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第70話 夜明けの王都

「まだ反応あります。呼びかけにも返事がきています」


 泥に膝をついていた隊員が振り返り、半分土砂に埋まった家屋の奥を指した。


 雨脚は少し弱まっていたものの、戦闘服の袖を伝う水は手袋の先から絶えず滴り、足元の土も踏み直すたびに沈んだ。斜面から流れ込んだ土砂で一階部分が潰れ、二階の床と梁が斜めに落ち込んでいる。その下に一人が取り残されていた。


「位置は変わってないか」


「はい。居間の奥です。意識清明、外傷の程度は確認できません」


「ここから出すまで、どれくらいかかる」


 瓦礫の状態を見ていた隊員が、梁の付け根をライトで照らしながら首を振った。


「手作業だけでは厳しいです。この梁に上の荷重がかかっています。先に保持しないで切れば、床ごと落ちる可能性があります」


「今ある器材では?」


「小さいものなら動かせますが、これは無理に触らない方がいいです。油圧式ジャッキかチェーンブロックで荷重を受けてからじゃないと危ないです」


 ここへ入るまでに、表側の瓦礫はかなり取り除いていた。バールやスコップで動かせるものは動かし、声が届くところまでは進めたが、その先だけは人手を増やせば解決する状態ではない。


 少し離れた斜面を監視していた隊員が、計測器から顔を上げた。


「変位、また増えています」


「どれくらいだ」


「この現場で決めた退避基準を超えました。今すぐ崩れるとは言えませんが、活動を続けるなら危険です」


 俺は斜面を見上げた。


 樹木の間から細い泥水がいくつも流れ落ち、さっきまではなかった場所にも土が露出している。救助を急ぐために基準を無視していい状況ではなかった。


 肩の無線機から呼び出しが入ったのは、その時だった。


『現地指揮所から捜索中の各班。第二地点の避難路で亀裂拡大。南側に住民十八名が残留、高齢者を含む。避難誘導中の要員二名から増援要請あり』


 俺は無線機を取った。


「こちら捜索一班。第二地点までの所要は」


『現在地から徒歩を含め約十分。車両は途中までしか入れない』


「他に回せる班は」


『直近にはない。北側は孤立地域、東側は河川沿いへ投入中。そちらが最短だ』


 地図を開き、第二地点までの経路を確認する。


「道路の状況は?」


『亀裂が拡大している。完全に崩落した場合、現在の避難経路は使えなくなる可能性が高い』


「了解。少し待て」


 無線をいったん外し、家屋へ向き直った。


「施設部隊はどこにいる」


 隊員の一人が携行していた図面を確認した。


「南側の幹線で道路啓開中です。ここまでなら、回って来られるはずです」


 俺は再び無線を取った。


「現地指揮所、こちら捜索一班。こちら要救助者一名、生存確認済み。ただし上部荷重を受けた梁が障害になっていて、現有器材での除去は危険。斜面の変位も退避基準を超えた。道路啓開中の施設部隊から、救助器材を持った要員を回せないか」


