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第78話 遡行

 旧水路沿いの封鎖区画では、工兵たちが入口前の最後の確認を進めていた。


 崩れた路面の下には大きな開口部が口を開け、地下へ降りるための仮設の足場が組まれている。横幅は荷馬車がそのまま通れそうなほどあり、高さも場所によってはオスカーが戦斧を担いだまま歩けそうだった。その先では古い石積みと灰色の壁が重なり、朝の光も奥までは届かない。


 事件のあと封鎖と補強の手が入ったため、入口周辺の瓦礫は取り除かれていた。ただ、その先に何が残っているのかは、まだ分かっていない。


 俺は防具の革帯を締め直し、足元を踏み確かめた。左脚は歩く分にはもう問題ない。隣にいたフィアナがこちらを見ていたので、小さく頷くと、彼女も何も言わず地下へ視線を戻した。


 ガルドとオスカーは工兵から通路幅と補強箇所の説明を聞き、セレナは図面の写しを広げて市の技術者と話している。ヴァレクは少し離れたところに立ち、入口とその周囲を黙って眺めていた。


「アレン」


 後ろから呼ばれて振り返ると、ミラとユリウスがこちらへ歩いてきていた。


「来たのか」


「ここまでならね」


 ミラは弓を持っておらず、ユリウスも地下へ入る支度ではない。二人とも普通に歩けるところまでは戻っているものの、今日ここから先へ進まないことはもう決まっていた。


「なんか損した気分だな」


「何が?」


「最初に中を見るの、お前らだろ。戻ってきたらちゃんと教えろよ」


「何を?」


「中がどうなってたか」


「全部は無理だろ」


「じゃあ面白かったところだけでいい」


「調査に何を期待してるんだよ」


 ミラが横から呆れたように息を吐いた。


「ユリウスにはセレナの記録を渡せばいいんじゃない?」


「それは絶対長い」


 少し離れたところで図面を見ていたセレナが顔を上げた。


「聞こえてるわよ」


「ほら、もう怒られた」


「怒ってないわ。必要なことを残すだけ」


「その言い方だと余計に長そうなんだよな」


「じゃあ読まなくていいわ」


「それはそれで気になる」


「面倒ね」


「自覚はある」


 いつもの調子で返したユリウスの向こうから、今度はクラウディアとアルノルトが歩いてきた。


 二人とも自分の足でここまで来てはいるが、戦闘へ出る格好ではない。まだ傷が残っているのは見れば分かるものの、少なくとも療養場所から出て歩けるところまでは戻っているらしい。


「結構集まってるね」


 クラウディアが俺たちを見回した。


「クラウディアさんも来たんですね」


「しばらく自分では入れそうにないし、どんな場所かは気になるからね」


 アルノルトはその横を通り、開口部の奥へ視線を向けた。


「戻ったら、地下で見た地形を見せてくれ。東側の崩落と繋がるものがあるかもしれん」


「記録は全部持ち帰るわ。図面にない区画があれば、位置関係も残す」


「頼む」


 少し離れた補強材のそばでは、ザビーネが工兵と入口周辺を確認していた。崩れた石組みと支柱を見比べながら図面へ何かを書き込み、こちらに気づいてもすぐには手を止めない。


「ザビーネさんも来てたんですね」


「ここは私の持ち場よ。入口の監視と封鎖の確認をするわ。中で何か変化があったら、記録を残しておいて」


「分かりました」


 ザビーネは一度だけ頷くと、また工兵との話へ戻った。


「そういやアレン、お前聞いたか?」


 今度はガルドが、工兵との確認を終えてこちらへ声を飛ばしてきた。


「何を?」


「二つ名」


「……俺の?」


「ほかに誰がいる」


 初耳だった。白金へ上がった時にも、そんな話は聞いていない。


「昨日ギルドに寄った時にな。いくつか候補が上がってたらしいが、本部で決まったそうだ」


「何て?」


 ガルドが少し口元を上げた。


「『黒燕』。こくえん、だとよ」


「……黒燕」


 自分で口にしてみても、まだ誰か別の冒険者の名前みたいだった。


「あ、それになったんだ」


 ミラが言った。


「知ってたのか?」


「候補に上がってるって話は聞いたよ。事件のあと、そう呼んでる人が何人かいたから」


 ユリウスも頷く。


「まあ、後ろから見てたら分からなくもないな。お前、気づいたら位置変わってるし」


「気づいたらって何だよ」


「さっきまで右にいたのに、次に見たら左で剣振ってる」


「それはちょっと分かる」


 ミラも頷いた。


「一気に前へ出て、止まったと思ったら向きを変えて、また別のところへ入っていくから。後ろから見てると結構目で追うの大変だったよ」


「それで燕か」


「たぶんね」


 ガルドによれば、ほかにもいくつか呼ばれ方があったらしい。その中から実際に使われていた呼び名や、すでに登録されている二つ名との重複を見て、ギルドが『黒燕』を正式に選んだという。


