第71話 残ったもの
「レナードは、最後まで次にどこから射つかを考えてたらしいわ」
ミラがそう言うと、寝台に横になっていたユリウスが顔だけをこちらへ向けた。
あの夜から二日が経っていた。
昼の治療交代に合わせてフィアナが休憩へ入り、ミラとセレナがユリウスの見舞いに来たところへ、俺とガルドも重なった。六人が一か所に揃うのは、統制体との戦いでミラとユリウスが後送されて以来だった。
ユリウスは左脇腹を深く裂かれ、肋骨まで傷めている。内臓への致命傷は避けたものの、まだ自分で起き上がることも止められていて、背中へ薄い枕を足してもらい、上半身をわずかに高くした状態で話していた。
ミラも右肩と脚の治療が続いている。短い距離なら歩けるようになったらしいが、右腕は大きく動かせず、寝台脇に置かれた椅子へ腰を下ろしていた。
「昨日、ハンナから聞いたのか」
ユリウスが尋ねる。
「うん」
ミラは膝の上に置いた左手へ視線を落とした。
「胸のあたりをやられて、屋根から落ちたあとも意識はあったって。もう立てる状態じゃなかったのに、統制体が頭を振った時に首と肩の隙間を見つけて、そこへ最後の一射を入れたらしい」
俺が中央連絡所で聞いたのは、その一射が撃破へ大きくつながったというところまでだった。
ミラは少し間を置いて続ける。
「矢が入ったところをハンナたちが狙い続けて、最後は前衛も一緒に押し切ったって。あの一射がなかったら、残ってた人数じゃ厳しかったかもしれないって言ってた」
「最後に何か言ってたの?」
フィアナが静かに聞いた。
ミラの口元が少しだけ緩んだ。
「『そこはもう使うな。西へ移れ』」
ガルドが低く息を吐いた。
「最後までそれか」
「ハンナも同じこと言ってた」
笑ったまま、ミラは少し俯いた。
「もっと何かあると思うじゃない。別れの言葉とか、誰かに何か伝えてくれとか。でも最後まで、ハンナが次にどこから射つか見てたって」
訓練場で何度も聞いたレナードの声が浮かんだ。
撃ったあとに同じ場所へ残らないこと、高所を使うなら降りる場所まで先に考えること。射線だけでなく、その次に自分がどこへ動くかまで決めておくこと。
「らしいな」
俺が言うと、ミラは頷いた。
「うん。腹立つくらい」
「そういや、俺とアレンも的役やらされたな」
ユリウスが言った。
「覚えてたんだ」
「忘れるか。こっちは訓練場の端から端まで走らされたんだぞ」
「止まると怒られてたもんね」
「射る方は楽しそうだったよな」
「楽ではなかったけど」
ミラが言い返し、ユリウスが笑いかけたところで顔をしかめた。
「……駄目だ。笑うと痛い」
「なら大人しくしてろ」
ガルドが言うと、ユリウスは寝台から片手だけ上げた。
「最初から大人しく寝てる」
フィアナが小さく笑う。その声につられるように、ミラの表情も少しだけ普段のものへ戻った。
「弓は?」
ユリウスが呼吸を整えてから聞いた。
「ハンナが拾ってくれたって。今はギルドで預かってるみたい」
「そうか」
ユリウスは短く頷いた。
しばらくして、今度はミラが俺を見た。
「アレンの脚は?」
「歩く分には問題ない。まだ走るのは禁止されてるけど」
「ちゃんと守ってる?」
「守ってるよ」
「即答するようになったね」
「前はしてなかったみたいに言うな」
「してなかったでしょ」
フィアナまで加わる。
「治癒師に言われたあとも動いてたよね」
「あれは動く必要があったから」
「そういうところ」
反論しかけてやめた。
椅子へ座ったまま、左足の裏へ少し力をかける。
今は床から返ってくる感触がある。
あの時だけ、それがなかった。
もう一度踏めるつもりで置いた足が沈み、届くはずだった剣が半歩だけ外れた。
視線を上げると、フィアナがこちらを見ていた。
「まだ痛む?」
「少し張るくらい。治ってきてる」
聞かれたことだけ答える。
フィアナは一度頷き、それ以上は何も言わなかった。
「せっかく揃ってるから、今分かってることだけ共有しておきましょう」
セレナが膝の上に置いていた紙束から一枚を抜いた。
「長く話すつもりはないわ。ユリウスもこの状態だし」
「助かる」
「地下の入口は、軍とギルドが引き続き監視してる。事件中に新しく開いた場所も、前から確認していたところも同じ。今は地上側の補強と封鎖が優先で、奥へ入った人はいない」
「新しく出てきたものは?」
ガルドが聞く。
「今のところ、大きなものは確認されてないわ。散発的に魔物が出た場所はいくつかあるけど、入口の警備で対処できてるみたい」
「なら、しばらくそのままだな」
「そのつもりみたい。地上の救助もまだ終わってないし、調査側も負傷者だらけだから」
セレナが紙へ視線を落とす。
「正式な調査はする。でも、今すぐ入る話にはなってない」
異論を挟む者はいなかった。
