第69話 通した道
エルンストを後送してからしばらく経ち、俺は第1師団の戦区に設けられた応急治療所で、ようやく左腕の包帯を巻き直されていた。
日はすでに沈み、通りの向こうでは市職員が持ち込んだ灯りが瓦礫の間に並び始めている。布を締め直されるたび、黒い人型につけられた左上腕の傷が鈍く脈打ち、その痛みを追うように右肩まで熱を持った。
「痛むか」
「少し。でも動かせます」
第1師団の衛生兵が俺の左上腕を軽く押し、出血が止まっていることを確かめる。傷そのものは深くないが、その後も剣を振り続けたせいで何度か開き直していた。右肩も黒い獣に抉られた部分を洗われ、新しい布を巻かれている。
「脚は?」
立つように言われ、荷箱から腰を上げた。
左足へ体重を乗せて膝を曲げ、それから数歩歩いてみる。普通に進むだけなら問題はなく、軽く踏み込む程度なら剣も振れる。ただ、強く地面を蹴った直後に急制動し、そこから別方向へ切り返そうとすると、腿から膝の裏へ張るような痛みが走った。
「骨じゃなさそうだな。腫れもひどくない。筋と魔力の通り道を酷使したんだろう」
「たぶん、それです」
「なら歩くなとは言わん。だが、同じ動きを何度もやるなよ。次は本当に立てなくなる」
返事をしながら剣帯を締め直したところで、少し離れた連絡所が騒がしくなった。
近くにいた兵士たちも顔を上げたが、聞こえてきたのは戦闘を告げる怒声ではない。
日没からしばらく経ち、王都の音は少しずつ変わっていた。遠くではまだ剣戟や魔法の炸裂音が途切れず続いているものの、この辺りを行き交うのは前線へ向かう兵より、担架を運ぶ者や水桶を抱えた市職員の方が多くなっている。崩れた家屋では救助要員が瓦礫の下へ声をかけ、通りでは負傷者の搬送先を確認する声が絶えず飛び交っていた。
連絡所から出てきた伝令が、手にした紙片を広げる。
「北東より報告! 統制体三体、すべて停止! 『嵐冠』クラウディア・ヴァレン、生存確認。負傷あり、現地で治療と救助支援に移行!」
周囲の何人かが息を吐き、俺も肩の力を抜いた。
生きていると分かったことには素直に安心したが、すぐに「負傷あり」という言葉が引っかかった。
模擬戦で何度仕掛けても最後まで余力を残し、こちらの動きを直しながら相手をしていたクラウディアが、治療を必要とする傷を負ったらしい。どの程度なのか、北東で何があったのかまでは分からない。それでも三体を止めたという報告と合わせれば、楽な戦いではなかったことくらいは想像できた。
今すぐ確かめに行ける場所ではないし、生存が確認できただけでも十分だった。
「中央連絡所から追記! これまでに確認された統制体は、すべて停止。新たな出現に備え、各戦区は警戒を継続!」
歓声が上がることはなかった。
大きな敵が止まったことは間違いなく朗報だったが、それで王都が元へ戻るわけではない。視線を通りの先へ向ければ、半壊した建物の前ではまだ瓦礫が掘り返され、その近くでは担架に横たえられた兵士の鎧を仲間が外している。さらに先では、倒れた荷車が道の半分を塞ぎ、市職員が歪んだ車軸をどう外すか相談していた。
「もういい。次の重傷者を診る」
衛生兵に言われ、俺は治療場所を空けた。
休めと言われて素直に横になる気にはなれなかったが、少なくともこの周辺では剣を抜くより先にやることがある。
「そっち、手伝います」
倒れた荷車へ向かうと、市職員が俺の右肩へ目をやった。
「その腕で持ち上げる気か?」
「下の木を抜くくらいならできます」
「なら頼む。こっちを二人で浮かせるから、合図したら引いてくれ」