「いいんじゃない、黒燕」


 クラウディアが言った。


「俺の戦い、直接見てないですよね」


「事件の時はね。でも訓練なら何度も見たよ。『黒燕』、悪くないと思うよ」


 そう言われても、まだ自分の名前の前につく感じはしなかった。


「地下じゃ飛べねえけどな」


 オスカーが巨大な戦斧を肩へ担ぎ直した。


「オスカーさんも、その斧をいつも通り振れないでしょう」


「振る場所くらい選ぶ」


「それならいいですけど」


「二つ名ついた途端に細けえな、黒燕」


「さっそく使わないでください」


「アレン、前から細かいよ」


 フィアナが横から言った。


「それはそう」


 ミラもすぐに同意する。


「そこは否定してくれてもいいだろ」


「なんで?」


 フィアナが本当に分からないという顔をしたので、俺は言い返す言葉を探すのをやめた。


 ガルドが笑いながら何か言おうとしたところで、市の技術者がこちらを呼ぶ。


「入口側の確認、終わりました。昨日補強した範囲にも変化はありません」


 それまで散っていた視線が、自然に地下へ向いた。


 開口部の奥から上がってくる冷たい空気は、話している間も変わらない。


 俺は防具の位置をもう一度確かめ、暗がりへ目を凝らした。


 ガルドが短く頷き、仮設の足場へ足をかける。


「行くぞ」


 先頭はガルド、そのすぐ後ろに俺が入った。セレナと市の技術者、フィアナを中央に置き、ヴァレクも前後から目の届く位置へ入る。工兵と記録・連絡担当が続き、最後尾はオスカーだ。


「気をつけてね」


 背後からミラの声が飛んできた。


 振り返ると片手を上げている。ユリウスもその隣から手を振っていた。


 俺も軽く手を上げて返し、そのまま足場を下りた。


 地上の明るさはすぐに弱まり、工兵の持つ灯りが壁を照らし始める。


 最初は古い石造りの水路だったが、少し進むだけで様子が変わった。


 石積みの一部が崩れ、その向こうから灰色の壁が露出している。後から造ったというより、もともと石造りの水路のさらに奥に別の構造物があって、事件の時にその境目が大きく崩れたように見えた。


 その足元には、大型の四足獣の死骸が横たわっていた。名前までは分からないが、背中まででも俺の胸ほどの高さがあり、片側の肩が大きく潰れ、腹には深い裂傷が走っている。


 数歩先では、別の魔物が壁際へ横倒しになっていた。そちらは首が途中から折れ、石壁に頭をぶつけたまま動かなくなっている。


「……結構いるな」


 俺が言うと、ガルドは足を止めずに答えた。


「あれだけ地上に出てきたんだ。途中で死んだやつもいるだろうよ」


 奥へ進むにつれて、死骸はさらに増えていった。


 通路の端には小型の魔物が折り重なるように倒れ、その横へ黒い外殻の破片が散らばっている。別の場所では、獣型の魔物が壁へ叩きつけられたまま死んでおり、床には深い爪痕が何本も走っていた。