 少し待って返事が来た。


『確認する。そのまま』


 雨音の中で待つ間にも、家屋の奥から声が聞こえ、隊員がすぐに瓦礫へ向かって返した。


「聞こえています! 今、救出方法を確認しています!」


 やがて無線が入った。


『施設部隊から一班を回す。油圧器具を含む救助器材を携行。到着まで十五分見込み』


「進入経路は?」


『南側から入る。現時点では通行可能を確認済み』


「了解。こちらから位置と進入路、危険箇所を引き継ぐ」


 無線を切ると、俺は家屋の状態を見ていた隊員へ指示した。


「梁には触らない。要救助者の位置、進入経路、荷重がかかっている箇所をまとめて施設側へ送る。入口にも標識を残して、到着したらすぐ分かるようにしてくれ」


「了解」


「状況写真も残せるだけ残しておけ。口頭だけにしない」


 別の隊員がすぐ作業へ移り、家屋の外から進入できる経路と、触れてはいけない部分を確認していく。


 俺は瓦礫の開口部近くまで寄った。


「聞こえますか!」


 少し間があり、奥から返事が来た。


「……聞こえます」


「今いる場所は動かないでください。こちらの器材では上の梁を安全に外せないので、もっと重いものを扱える救助班に引き継ぎます。十五分ほどで到着する予定です」


「そっちは……行くんですか」


 声は弱かったが、内容までは聞き取れた。


「別の場所でも避難が遅れています。ここは次の班が引き継ぎます。救助を打ち切るわけではありません」


 少し間を置いて、「分かりました」と返ってきた。


 その声を聞いてから立ち上がり、まだ考えられることがないか、もう一度条件を確認した。


 ここに残っても、今の器材では梁を安全に動かせない。斜面は活動を続けられる状態を越えつつあり、十五分後には適切な器材を持つ別班が来る。一方、第二地点では十八人の避難に人手が必要で、道路がいつまで残るか分からない。


 人数を分けて両方に対応する案も成立しなかった。ここへ人を残しても救出作業そのものを進められず、第二地点では高齢者を含む十八人を傷んだ道路から移すだけの人数が足りなくなる。


「引継ぎが終わったら全員退避。第二地点へ移動する」


 誰からも異論は出なかった。


 納得できるかどうかではなく、今ある条件ならそうするしかなく、施設側との無線連絡を終えて位置情報と現場状況が伝わったことまで確認してから、俺たちは斜面を離れた。


 第二地点へ到着した時には、道路を横切る亀裂がさらに広がっていた。


 残っていた十八人の中には杖を使う老人が何人もおり、自力で素早く移動できない者もいる。避難誘導に当たっていた二人と合流すると、動ける者から先に渡すのではなく、介助が必要な者へ隊員をつけ、崩れ始めた路肩へ重量が集中しないよう間隔を取らせた。


 背負える者は背負い、子供は抱え、足場の悪い箇所では両側から支える。全員を北側へ移し終えるまでには思った以上に時間がかかったが、最後の一人が安全な位置まで離れた直後、亀裂の外側が崩れ始めた。


 俺は人数をもう一度確認してから、すぐ無線機を取った。


「現地指揮所、第二地点の十八名、全員避難完了。先ほど引き継いだ救助現場はどうなってる」


 返事が来るまで、わずかに間があった。


『施設班は移動中。南側の進入路で小規模な土砂流入が発生し、現在迂回している』


「到着は」


『五分程度遅れる見込みだ』


 最初に聞いた十五分から少し延びたものの、現場へ戻るより施設班の方が近く、向こうには必要な器材もある。


「進入自体はできるんだな」


『別経路を確保している。現在接近中』


「了解」


 無線機を戻しかけた時、遠くから低い音が響いた。


 雷とは違う音が地面の下を走るように続き、その直後、無線が一斉に騒がしくなった。


『南斜面で大規模崩落――』


 俺は無線機を握り直した。


「場所は」


 返事が一瞬遅れた。


『先ほどの救助地点付近。施設班は崩落区域の外、巻き込まれてはいない』


「要救助者は」


 今度は、さらに長く間が空いた。


『現時点では確認できない。施設班が接近する』


 俺は返事をせず、崩れた道路の向こうに見える山を見た。


 戻れたのは、その日の午後だった。


 家屋があった場所は斜面ごと形を変え、泥と倒木が道路まで押し出されていた。施設部隊が重機で進入路を作りながら捜索を続けていたが、俺たちが離れた時に見えていた屋根は、もうどこにもなかった。


 数日後、活動記録の確認が行われた。


 斜面の変位が基準を超えた時刻、施設部隊への引継ぎを要請した時刻、第二地点へ移動を開始した時刻、十八人の避難を完了した時刻、施設班の進入路に新たな土砂が入った時刻、その後に斜面全体が崩れた時刻まで、残っている記録はすべて並べられていた。