ユリウスは寝台から動けず、ミラも弓を引ける状態ではない。俺も走れず、ガルドにもまだ戦闘の傷が残っている。
フィアナも神殿の治癒師たちと交代しながら治療へ入り、決められた時間には休ませられていた。
「ザビーネさんは?」
フィアナが尋ねた。
セレナが一拍置いて答える。
「命に別状はないわ。意識もはっきりしてる。ただ、魔力回路の損傷がかなり大きいみたいね」
「魔力回路が?」
ユリウスの表情から軽さが消えた。
「結界を長時間維持したことで、一部が短絡したみたい。今は魔力を流すこと自体止められてる。無理に使えば、傷んでないところまで悪くする可能性があるって」
「どれくらいかかる?」
ガルドが聞く。
「まだ分からない。少なくとも、すぐ復帰できる状態じゃないのは確か」
ザビーネが封鎖を担当していた区画では、結界が持っている間にかなりの人数が避難できたと聞いていた。
本人がそこから動けば封鎖が崩れる以上、限界を感じたからと簡単に術を解くこともできなかったのだろう。
「地下の調査には参加しないの?」
ミラが聞いた。
「前へ出て魔法を使うのは無理。でも、記録の整理と封鎖方法の検討には入ってもらうことになってる」
セレナが図面の一部を指で押さえた。
「どの区画で何が漏れていたか、どの結界にどういう負荷がかかったか、何を遮った時に反応が変わったか。その場で維持していた本人にしか分からないことが多いから」
「寝たままでも仕事はするのか」
「本人がやるって言ってる」
ガルドが少し笑った。
「なら止まらんな」
「治癒師には止められてるけどね。資料を見る時間まで決められてるみたい」
その光景は想像できた。
「アルノルトさんは?」
俺が聞く。
「左肩と肋骨の傷がまだ重い。戦える状態じゃないけど、東区の記録整理にはもう口を出してるみたいよ」
「そっちも止まらないな」
「王都の白金級、そういう人ばっかりじゃない?」
セレナが言うと、ガルドが自分を指した。
「俺まで入れてないだろうな」
「王都常駐じゃないから除外してあげる」
「そういう問題か?」
話が少し逸れたところで、フィアナがためらうように口を開いた。
「エルンストさんは?」
俺もセレナを見る。
あの時、エルンストの左腕は防具ごと大きく潰れ、ほとんど動いていなかった。
後送してから、詳しい状態は聞けていない。
「まだ治療区画にいる。左腕の処置が続いてるってことしか、私も聞いてないわ。今は面会も制限されてる」
「そうか」
詳しいことは分からない。それでも生きていることだけは確認できていて、今はそれ以上を急いで聞く気にはならなかった。
*
さらに四日が過ぎた。
傷を診てもらう回数は減ったが、走る許可はまだ出ていない。
左脚の張りはかなり薄くなり、長く歩いても翌日に残ることはなくなった。右肩や脇腹も、日常の動作ならほとんど困らないところまで戻っている。
王都の通りも、六日前とは少しずつ様子が変わっていた。
大きな瓦礫は主要道路から優先して運び出され、崩れた建物には補強材が組まれている。通行止めだった道の一部には人だけが通れる幅が作られ、水路が傷んだ場所では市の作業員が地面を掘り返していた。
ギルドから神殿へ戻る途中、道の脇で測量縄を伸ばしている職員が目に入った。
「そこから三歩下がって。割れてる石は全部外す」
「こっちまでか?」
「下の水路に乗ってる。残すとまた落ちるぞ」
足が少しだけ遅くなる。
道路図の横に転がっていた測量道具が頭に浮かんだ。
左脚へ力を入れ、歩調を戻す。
職員たちはこちらを見なかった。
エーベルがいなくても、市の仕事は続いている。
分かっていたことなのに、こうして同じ仕事をする人間を目にすると、胸の奥に残るものが少し形を持った。
神殿へ戻ると、宿泊区画の入口近くに見覚えのある長身が立っていた。
「クラウディアさん?」
「ちょうど良かった」
クラウディアは普段の実戦装備ではなく、動きやすそうな簡素な服を着ていた。治療を受けていることは分かるものの、どこをどれだけ傷めたのかまでは見た目だけでは分からない。
ただ、いつもより歩幅は狭く、向きを変える時にも普段より少し時間をかけていた。
「見舞いに来てくれたんですか」
「一応ね。ミラとユリウスのところには先に寄ってきた」
「クラウディアさんの方が見舞われる側じゃないですか?」
「それ、さっきミラにも言われたよ」
少し笑って、クラウディアは宿泊区画の談話室へ入った。
この時間は誰も使っておらず、俺たちは窓際の椅子へ向かい合って座った。
「脚はどう?」
「普通に歩く分には、ほとんど問題ありません。走るのはまだ禁止です」
「なら今はそれを守って。あの加速と切り返しは、脚が戻ってからでいい」
「はい」
「急いで試して、また治療をやり直す方が遠回りだから」