 腐敗した臭いも徐々に強くなり、フィアナが口元を覆う。


「地上よりひどいね」


「逃げる途中でやられたんだろうな」


 俺は足を止めずに傷口へ目を走らせた。刃物で切ったような跡は少なく、身体を押し潰されたものや、何かに穿たれたもの、噛み裂かれたものが目立つ。


 地上で黒い獣と戦った時に見た傷に似ていた。


「こいつ」


 ガルドが少し先で立ち止まった。


 通路の端に、黒い獣が倒れている。


 外殻の一部が大きく剥がれ、前脚の一本が途中から失われていた。腹側には何本もの深い傷があり、そのすぐ近くには大型の魔物も死んでいる。


「魔物がやったのか?」


 オスカーが後ろから覗き込んだ。


「可能性はある」


 俺は黒い獣と、その隣の魔物を見比べる。


「地上じゃ黒い獣が魔物を追ってた。途中で反撃されたとしてもおかしくない」


「こいつ一体を倒せる魔物なら、そこそこ強えな」


「一対一だったとは限らないわ」


 セレナが周囲を見回すと、その先にも別の魔物の死体が転がっていた。


「ここだけで何体も死んでる。黒い獣も一体とは限らないし、どういう順番で戦ったかまでは分からないわね」


 ヴァレクも残骸へ目を向けた。


「北方の記録にも、似た状況は残っている」


「こういう?」


 フィアナが聞く。


「施設から逃げる魔物を、黒い獣が追っていたとされる場所がある」


「全部そうだったのか?」


 俺が聞くと、ヴァレクは首を振った。


「分からん。そう記録された場所があるだけだ」


 ガルドが再び歩き始め、俺たちも後を追った。


 通路は奥へ行くにつれて石造りの部分が減り、灰色の壁が広く露出していく。天井もかなり高く、場所によっては統制体が立ったまま通ってもまだ余裕がありそうだった。


「ここなら、あいつらも通れるな」


 俺が言うと、ガルドも上を見た。


「統制体か」


「ああ」


 王都で戦ったあの大型人型が、どこから現れたのかは分からない。


 ただ、この通路なら少なくとも通ることはできる。


「静かだね」


 フィアナが声を抑えて言った。


「ああ」


「何も感じない?」


 今度は俺から聞くと、フィアナは少し考えてから首を振った。


「今は大丈夫。頭も痛くないし、変な感じもしないよ」


「変わったらすぐ言ってくれ」


「アレンもね」


 一瞬だけこちらを見る。


「分かってる」


 それ以上は続けず、前へ視線を戻した。


 しばらく進んだところで、後ろから硬い音が響いた。


 全員が足を止め、俺も剣へ手をかけながら振り返る。


 オスカーの戦斧の柄が壁に当たっていた。


「……何やってるんですか」


「狭くなったんだよ」


「さっきまで十分広かったでしょう」


「さっきまでだ」


 確かに通路は少し細くなっていた。それでも、人間が歩くには十分すぎる幅がある。


 ガルドが前から振り返る。


「その斧で天井落とすなよ」


「落とさねえ」


「壁にはもう当ててましたけど」


 俺が言うと、オスカーが眉を寄せた。


「黒燕、お前さっきから俺に厳しくねえか?」


「その呼び方にまだ慣れてないんで、普通にアレンでお願いします」


「呼ばれりゃそのうち慣れる」


「そういう問題ですかね」


 そのやり取りを聞いていたヴァレクが、オスカーの斧を見る。


「その武器は、本当に地下で使うつもりなのか」


「敵が出りゃ使う」


「先に壁を壊しそうだが」


 オスカーがヴァレクへ顔を向けた。


「お前、案外言うな」


「埋まれば俺も困る」


「安心しろ。敵と壁くらい見分ける」


「壁が動かなければいいな」


 少し間が空いた。


「そういうのは今言うな」


 ガルドが呆れた声を出し、フィアナが小さく笑った。


 ガルドは前へ向き直り、俺も通路の奥へ視線を戻す。笑い声が途切れると、また足音と遠くの水音だけが残った。


 やがて、通路の右側に大きな窪みが見えた。


 灰色の壁が数歩ぶん奥へ引っ込み、その内側にもう一つ通路が続いている。主通路よりはずっと狭いが、それでも人が二人並んで歩ける程度の幅はあった。


 その入口脇に、細い文字が刻まれている。


「待って」


 俺が足を止めると、セレナが横へ来た。


「文字?」


「ああ」


 工兵に灯りを近づけてもらい、並んだ文字を追う。


 MAINTENANCE ACCESS


「……メンテナンス・アクセス」


「どういう意味?」


 フィアナが聞く。


「点検や修理に使うための通路、みたいな意味だと思う」


「思う?」


 セレナが確認する。


「文字の意味は分かる。でも、何を整備するための通路なのかまでは書いてない」


「なら、そのまま記録して」


 セレナが記録係へ声をかける。


 市の技術者も入口を覗き込んだ。


「王都側の図面にはありません」


「本線とは別か」


 ガルドが中を見る。


 灯りを向けても、奥までは見通せない。


「北にもこういう通路はあるのか?」


 俺が聞くと、ヴァレクは少し考えた。


「似たものはある。ただし、同じ用途だったかは知らん」


「中に何があるかも?」


「分からん」


 即答だった。


 オスカーが戦斧を持ち直した。


「中を見りゃ少しは分かるだろ」


「場所だけ記録して、今ここで入る必要はないわ」


 セレナが言う。


「分かってる。先に本線だろ」


 オスカーがあっさり答えたので、フィアナがその巨大な戦斧へ目をやった。


「その斧を見てると、ちょっと不安になりますけど」


「お前ら俺を何だと思ってる」


「巨大な斧を持って地下に来た人です」


 オスカーが何とも言えない顔をした。


「黒燕、覚えとけよ」


「何をですか」


「そのうち助けてくれって言われても助けねえからな」


「それは困ります」


「じゃあ斧に文句言うな」


「壁に当てなければ言いませんよ」


「じゃあいい」


「いいんだ……」


 フィアナが小さく呟いた。


 ガルドは笑いながらも、脇道と主通路の両方から視線を外していない。


「先に本線を見る。この横道は位置だけ記録して、帰りに余裕があれば確認だ」


 市の技術者が図面へ印をつけ、記録係も位置を書き留める。


 全員が動き始めるのを待ち、俺は一度だけ脇道の暗がりを見てからガルドの後を追った。


 灰色の主通路は、その先も緩く地下へ下っている。床にはまだ魔物の死骸と、砕けた黒い外殻が点々と続いていた。


 あの日、魔物が地上へ逃れ、黒い獣がそれを追った道を、俺たちは今、逆に辿っていた。

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