「この判断を問題にする材料はありません」


 向かいに座った男は、記録を一通り確認してから資料を閉じた。


「現場に残っても、当時の器材では安全に救出作業を進められなかった。斜面も退避すべき状態に入っていたうえ、適切な器材を持つ施設部隊への引継ぎも行われている。第二地点についても、あなた方が移動しなければ十八名の避難完了は間に合わなかった可能性が高い」


 俺は頷いた。


 施設班の進入を遅らせた土砂流入も、俺たちが現場を離れた後に起きたものだった。記録をどこから見直しても、当時の条件で選べる手段は変わらない。


 それでも、瓦礫の奥から聞こえた声と、その人の名前だけは、その後も長い間忘れなかった。


     *


 右肩から脇腹へ走った痛みで目が覚めた。


 天幕の継ぎ目から白い朝の光が差し込み、しばらく天井を見たまま、自分がどこにいるのか理解するまでに少し時間がかかった。


 雨音はなく、泥の匂いもしない。外から聞こえてくるのは、石を動かす音と荷車の車輪が軋む音だった。


「起きるなら、ゆっくりにしろ」


 声をかけてきたのは、昨夜とは別の衛生兵だった。


 俺が寝かされているのは、第1師団の後方に作られた仮設治療所らしい。夜の間に運び込まれた負傷者で長い天幕の中はほとんど埋まり、寝台が足りない場所には毛布を何枚も重ねて人を寝かせている。


 身体を起こそうとすると、右肩だけでなく脇腹まで痛んだ。


 左上腕には新しい包帯が巻かれ、脇腹も幅の広い布で固定されている。左脚は動かせるものの、腿の奥に硬いものを押し込まれたような張りが残っていた。


「どれくらい寝てました?」


「夜の途中からだ。何度か起こして確認したが、覚えてないだろ」


「……覚えてません」


「壁に頭までぶつけたそうだからな。吐き気は?」


「ないです」


「目眩はどうだ」


 首をゆっくり動かし、天幕の支柱や周囲の寝台へ視線を移した。


「大丈夫そうです」


「ならいい。ただし今日は剣を振るな。左脚も使い切ってる。普通に歩くくらいなら構わんが、走るのも急に向きを変えるのもなしだ」


「分かりました」


「昨夜も同じようなことを言われてたんじゃないのか」


 衛生兵が呆れたように言ったので、それ以上は答えなかった。


 寝台の端へ腰を下ろしたところで、昨夜の記憶が戻ってくる。


 エーベルのそばに散っていた道路図と測量道具、石畳へ落ちていた片方だけの作業用手袋まで、妙に細かく思い出せた。首筋へ指を当てても何も返ってこなかった感触も、眠った程度では薄れていない。


 膝の上で組んだ手に力が入った。


「聖女様なら、今は休ませてるぞ」


 衛生兵が俺の様子を見ながら言った。


「フィアナですか」


「ああ。夜半まで治療所を行ったり来たりしてたが、最後は神殿の治癒師が連れていった。このままだと治す側が倒れるってな」


「それなら良かったです」


 ミラとユリウスも別の治療区画で夜を越し、容態が急変したという報告はないらしい。負傷自体は軽くないものの、少なくとも今すぐ命に関わる状態ではないと聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 ガルドとセレナも旧水路の開口部へ残り続けているわけではなく、増援の兵とギルド要員が到着した後に監視を引き継ぎ、二人とも治療と休息へ回されたという。