言われた通りにしゃがみ、車体が浮いたところで折れた車軸を引き抜く。こういう動きなら左脚への負担も小さく、右肩へ強く力をかけずに済んだ。
道が空くと、次は担架を運ぶのを手伝った。
崩れた壁の向こうから声がすれば救助班を呼び、通路を塞ぐ石があれば脇へ寄せる。いつの間にか剣より瓦礫や木材へ触れている時間の方が長くなり、通りに満ちていた殺気も、少しずつ救助と後始末の慌ただしさへ変わっていった。
王都のあちこちに灯りが増えている。
燃えている建物の火だけではない。救助場所を示す灯り、治療所へ続く灯り、まだ通れる道を示すために置かれた灯りが、崩れた街の中を細く繋いでいた。
何度目かの担架を下ろした頃、南側から走ってきた兵士が連絡所へ飛び込んだ。
今度は、周囲の空気がすぐに変わった。
「南東の避難迂回路から急報! 警戒通達にあった黒い人型を確認! 人間と同程度の大きさ、左脚を引きずり、左肩に大きな損傷あり。最後の避難列に近い!」
近くにいた第1師団の指揮官が顔を上げ、そのまま俺を見た。
「左脚と左肩……クロイツ、お前が報告した個体か」
「はい。たぶん間違いありません」
俺があの個体を見失ったあと、特徴と逃走方向は報告してある。警戒情報自体は南東まで届いていたらしい。
それでも見つけられなかったのは不思議ではなかった。
統制体と黒い獣が各地で暴れている最中に、崩れた市街を移動する一体だけを追うための人員を割けるはずがない。しかも左脚を悪くしていたあの人型は、大通りを駆け抜けるような動きではなく、建物の陰や細い路地へ紛れれば見失いやすい。
「場所は?」
俺が尋ねると、伝令がすぐ答えた。
「ここから南東です。旧水路沿いの北上路が塞がれていて、最後の避難列をいったん東へ回しています。その近くの路地で技術班が目撃しました」
「追ってはいませんよね」
「警戒通達どおり、位置だけ確認して列へ知らせています。こちらへ応援要請を出した直後、姿は建物の陰へ消えました」
第1師団の指揮官が俺の包帯へ視線を落とした。
「行けるのか」
「走れます。ただ、長くは無理です」
男は一瞬考えてから周囲の兵士へ目を向ける。
「四人付ける。単独で追わせるな。避難民が近いなら、仕留めることより民間人を離す方を優先しろ」
「分かりました」
ガルドを呼ぶという選択はなかった。
旧水路の開口部には、まだ何が残っているか分からない地下が口を開けている。そこを正面から支えられるガルドと、施設側の異常を見られるセレナを同時に動かせば、別の危険を生むだけだ。
フィアナは治療へ回っている。ミラとユリウスも、まだ戦場へ戻せる状態ではない。
俺は割り当てられた兵士四人と南東へ向かった。
最初のうちは走れた。
左脚は痛むものの、前へ進むだけならまだ使える。問題になるのは、足場を固めて一気に加速し、その勢いを殺して方向を変え、さらにもう一度踏み込むような動きを繋げた時だった。
今は、その動きを繰り返さなければいい。
崩れた大通りを避け、途中から細い横道へ入る。戦闘が終わった区画には黒い獣の残骸が転がり、兵士たちが倒れた魔物を道端へ寄せていた。何度か瓦礫を越えたところで、先頭を走る兵士が速度を落とす。
「この先です」
道幅が少し広がっていた。
本来なら荷車が二台すれ違えるくらいの通りだが、右側の建物が半分ほど崩れ、石材と木材が道路へせり出している。そのせいで通れるのは左寄りの一列だけとなり、そこを小さな荷車がゆっくり進んでいた。
その前後には三十人ほどの人がいる。
頭に包帯を巻いた男、杖を使う老人、母親に手を引かれた子供。担架のまま荷車へ載せられている者もいて、最初から避難を拒んで残った人々ではなく、崩落した建物や地下室から遅れて救出された者が多いことは見れば分かった。