訓練場で何度も聞いたのと同じ調子だった。
「クラウディアさんは?」
「私もまだ駄目。剣を振る許可は出てないよ」
「三体相手でしたもんね」
「一体ずつなら、もう少しましだったんだけどね」
軽く言ったが、実際の北東がそんな程度で済む戦場ではなかったことは知っている。
「北東の避難者は、全員抜けられたって聞きました」
「私が着いてから動かした人たちはね。最後の列まで通したよ」
「避難中の死者も出なかったんですよね」
「うん。兵士と冒険者にはかなり怪我人が出たけど、避難列は通せた。今回は間に合ったよ」
「今回は?」
聞き返すと、クラウディアは頷いた。
「いつもそうだったわけじゃない。現場へ着いた時には、もう助けられなかったこともあるし、助ける方を選んで動いている間に、別の場所で死人が出たこともある」
雨の中に埋まった家屋を思い出した。
そのあとに、南東の通りが続く。
「そういう時、そのあとどうしてたんですか」
クラウディアは少し考えた。
「考えたよ。今でも覚えてるものもある」
「同じような状況が来たら、また選べますか」
「人も時間も足りなくて、どちらかへ行くしかないならね」
俺は黙って聞いた。
「待っていれば両方助かるなら、その方がいい。でも、待っている間にもっと悪くなる現場もあるでしょう。そういう時は、その場で分かっていることを使って決めるしかないよ」
「後から、間違ってたかもしれないって思いませんか」
「思うよ」
今度はすぐに返ってきた。
「もっと早く気づけなかったかとか、別の人を回せなかったかとか、帰ってからなら別の手はいくらでも思いつく。でも、現場にいた時より人が増えるわけでも、時間が増えるわけでもないでしょう」
そこでクラウディアは少しだけ眉を下げた。
「ごめん。今のアレンには、あまり役に立たない話かもしれないね」
「いえ」
役に立つかどうかは、まだ分からなかった。
ただ、クラウディアほど強くなれば何も迷わずに済むわけではないらしい。
「今回のこと、聞いてますか」
「大まかには。南東で、市の人が亡くなったことも」
「俺が先に戦った人型でした」
「うん」
「最初に逃がした時も、最後に届かなかった時も、その時はそれしかできなかったって頭では分かってます。でも、それで終わらせていい気がしないんです」
クラウディアはしばらく俺を見た。
「終わらせなくていいんじゃない?」
予想していた言葉とは違った。
「忘れなきゃいけないわけでもないし、納得したことにする必要もないよ。次に似た状況が来た時、その人のことを思い出したっていい」
そこで一度言葉を切る。
「ただ、その時に何人いて、どこへ逃がせて、何を先に止めるべきなのかは見失わない方がいい。それまで見えなくなったら、次の人を助けられなくなるから」
次に似た状況へ立った時、エーベルの顔はたぶん浮かぶ。
それでも、目の前に何があるのかを見ることまでやめるわけにはいかない。
「ありがとうございます」
「私は何も解決してないけどね」
「それでいいです」
クラウディアが少し笑った。
その時、廊下を急ぐ足音が近づき、神殿の職員が談話室の入口から顔を出した。
「アレンさん、こちらにクラウディアさんはいらっしゃいますか?」
「います」
クラウディアが振り返る。
「どうしたの?」
「冒険者ギルドから急ぎの伝言です。西門から連絡が入ったそうで――」
職員は手元の紙を確認した。
「『断岳』オスカー・ベルンが王都へ帰還しました。現在、冒険者ギルド本部へ向かっているとのことです」
クラウディアの表情がわずかに変わった。
「分かった。ありがとう」
職員が一礼し、次の伝言先へ向かっていく。
足音が遠ざかってから、クラウディアが椅子へ背を預けた。
「戻ってきたってことは、古龍も倒したんだね。あとでどんな相手だったか聞いてみようかな」
「それ、前にディートリヒさんから機密だって怒られてませんでした?」
「本人に聞くだけならいいでしょう」
「……たぶん、そういう感覚を怒られてたんだと思います」
クラウディアが少し考える。
「そうかな」
「たぶん」
しばらく見つめ合ってから、クラウディアが先に笑った。
「まあ、話せないならオスカーがそう言うよ」
「それなら大丈夫……なんですかね」
「大丈夫じゃない?」
どうにも自信がなくなってきた。
オスカーが王都へ戻ったからといって、すぐ地下へ入るわけではない。
ユリウスはまだ寝台から離れられず、ミラも弓を引けない。ザビーネは魔法を止められ、アルノルトも前線へ戻れないままだ。
地下の入口では、今日も兵士たちが監視を続けている。
窓の外を、瓦礫を積んだ荷車がゆっくり通り過ぎた。
その音が遠ざかる間、俺は王都へ戻ってきた『断岳』のことを考えていた。