「地下へ入った人は?」


「いない。入口を固めて、出てくるものがあれば対処するだけだ」


「そうですか」


 あれだけのものが地上へ出てきた直後に、傷つき、魔力も使った人間をそのまま未知の地下へ送り込まないのは当然だった。


「それと、中央連絡所から伝言だ。目が覚めたら話を聞きたいそうだ」


「南東の件ですか」


「角のある男のことも含めて、だそうだ。歩いて行けそうなら止めんが、途中で無理だと思ったら戻れ」


「分かりました」


 立ち上がると、左脚は身体を支えてくれた。


 昨日の最後のように膝から力が抜けることはない。ただ、一歩踏み出すたびに腿の奥へ鈍い張りが返り、急制動や方向転換を試そうという気にはならなかった。


 天幕の外へ出たところで足が止まり、そこで初めて、夜が明けていることをはっきり意識した。


 東側の屋根には朝日が当たり始め、空は薄い灰色から青へ変わりつつある。暗いうちは灯りの届く範囲しか見えていなかった街の傷が、今は通りの先まで続いていた。


 片側だけ焼け落ちた家の向こうでは、二階を失って内部がむき出しになった建物に市の作業員が印を付け、倒壊の危険がある場所へ縄を張っている。黒い獣の死骸を荷台へ載せようとしている兵士たちの脇を、負傷者を運ぶ荷車がゆっくり通っていった。


 少し離れた広場には毛布を肩へ掛けた避難者が集まり、大鍋から湯気が上がっている。壁にもたれたまま眠っている兵士の前を、水桶を抱えた住民が何度も往復していた。


 王都のすべてが壊れたわけではなく、通りを一本外れれば店先へ散った破片を箒で集める男がいて、屋根の傷んだ家から家財を運び出す家族もいる。夜の間に使えなくなった道の脇では、市職員が別の通行路を確保しようとしていた。


 剣と魔法の音は、もうほとんど聞こえない。代わりに街を満たしているのは、金槌、車輪、瓦礫を動かす音と、人を呼ぶ声だった。


 中央連絡所までの道も、普段どおりには通れなかった。


 崩落した建物を避けて二度ほど迂回し、途中で負傷者を載せた荷車へ道を譲りながら進む。連絡所として使われていた建物も窓の一部を失い、正面の壁には亀裂が走っていたが、中では昨夜と変わらず伝令と書記が行き交っていた。


「アレン・クロイツです。呼ばれたと聞きました」


 入口で告げると、奥の机へ案内された。


 第1師団の士官と冒険者ギルドの職員が並んでおり、机には地区ごとに分けられた紙束と王都の地図が広げられている。


「座ってくれ。その状態で立たせたまま話を聞く必要はない」


「ありがとうございます」


 椅子へ腰を下ろすと、士官が一枚の記録を手元へ引き寄せた。


「南東の避難迂回路について、同行した兵と現地の職員から第一報は受けている。時系列を確認したい。まず昨夜出現した黒い人型は、お前が先に警戒を出していた個体で間違いないか」


「間違いないと思います。左脚を引きずる動きと、左肩の損傷が一致していました。左肩は最初に交戦した時、俺がつけた傷です」


「最初に交戦した時、なぜ追撃しなかった」


 質問の意味は分かっていた。


「統制体の照射が、崩落箇所と避難中の人たちへ向いていました。人型を追えば、その対応へ戻れなくなる可能性があったので、統制体を優先しました」


「その後、人型については?」


「左脚と左肩の状態、南へ離脱したことを報告しました」


 書記が横で記録を取っていく。


 士官は別の紙と見比べてから頷いた。


「中央連絡所にも同じ内容が残っている。南東への警戒通達も出ていた。昨夜、最初に人型を見た技術班も追わずに通報しているから、情報伝達自体は機能していたと見ていい」


「はい」


「当時、追撃を打ち切った判断については、今ある記録から問題があったとは見ていない」


 その言葉を聞いた瞬間、雨の中で見た資料と、向かいに座っていた男の顔が頭をよぎった。判断に問題はないという部分だけなら、俺自身も分かっていた。


「あとは南東での接触だ」


 士官が記録をめくった。


「到着した時点で、左脚にはすでに負傷と疲労があった?」


「負傷というより、かなり負担が溜まっていました。普通に歩くことと、短く真っ直ぐ走ることはできました。ただ、加速してから急に止まるとか、向きを変えてもう一度踏み込む動きはかなり落ちていました」