道の脇では市職員が何人か、崩れた路面と荷車の車輪を交互に確認している。
その中に、見慣れた背中があった。
「エーベルさん!」
振り返ったエーベルの顔に、はっきりと安堵が浮かんだ。
「来てくれましたか」
「黒い人型を見たと聞きました」
「ええ。二つ向こうの路地です。技術班の一人が見ましたが、追わせてはいません」
「それでいいです。避難列は?」
「あとこれだけです。ここを東へ抜ければ、一本北の道へ繋げられます。ただ、先の角で壁が崩れていましてね。荷車は通せますが、右へ寄せすぎると路肩が危ない」
エーベルは手にしていた記録板をこちらへ向け、簡単な道路図を指でなぞった。
「この先は確認できていますか」
「北上路までは見ました。荷車を一台ずつ通すなら問題ありません」
俺は周囲を見回した。
左側には比較的無事な石造建物が続き、その先に北へ抜ける細道がある。一方、右側には崩壊した建物が並び、その奥にはいくつもの路地が口を開けていた。
避難列を今から逆方向へ戻せば、狭い道の途中で荷車と人が詰まる。
だからといって、人型の位置が分からないまま進ませるのも危険だった。
「一度、列を止めた方が――」
右手から、小石の転がる音がした。
俺が振り向くのと、兵士の一人が盾を上げるのはほとんど同時だった。
「右だ!」
崩れた建物の奥から、黒い人型が姿を現した。
見間違えるはずがない。
左肩の外殻は、俺が斬り込んだところから大きく割れている。左腕の動きも鈍く、左脚を地面へ擦るようにしながら歩いていた。
速度そのものは高くない。
だが、避難列までの距離が近すぎる。
「列を左へ寄せてください! 荷車は止めろ!」
俺が叫ぶのと同時に市職員が動き、避難民を建物側へ寄せ始めた。
同行していた兵士たちも迷わなかった。盾を持つ一人が正面へ入り、二人の槍兵が左右へ広がる。残る一人は戦列へ加わらず、避難民と敵の間を空けるため市職員の誘導を手伝った。
黒い人型が踏み込んでくる。
左脚が遅れるため、一歩ごとにわずかな間がある。
盾の兵士が正面を塞ぎ、右側から槍が胴へ伸びた。人型は身体を捻って穂先を外したものの、その動きで傷ついた左肩がこちらへ開く。
そこへ足元の風を一度だけ使って距離を詰め、剣を下から斬り上げた。刃が割れていた外殻の縁へ食い込み、硬い感触の奥で何かが裂けると、人型の左腕が大きく下がる。
「押せます!」
「左を塞げ!」
槍が続けて入った。
一人が左膝を狙い、もう一人が右脇へ穂先を当てる。深くは通らないが、人型は避難列へ向かう余裕を失い、俺たちの方へ身体を向けざるを得ない。
この形なら削れる。
俺が前で引きつけ、盾で右を塞ぎ、槍で悪い左脚を狙い続ければいい。
人型の右腕が横へ振られた。
盾の兵士は真正面から力を受けず、身体ごと斜めへずらしながら衝撃を流す。二歩ほど押されたが倒れず、すぐに盾を戻した。その間に俺が右腕の付け根へ剣を当て、外殻の継ぎ目を浅く裂く。
「そのまま下がってください!」
後方から兵士の声が響き、避難民が建物沿いへ移っていく。
道幅が足りず、荷車そのものの向きは変えられない。市職員たちは車体を残したまま、歩ける者から順番に左側へ逃がしていた。
人型が急に正面を捨てた。
俺へ向いていた身体を右へ振り、槍の一本を腕で弾く。穂先を持っていた兵士が姿勢を崩した隙に、人型はできた空間へ二歩進んだ。
その先に避難列がある。
「抜かせるな!」
盾の兵士が横から入り、人型の肩へ盾を叩きつけて進路を半歩ずらした。
その時間で追いつくため、俺は足元へ風を集めた。
