第73話 それだけじゃない
中庭へ出ると、日が落ちかけていた。
建物の影が石畳の半分ほどまで伸び、治療の交代を終えた神官たちが、洗った布や桶を抱えて回廊を行き来している。まだ人の出入りは多かったので、俺たちは中庭の端を抜け、声が少し遠くなるところまで歩いた。
フィアナは何も聞かなかった。
俺が話したいと言ったから、俺が話し始めるのを待っている。
「エルンストに、エーベルさんのことを話したんだ」
「うん」
「最初にあの人型を逃がしたことも、そのあと南東で間に合わなかったことも」
フィアナの表情が少し曇った。
「エルンストさんは、何て?」
「俺が逃がした相手に殺された人がいることは消えないって。悔やむなとも言われなかった」
怒鳴り合った時の声が、まだ妙にはっきり残っている。
「でも、救った命までなかったことにするなって言われた。自分だって、俺が来なかったら死んでたって」
フィアナはすぐには何も言わなかった。
少しして、俺の顔を窺うように見る。
「それで、喧嘩になったの?」
「俺が腹立てた」
「エルンストさんも?」
「かなり」
思い返せば、あれほど声を荒げて誰かと言い合ったのは久しぶりだった。
「俺は、正しい判断だったって言われても、人が死んだことまで納得できるわけじゃないって言った。だったら自分は、腕を失ったことに納得してるのかって」
「……エルンストさんは?」
「できるわけねぇだろ、って」
あの時、初めてエルンストの勢いが止まった。
「だから、俺も同じだって言った」
そこで言葉が切れた。
フィアナは急かさず、俺の隣に立ったまま待っている。
「それで」
しばらくして、彼女が静かに口を開いた。
「その話をしてて、前の人生のことを思い出したの?」
「……ああ」
答えてから、少し違うと思った。
「いや。エルンストと話したからっていうより、エーベルさんが死んでからずっと重なってた」
「重なってた?」
「前の人生でも、似たことがあった」
そう口にした瞬間、雨の音を思い出した。
斜面から流れ続ける泥水と、半分潰れた家。湿った戦闘服が肌へ張りつく感触と、瓦礫の奥から返ってきた弱い声。
『……聞こえます』
「一人、家の下に取り残されてた。俺たちの道具じゃ、安全には出せなかった」
フィアナは黙って聞いている。
「大きな梁が上から押さえてて、無理に動かしたら全部崩れる状態だった。ちゃんと支える道具を持った別の班が来ることになってた」
「アレンたちは、そこに残らなかったの?」
「ああ」
あの時開いた地図と、肩につけた無線機から聞こえた声まで思い出す。
「別の場所に十八人いた。逃げる道が崩れかけてて、高齢の人もいて、そっちは俺たちが行かないと間に合わなかった」
「十八人……」
「一人を別の班に任せて、俺たちはそっちへ行った」
泥で割れた道路を渡る老人の腕を取ったことも、子供を抱えて足場の悪い場所を越えた隊員の背中も覚えている。
「十八人は助かった。最後の人が渡ったすぐ後に、道も崩れた」
フィアナが小さく息を吐いた。
その表情が緩みかけるより先に、俺は続けた。
「最初の人は助からなかった」
フィアナの目が俺へ戻る。
「俺たちが離れたあと、別の場所で土砂が流れて、救助に向かってた班が少し迂回することになった。その間に斜面が大きく崩れた」
瓦礫の奥にあった家は、戻った時には屋根すら見えなくなっていた。
「……戻ったの?」
「その日のうちに」
「その人は?」
首を横へ振った。
フィアナはそれ以上聞かなかった。
「後で全部調べられた。俺たちがそこを離れた時間も、次の班を呼んだ時間も、十八人を逃がし終わった時間も」
机の上に並べられた記録が浮かぶ。
『この判断を問題にする材料はありません』
「あの場に残ってても、俺たちの道具じゃ助けられなかった。斜面自体も危なくなってたし、俺たちが移動しなかったら、十八人の方は間に合わなかったかもしれないって言われた」
「……今回と似てるね」
「うん」
最初に人型を追わなかった時、俺の前には統制体と避難している人たちがいた。
追わなかった理由はある。警戒も流した。