「現場では、その影響が出たか」


 答えるまでに少し時間がかかった。


「出ました」


 昨夜の光景が戻る。


 避難列へ向きを変えた黒い人型と、それを追う俺たち。その先では、エーベルが荷車の車輪を指しながら市職員へ何かを伝えていた。


 風で身体を押し、土で足場を固めて踏み込んだ時、本来なら届くはずの距離だった。


「避難者の方へ向かった時、一度進路を切ろうとしました。加速まではできましたが、左脚で踏み直した時に力が戻らなくて、半歩外れました。剣は左肩を掠めただけです」


 書記の筆が少し遅くなる。


「その後も交戦は継続した?」


「はい。兵士も一緒に止めようとしていました。最終的にはかなり損傷させましたが、俺たちだけでは停止させ切れませんでした」


「そこで角のある男が介入した」


「はい」


 士官は話題を変え、修道院で一度戦った男と同一人物か、名前を聞いたか、今回こちらへ敵対したかを順に確認していった。


「ヴァレク・ノルガと名乗りました。セレスで会った男と同じです。今回は俺たちへ攻撃せず、黒い人型を止めました」


「何か話したか」


「王都だけじゃなく、北でも似たものが動いていると言っていました。それ以上は、自分にも全部は分からない、北でも調べているとしか聞いていません」


「フィアナ・エルシェについては」


「俺から聞きました。今回は探していないと言っていました。ただ、今後も連れて行かないと約束したわけではありません」


 士官は書記が書き終えるのを待ち、資料をまとめた。


「分かった。男の発言についてはこちらで意味を決めない。修道院での聴取記録と合わせて、王城とギルド本部へ上げる」


「お願いします」


 あの男が昨夜俺を助けたことと、セレス修道院でフィアナを力ずくで連れて行こうとしたことは、どちらも事実で、一方だけを見てもう一方を消すことはできなかった。


「南東の被害についても、夜明けまでに確認が進んでいる」


 士官が新しい紙を取った。


「死傷者の氏名確認を進めているが、市の技術職員エーベルについては死亡を正式に確認した」


「……はい」


 昨夜、自分で脈を確かめているため、ここで初めて聞いた話ではなかった。それでも正式な記録として名前を読み上げられると、昨夜とは別の重さがあった。


 士官はそれ以上何か慰めるようなことは言わず、俺にはその方がありがたかった。


 最初に人型を追わなかった判断だけなら、条件を並べて考えることができる。


 統制体の照射があり、その先には避難している人たちがいた。追撃を打ち切った後も警戒情報は流れ、南東側もそれを受け取っていた。あの時点へ戻ったとしても、人型一体を追うために統制体への対応を捨てる判断はできない。


 けれど、南東で起きたことまで同じようには整理できなかった。


 あそこでは敵が見えていて、エーベルも目の前にいた。俺は止めるために走り、本来なら届くはずだった動きを使ったのに、左脚が最後の踏み込みを返してくれなかった。


 あの時、人型を追っていればという考えと、南東であと半歩届いていればという考えは、似ているようで別のものだった。どちらか一つを否定しても、もう一方が残る。


「全体の状況も共有しておく」


 士官が地図をこちらへ向けた。


 昨夜まで敵の位置を示していた印の多くには停止を示す線が引かれ、その代わりに封鎖された道路、火災、崩落、地下への開口部を示す印が増えている。


「これまでに確認された統制体はすべて停止している。大規模な黒い獣の集団行動も夜のうちにほぼ見られなくなった。ただし、散発的な黒い獣や通常の魔物、正体の分からない敵の目撃は残っている。警戒は継続だ」


 士官の指が地図を移動する。


「今は戦闘より、火災、崩落、行方不明者の捜索に人手を取られている。地下の開口部には監視を置いているが、深部へは入らせていない。出てきたものへの対処と、入口周辺の補強だけだ」


「旧水路も?」


「ああ。兵とギルドで引き継いだ。ガルド・レイスとセレナ・ヴァイスも休ませている」


 そこでギルド職員が、別の一覧をこちらへ寄せた。


「主要な冒険者について、確認できている範囲も共有します。クラウディア・ヴァレンは北東で治療継続。アルノルト・グレーフェも生存していますが、重傷のため前線復帰はできません。エルンスト・ヴォルフも生存、引き続き治療中です」