一歩目で前へ出て剣の間合いへ入り、二歩目で向きを変えながら左足の下へ土を固める。
そうするはずだった。
踏み込んだ脚が、狙った位置まで出なかった。
固めた足場より踵が半歩手前へ落ち、そこから身体だけを回したせいで剣先が外へ流れる。人型の背へ届くはずだった刃は、外殻を浅く擦っただけで抜けた。
その横を人型が通る。
もう一人の兵士がすぐ槍を突き込み、右脇へ穂先を当てたことで進行を止めたが、その兵士自身も避難民との間に立っている。
人型は目の前の兵士より、その向こう側へ意識を向けた。
「下がって!」
市職員が子供を抱き、建物側へ走る。
そのすぐ近くで、老人を支えていた男が足を取られた。救助要員がしゃがみ込み、老人を起こそうとしたところへ人型の右腕が振られる。
真っ直ぐなら、まだ出られる。
風を一度だけ強く使い、老人たちの前へ身体を差し込んだ。
剣で腕の軌道を外そうとしたものの、傷ついた右肩に必要なだけの力が入らない。受け流し切れなかった一撃が剣ごと肩へ入り、視界が横へ流れた。
背中から荷車へ叩きつけられ、肺から空気が抜ける。
それでも敵は止まらない。
盾の兵士が追いつき、今度は横から全身で押し込んだ。槍兵も右脚へ穂先を叩き込み、二人が時間を作っている間に、市職員が転んだ老人を引きずって離す。
「アレンさん!」
エーベルの声が聞こえた。
「大丈夫です! 列を先へ!」
答えながら息を吸うと、右胸から肩へ痛みが走った。
肋骨までどうなっているかは分からない。巻き直したばかりの右肩はまた開いたらしく、包帯の下に生温かいものが滲んでいる。
それでも剣は握れる。
荷車から身体を離して前へ戻ると、兵士たちも戦列を整え直していた。一人は腕を痛めているが、盾役はまだ動けるし、槍も二本残っている。
「正面は俺が取ります。左脚を狙ってください」
「分かった!」
人型がこちらへ向き直る。
左肩はさらに壊れ、左腕は胸より上へほとんど上がらない。左脚の沈みも大きくなっていた。
今度は無理に速度を上げない。
右腕の振りを半歩下がって外し、戻ってきたところへ剣を当てる。そこへ兵士の槍が右肘の外側へ入り、外殻に新しい亀裂が走った。
人型が槍へ反応して右を向いた瞬間、俺は左肩の同じ場所へもう一度剣を入れた。
さっきより深く刃が入り、上半身が傾いたところへ二本の槍が左右から押し込まれる。人型は大きく姿勢を崩し、片膝を石畳についた。
このままいけば倒せる。
そう思った時、避難列の後ろから叫び声が上がった。
荷車の一台が、路面の割れ目へ車輪を取られていた。
市職員が二人、動かなくなった車輪の横へ集まっている。
エーベルもそこにいた。
「そっちへ寄せないでください! 左です。先にその石を外して、車輪を捻らないように!」
人型がそちらを見た。
嫌な角度だった。
「押さえろ!」
盾が入る。
俺も同時に前へ出たが、人型は傷ついた左脚を引きずりながら身体を起こし、盾を右腕で押し退けた。槍を一本受けても構わず、そのまま避難列へ進んでいく。
必要なのは、ほんの数歩だけだった。
その先には人がいる。
足元へ風を集め、左足の下を土で固める。
一歩目で速度を乗せ、二歩目で止まりながら斜めへ切り込む。頭の中では、そこまでの位置が見えていた。
だが、踏み込んだ左脚から力が返ってこなかった。
膝が折れたわけではない。それでも身体が狙った線から半歩外へ膨らみ、伸ばした剣は人型の背中ではなく左腕の外殻を削った。
その半歩を埋められない。
「エーベルさん!」
人型の右腕が振られた。
エーベルはこちらを見ていなかった。
