筒には、四本脚の獣が浮かんでいた。身体を丸めるようにして目を閉じ、長い角を頭の横へ伏せている。毛の一本一本まで残っているのに、液体の中で動く様子はない。
隣には鱗に覆われた大型の爬虫類、その次には太い前脚を持つ熊に似た魔物が沈み、さらに奥には俺の知っているどの魔物にも似ていないものまでいた。
腐っていない。骨にもなっていない。
王都へ出てきた魔物と変わらない姿のまま、液体の中に沈んでいる。
「……生きてるの?」
フィアナの声が小さくなった。
答える前に、筒の下部へごく弱い白文字が残っていることに気づく。周囲を照らすほどの明るさはなく、暗がりの中で表示だけがかろうじて読める程度だった。
SUSPENSION ACTIVE
VITAL CONDITION : STABLE
俺は文字を何度か目で追ってから、ようやく口を開いた。
「……休止状態を維持中。生命状態は安定、って書いてある」
誰もすぐには動かなかった。
フィアナが液体の向こうにいる獣を見る。
「じゃあ、本当に生きてるの?」
「少なくとも、この装置はそう判断してる」
前の人生で、似た形の装置を見た記憶はある。
だが、目の前にあるものがどうやって生き物を眠らせ、どれほどの期間その状態を維持できるのかなんて分からない。いつからここにいるのかも、俺には判断できなかった。
ただ、これほど古い施設の中で、目の前の装置が今も魔物を生かしたまま休止状態に置いている。それだけで十分に異常だった。
「こっちを見て」
セレナが少し先を指した。
一本の筒が割れている。
透明な外壁の半分が砕け、内部の液体はほとんど残っていない。床には乾いた跡が広がり、そこから四本並んだ爪痕が扉の方向へ続いていた。
隣も空で、そのさらに隣は筒そのものが台座から斜めに外れている。
市の技術者が慎重に近づき、触れない距離から内部を確認した。
「壊れたのは外からではなさそうです。少なくとも、この筒は内側から力を受けています」
「目が覚めて、自分で出たってことか?」
ガルドが聞く。
「そこまでは断定できません。ただ、この中にいたものが外へ出た可能性は高いです」
俺は床の爪痕を追った。主通路で見てきたものと同じだった。
「地上へ逃げた魔物は、ここから出たのかもしれない」
「ここだけとは限らないわ」
セレナが周囲を見渡す。
「見えているだけでもこれだけあるもの。ほかにも同じ区画があれば、数はもっと増える」
ガルドも奥へ目を向けたまま言った。
「王都に出てきた分で、全部じゃねえな」
改めて周囲を見ると、割れていない筒の方がはるかに多い。その中には、今も魔物が残っている。
「起こすなよ」
オスカーが低い声で言った。さっきまでの軽い調子は消えている。
「誰も起こす気はないわ。触れない。動かさない。記録だけ取る」
セレナも筒から目を離さず答え、記録係が位置と本数を書き留め始めた。
その間に市の技術者が壁沿いの設備を調べていたが、しばらくして奥から声を抑えて俺たちを呼んだ。
「こちらにも区画があります」
行ってみると、保存槽が並ぶ空間の端に、もう一つ大きな開口部があった。
扉は完全に開いている。その脇にも文字が残っていた。
SECURITY RESERVE
俺が読み上げると、ガルドが顔をしかめる。
「今度は?」
「警備用の……予備、待機区画って感じだと思う」
「嫌な名前だな」
「俺もそう思う」
入口から中へ灯りを向ける。
最初に見えたのは黒い塊だった。
一瞬、死骸かと思ったが、違う。
壁際に設けられた窪みの中で、黒い獣が四肢を折り畳むようにして収まっている。隣にも、その隣にも同じものが並び、頭部を低く伏せたまま、黒い外殻には何の光もない。
どの個体も、まったく動いていなかった。
反対側の壁には、人型が立っている。