 俺は一覧へ視線を落とした。


 そこにある名前の一つは、すでに昨夜までの報告で聞いている。


「レナードさんは」


「西区で死亡を正式に確認しました。遺体も回収されています」


 ギルド職員の声が少し低くなった。


「最後まで戦闘に参加し、統制体撃破へ大きく繋がる一射を残したという報告もあります。ただ、細部については西区の生存者からまだ聞き取りを続けています」


「……そうですか」


 戦況を集めていた時点で死亡の報告自体は知っていたが、未整理の情報の中にあった名前が正式な記録へ変われば、受け取り方は違った。


「ミラには?」


「まだ正式には伝えていません」


 職員は首を振った。


「西区でレナードと最後まで戦った射手が、自分から話したいと言っています。治療が落ち着き次第、会わせる予定です」


「それがいいと思います」


 俺が知っているのは、ここへ集まってきた報告だけだ。


 レナードが最後に何を見て、どう戦ったのかを知っているわけではない。そんな俺が先にミラのところへ行って伝える理由はなかった。


 連絡所を出ると、朝日はさらに高くなっていた。


 建物の正面には、大きな紙が何枚も貼り出されている。避難所、通れる道路、臨時治療所、行方不明者の確認場所が分けて書かれ、その隣では死亡が確認された人間の氏名も整理され始めていた。


 兵士、近衛、神殿兵、冒険者、市職員と所属ごとに分けられ、分からない者については名前だけが記されている。


 レナードの名は冒険者の欄にあり、少し離れた市職員の欄にはエーベルの名前があった。


 その文字を見ているうちに、雨の中で聞いた声がふいに蘇った。


 あの時は、必要な器材を持つ部隊へ引き継ぎ、自分たちにしか間に合わない場所へ向かった。それでも、途中で起きた崩落が引継ぎの時間を奪った。


 今度は警戒情報を流し、現場もそれに従って動き、俺自身も最後には同じ敵の前まで戻ってきた。それでもエーベルのところへ向かった一撃だけは止められなかった。


 どちらも、後から一つだけ条件を変えれば助かったと言うことはできる。施設班が五分早ければ、俺が人型を最初に仕留めていれば、あるいは左脚がもう一度だけ踏み込めていれば、結果は違っていたかもしれない。


 けれど、その時そこにあった条件まで戻せば、選べなかったものも混じっている。


 何が自分に変えられたことで、何が変えられなかったことなのかを、今の俺にはまだ切り分けられなかった。


「すみません。少し空けてもらえますか」


 横から声をかけられ、俺は一歩退いた。


 市の書記が新しい紙を抱えている。


「ここに追加しますので」


「ああ、すみません」


 場所を譲ると、書記は壁へ紙を留め、後ろから来た職員が読み上げる内容を書き始めた。報告が一つ読み上げられるたび、壁の紙にはまた一人ずつ名前が増えていく。


 俺は最後まで見ず、治療所へ戻るために歩き出した。


 通りでは瓦礫を積んだ荷車が行き交い、行方不明者を探す一団が建物の中へ入っていく。炊き出しには列ができ、市職員は傷んだ道路の横へ新しい通行線を作ろうとしていた。


 夜が明けたからといって、昨日までのことが終わったわけではない。


 治療所の入口が見えてきたところで、ギルド職員に案内されて歩く一人の女性が目に入った。


 弓は持っていなかったが、訓練場でレナードと一緒だった射手だ。


「ミラ・セインさんはこちらです。まだ長く話せる状態ではありませんので、それだけお願いします」


「分かってます」


 職員が名前を呼んだ。


「ハンナ・ベルクさん、こちらへ」


 俺は足を止めかけたが、そのまま歩いた。


 西区でレナードと一緒に戦っていた人間がミラのところへ来たのなら、俺がそこへ入る必要はない。


 天幕の向こうへ二人が消えるのを横目に見ながら、自分の寝台へ戻った。


 朝の光は、開いた天幕の隙間から奥まで差し込んでいた。

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