荷車の車輪を指し、市職員へ何かを伝えている。
黒い腕が、その横にいた男ごと二人を薙いだ。
鈍い音とともに身体が石畳へ転がる。
人型はさらに一歩進み、逃げ遅れた男へ右腕を振り上げた。盾の兵士が追いついて間へ入ったが、衝撃を流し切れず壁際まで押し飛ばされる。
悲鳴が重なり、市職員が倒れた者を引きずる。子供を抱いた女が建物沿いへ走り、救助要員が負傷者へ向かった。同行していた兵士の一人も槍を捨てて救助へ入り、敵を四方から囲める状況ではなくなる。
エーベルのところへ行きたかったが、人型はまだ動いている。
ここで止めなければ、さらに人が倒れる。
俺は左肩の裂け目へ剣を叩き込み、刃を捻った。すでに何度も傷を重ねていた外殻がさらに裂け、人型の左腕が完全に垂れる。
返ってきた右腕を避け切れず、脇腹へまともに受けた。
身体が浮いて石畳へ転がり、口の中へ血の味が広がる。
すぐには立ち上がれなかったが、兵士二人が前へ出て人型を止めていた。盾で右側を塞ぎ、残った槍が悪い左脚へ圧力をかける。
「右へ寄せてください! 左側へ逃がす!」
声を張ると胸が痛んだ。
兵士は意図を理解し、盾の位置を少し右へずらした。人型が開いた左側へ体重を移したところで脚が遅れ、槍が膝の外側へ刺さる。
動きはまだ見えているし、敵もすでに壊れかけている。
剣を握り直して踏み込んだが、左肩の裂け目へ届く直前、人型の右手が胸元を掴んだ。
傷ついた右肩では腕を外し切れない。
次の瞬間、身体ごと石壁へ叩きつけられた。
視界が白く揺れ、剣が手から落ちる。
膝をついたまま柄へ手を伸ばしたものの、左脚が震えて身体を支えられない。立とうとすれば半分までは上がるが、その先で力が抜け、再び膝が石畳へ落ちた。
人型がこちらへ向き直る。
背後から兵士の槍が当たっても止まらず、残っている右腕を上げながら一歩ずつ近づいてくる。
俺は落ちた剣へ手を伸ばした。
指先が柄に触れた瞬間、薄赤い光が横から走った。
斜めに飛んだ一撃が人型の右腕を深く裂き、その身体を横へ揺らす。
見覚えのある色だった。
人型が振り返った先、崩れた建物の間から一人の男が歩いてくる。
暗い旅装は何か所も裂け、肩や袖には乾ききっていない血がついていた。それでも、髪際から後方へ沿う二本の角と暗赤色の目を見れば、間違えるはずがない。
セレス修道院で、俺たち五人を相手にした男だった。
「……お前」
男の視線が一瞬だけ俺へ落ちる。
「まだ動けるか」
「敵か味方か、どっちだ」
「今それを決める必要があるのか?」
黒い人型が相手を変え、左脚を引きずりながら男へ向かった。
男は細身の剣を抜いたものの、正面から力を受けようとはしない。右側へ薄赤い斬撃を走らせ、人型がそれを右腕で払おうと身体を捻った瞬間、重心が傷ついた左脚へ移った。
膝が沈む。
そこへ男が入った。
俺たちが何度も削った左肩の裂け目へ細身の剣を差し込み、そのまま外側へ身体を抜く。壊れかけた肩がさらに大きく裂け、人型の上半身が傾いた。
振り戻された右腕を一歩退いて外し、今度は薄赤い斬撃を左脚へ通す。
もともと悪かったうえに、兵士たちの槍で傷ついていた脚が支えを失い、人型は石畳へ崩れた。
それでも右腕を使って起き上がろうとする。
男は無理に正面へ入らず、再び左肩側へ回ると、すでに開いていた裂け目へ剣を深く通した。
黒い身体が大きく震え、石畳を掻いていた右腕から力が抜ける。
動かなくなっても、誰もすぐには武器を下ろさなかった。
兵士の一人が槍を構えたまま人型を見張り、角の男も剣先を下げただけで、俺たちへ背中を向けようとはしない。
「止まった」
「……何をしに王都へ来た」