それでも、後になって同じ人型がエーベルを殺した。
「でも、あの時とは少し違う」
「何が?」
「あの時は、俺がいないところで崩れた。戻った時には終わってた」
左脚へ意識を向ける。
普通に立っているだけなら、もう痛みはほとんどない。
「今回は目の前にいた。エーベルさんも、敵も見えてた。俺も走った」
最後の一歩で、脚が沈んだ。
剣先が黒い肩を掠め、その先で腕が振り下ろされる。
「あの時に追ってればって思うのと、あそこであと半歩届いてればって思うのが、頭の中にずっと残ってる」
「後悔してる?」
「分からない」
正直に答えた。
「最初の方は、今戻っても多分追わない。あの時は統制体を止めるしかなかった」
「うん」
「でも、最後の半歩は……もう少し何かできたんじゃないかって考える」
フィアナは俺の左脚へ一瞬だけ目を落とした。
「アレン、その時もう怪我してたんだよね」
「してた。でも走れた」
「走れても、いつも通り動けたわけじゃないでしょ」
「それも分かってる」
少し強く返してしまった。
フィアナは驚いた様子もなく、ただ頷いた。
「うん」
それだけだった。
言い返されないと、逆に自分の声だけが耳に残る。
「……ごめん」
「何が?」
「ちょっと言い方きつかった」
「別にきつくないよ」
フィアナは少し考えてから、回廊の柱へ背を預けた。
「その時の人のこと、今でも覚えてるの?」
「ああ」
「名前も?」
「覚えてる」
雨の中から聞こえた声も、一緒に残っている。
「救助を打ち切るわけじゃありません、って俺が言った」
自分でも、なぜそこまで話したのか分からなかった。
「その人は、分かりましたって答えた。それが最後に話した言葉だった」
フィアナの眉が少し寄った。
「十八人が助かったって分かってても、その声は消えなかったんだね」
「消えなかった」
その言葉には、不思議と何かを言い返す必要がなかった。
「前の人生でも、そういうことをしてたんだね」
「そういうこと?」
「人を助けに行ったり、誰を先に助けるか決めたり」
「……まあ、そういうこともあった」
「そっか」
フィアナはそれ以上は聞かなかった。
前回話した時も、俺が言わなかったことを無理に聞こうとはしなかった。
「でも、人を助ける側だったんだね」
「助けられなかった人もいる」
「うん」
返ってきたのは、それだけだった。
否定されなかったことに、少しだけ安心した自分がいる。
「エーベルさんも、そうなると思う?」
「多分」
道路図と測量道具、片方だけ落ちていた手袋が浮かぶ。
「忘れないと思う」
「そっか」
フィアナは少し俯いた。
「じゃあ、忘れなくてもいいんじゃないかな」
顔を向ける。
「それで苦しくても?」
「苦しくない方がいいとは思う。でも、忘れたら楽になるから忘れようって言われても、できないでしょ?」
「できないな」
「なら、今すぐどうにかしなくてもいいと思う」
言い切ったあと、フィアナは少し困ったように笑った。
「私、こういう時に何て言えばいいのか分からないし」
「十分だよ」
「本当に?」
「ああ」
エルンストに言われた時とは違って、何かを言い返す必要がなかった。
それだけで、少し楽だった。
しばらく二人とも黙っていると、中庭を抜ける風が少し冷たくなった。治療所から戻ってきた神官たちの声が遠くで聞こえ、空には夜の色が混じり始めている。
「地下のことも考えてる?」
不意にフィアナが聞いた。
「考えてる」
「入るんでしょう?」
「正式にはまだ決まってない。でも、調べることにはなると思う」
地上へ出てきた黒い獣と統制体、それとは別に動いていた小型の人型。地下に何が残っているのかを知らないまま、入口だけ塞ぎ続けるわけにもいかない。
「俺も、入ることになると思う」
「私も行く」
迷いのない返事だった。
「あそこはフィアナにも関係あるからな。神託のことも、施設の反応もある」
「うん」
「だから、そうなるとは思ってた」
「……それだけじゃないよ」
フィアナの声が少し小さくなった。
「何が?」
すぐには返事がなかった。