王都で見た小型の黒い人型と同じものだ。両腕を身体の脇へ下ろし、背を壁へ沿わせた姿勢のまま、一定の間隔で並んでいる。
「……まだいるのかよ」
ガルドの声が低くなる。
俺も答えず、さらに奥へ灯りを向けた。
その光が、もっと大きな黒い輪郭を拾う。
天井近くまで伸びた人型。
細長い腕。
背中に並ぶ板状の構造。
顔の中央には、今は光っていない一本の縦溝。
「統制体……」
フィアナが呟いた。
一体だけではない。奥にもう一つ、同じ輪郭がある。
さらにその横には、見覚えのない形の黒い個体が並んでいた。
地面すれすれまで低い胴体から細い脚が何本も伸びたもの。別の窪みには、人型より幅の広い上半身と短い脚を持つ個体が、胸の前で腕を組むような姿勢のまま完全に停止している。
用途までは判断できない。
ただ、同じ黒い外殻と、個体ごとに規則正しく設けられた待機場所を見る限り、液体の中で保存されている魔物とは明らかに扱いが違っていた。
「アレン、表示は?」
セレナに言われ、入口近くにかすかに残る文字へ目を向ける。
SECURITY UNITS : STANDBY
DEPLOYMENT SYSTEM : DEGRADED
何度か読み直した。
「警備個体は待機中。展開する仕組みは……劣化してる」
「停止してる、じゃないのね」
「ああ。少なくとも、そうは書いてない」
ガルドが大剣から手を離さないまま、停止した黒い獣を見る。
「こいつら全部が動いたら、さすがに洒落にならんな」
「動かす理由を作らないことね」
セレナが答えた。
ヴァレクはずっと奥を見ている。
「北にも似た記録がある」
俺が振り返った。
「この区画が?」
「形までは分からん。封鎖を破った魔物の後から、黒い獣や黒い人型が現れたという記録だ。別々に記されている」
「魔物と警備する側が別だったってことか」
「そう考えた者もいた。確かめる手段がなかっただけだ」
目の前の配置を見ると、その考えには筋が通っているように思えた。
片側では、今も魔物が液体の中で休止している。
もう片側には、それとは別に黒い個体たちが規則正しい待機姿勢で収められている。
そして、それぞれの区画には空いた場所があった。黒い獣の待機場所、小型人型の窪み、統制体を収める巨大な固定枠。その一部だけが、不自然に空いている。
王都で俺たちが戦ったものがどこから来たのか、少なくともその一部については、答えが目の前にあった。
「ここで打ち切るか?」
オスカーが聞いた。
ガルドは保存槽と警備区画、それから俺たちが来た通路を順に確認した。しばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「この二つの区画にはこれ以上入らん。触ってもいないし、今のところ反応もない。退路も生きてるし、時間にもまだ余裕がある」
停止した黒い獣へ視線を戻した。
「予定してた地点までは、本線だけ見る。ただし、こいつらに一つでも変化が出たらその場で引き返す。帰りにここを通る時も同じだ」
「ここへ戻るまでの時間も決めておきましょう」
セレナが記録係の方を見る。
「予定を越えそうなら、その時点で切り上げるわ。奥で何か見つけても延長しない」
「それでいい」
ガルドが頷いた。
「フィアナも、少しでも変な反応が出たらすぐ言え」
「うん。今はまだ大丈夫」
記録係が条件を書き留め、市の技術者も保存区画の位置を図面へ落としていく。
俺は最後にもう一度、液体の中の魔物を見た。動く気配はないが、死んでいるわけでもない。
その向こうでは、黒い獣も、小型の人型も、統制体も、何の光も発さず停止したままだった。
王都へ出てきたものは、地下にいたすべてではなかった。
俺たちはまだ、その残りの横を歩いている。
今後は基本的に 1〜2話/1日(08:30/17:30) のペースで投稿させていただきます。
引き続き読んでいただけると幸いです。