剣を拾って立とうとしたが、左脚が震えて身体が上がらなかった。近くの兵士が腕を貸してくれたものの、角の男から視線は外さない。
「無理に立つな」
「質問に答えろ」
「これを止めに来た」
男は足元の黒い人型を剣先で示した。
「王都だけじゃない。北でも似たものが動いている」
「北でも?」
それ以上は答えず、男は剣を下げたままこちらを見る。
セレス修道院でフィアナを力ずくで連れて行こうとした事実は消えていない。この男が俺たちより多くを知っていることも、何をどこまで隠しているのか分からないことも同じだった。
「フィアナはここにはいない」
「探していない」
「なら、今度会った時も連れて行かないと?」
「そこまで約束した覚えはない」
兵士たちの槍先が少し上がる。
男はそれを見ても剣を構え直さなかった。
「ただし、今ここでお前たちと争うつもりもない」
「名前くらい聞かせろ」
暗赤色の目が俺を見る。
「ヴァレク・ノルガ」
セレスの地下では聞けなかった名前だった。
「アレン・クロイツ」
「知っている」
ヴァレクはそれだけ答え、動かなくなった黒い人型へ視線を落とした。
「まだ動いているものはいる。地下へ近づくなら気をつけろ。見た目や動きが似ていても、全部が同じものとは限らない」
「どういう意味だ」
「俺にも全部は分からん。北でも調べているが、今ここで話せることは多くない」
聞きたいことはいくらでもあった。
それでも背後から呻き声が聞こえた瞬間、俺はそちらを振り返った。
石畳には何人もの人が倒れ、救助要員がすでに動いている。
「担架を! こっち二人重傷!」
「この人は息が浅い、先に運ぶぞ!」
「子供は無事だ! 母親と一緒に北へ回せ!」
今ここで優先するものは決まっていた。
ヴァレクへ向き直る。
「……行くなら止めない。ただ、次にフィアナへ手を出したら、俺は敵として見る」
「好きにしろ」
返ってきたのは、それだけだった。
俺は兵士の肩を借りながら、倒れた人たちの方へ向かった。
最初に目に入った市職員は胸元から出血しており、横に膝をついていた救助要員がすでに首を振っている。
その少し先に、エーベルが倒れていた。
「エーベルさん」
呼んでも返事はない。
すぐそばには記録板が落ち、留め具の外れた道路図が何枚か石畳へ散っていた。その一枚には、今いる通りを東へ抜け、別の北上路へ接続する線が引かれている。
測量用の縄と短い木の定規も落ちていた。
少し離れた場所には、厚い作業用手袋が片方だけ転がっている。
俺はゆっくり膝をつき、首筋へ指を当てた。
何も返ってこない。
「……エーベルさん」
もう一度呼んでも、その身体は動かなかった。
胸の奥へ何かが沈んでいったが、今はまだ形にならない。
すぐ近くで、市職員の一人が道路図を拾い上げる。
「これ、エーベルさんが確認していた道です」
別の職員が、止まっている荷車の先を見た。
「北上路までは通せると言っていました。先の角も確認済みです」
「なら動かすぞ。負傷者から先だ。右へ寄せすぎるな、路肩が落ちる!」
声が飛ぶと、人がまた動き始めた。
止まっていた荷車の車輪がゆっくり回り、エーベルが指示していた通り、崩れた側を避けて左へ寄せられる。ひび割れた場所を一台ずつ抜け、その後ろを杖をついた老人と、それを支える市職員が進んでいった。
母親に手を引かれた子供も続き、その後ろを担架が通る。
最後の荷車まで同じ場所を抜けていくのを、俺はエーベルの横から見ていた。
車輪が石畳を擦る音が、暗くなった通りの向こうへ遠ざかっていく。
彼が確かめ、通した迂回路を、最後の避難列が北へ抜けていった。