青いリボンの端が風に揺れ、フィアナはそれを直そうともせず、俺を見ている。
「アレンだけに、また全部背負わせたくない」
すぐには返事ができなかった。
「別に、一人で行くつもりはないよ」
「そういう意味じゃない」
珍しく、すぐに否定された。
「みんな一緒なのは分かってる。ガルドもセレナもいるだろうし、軍の人だって入ると思う」
「じゃあ――」
「アレンが一人で考えることの話」
言葉を止めた。
「エーベルさんのことも、今話してくれた人のことも、ずっと自分の中だけで考えてたんでしょ?」
「前のことは、まあ」
「今回のことも、私が聞かなかったら言わなかった?」
少し考える。
少なくとも、昨日までの俺なら話していなかったと思う。
「……多分」
「ほら」
責める言い方ではなかった。
フィアナは一度視線を落としてから、また俺を見る。
「あの夜も、アレンがどこにいるのか分からない時間があった」
「王都の?」
「うん」
フィアナは治療へ回り、俺は別の戦区へ動いた。最後には、どこまで伝令が届いていたのか俺自身も分からない。
「ミラとユリウスを治して、そのあとも怪我した人が次々来て……やることはずっとあったんだけど」
そこで少し言葉を探す。
「何度も、アレンはどこにいるんだろうって思った」
「俺も動き回ってたからな」
「うん。だから仕方ないのも分かってる」
フィアナはそう言いながらも、視線を逸らさなかった。
「あの夜、アレンがどこにいるのか分からない間、何度も、また怪我して戻ってくるんじゃないかって思った」
その言葉に、返事が少し遅れた。
「あとで、エルンストさんを助けに行ってたことも、南東でまた戦ってたことも聞いて……やっぱり、って思った」
「必要だったから」
「そういうところ」
少しだけ強い声だった。
「笑うところじゃないよ」
「笑ってない」
「ちょっと笑った」
「悪い」
フィアナは小さく息を吐いた。
「戻ってきたからいい、とは思えなかった」
その言葉には、すぐ返せなかった。
「治療所に運ばれてきた時、ちゃんと起きてたし、話もできてたけど……次も同じとは限らないでしょ」
「それはフィアナも同じだよ」
「分かってるよ」
今度ははっきりした声だった。
「私も無茶しないようにする。だから、アレンにも言ってるの」
何も返さずにいると、フィアナが一歩だけ近づいた。
「地下に行ったら、また何かあるかもしれない。アレンが判断しないといけないこともあると思う」
「それは俺だけじゃないよ」
「分かってる」
もう一度、今度は少しゆっくり言う。
「でも、アレンは自分で決めたことを、自分だけでずっと持ってるから」
返す言葉を探している間に、右手へ何かが触れた。
フィアナの手だった。
予想していなくて、反応が少し遅れた。
彼女の指が、俺の手を包むように握っている。
「……フィアナ?」
呼ぶと、わずかに視線を逸らした。
それでも手は離れない。
「だから、私も行く」
「それはさっき聞いた」
「もう一回言うの」
耳が少し赤く見えた。
夕日のせいだけではない気がしたが、そこを指摘するほど俺も余裕はなかった。
「フィアナが行く理由は分かったよ」
「本当に?」
「ああ」
「神託があるから、とかじゃなくて?」
「それだけじゃないんだろ」
フィアナがこちらを見た。
何か言いかけて、やめる。
「……うん」
俺もどうすればいいのか迷ったが、振りほどく理由はなかった。
握られた手へ、少しだけ力を返す。
今度はフィアナの方が驚いたように目を見開いた。
「何?」
「いや」
「フィアナが握ったんだろ」
「そうだけど」
それ以上は、どちらも何も言わなかった。
手をつないでいた時間が長かったのか短かったのかは分からない。中庭を横切る人の気配が近づき、フィアナが先にゆっくり手を離した。
その指先が離れたあとも、右手にはまだ温度が残っている。
「戻ろうか」
「ああ」
回廊へ向かって歩き出す。
隣を歩くフィアナは、しばらく何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。




