第68話 三つの射線
北東へ向かう伝令について大通りを抜ける頃には、西の空に残っていた赤みもかなり薄くなっていた。
昼過ぎに王都の各所で地面が割れてから、私は一つの戦区に留まっていない。守備線へ大型のオーガが食い込めばそちらへ向かい、別の区画で飛竜が屋根を越えて避難路へ入り込めば、今度はそこへ回った。小型の魔物なら兵士や冒険者が隊列を組めば対処できるが、大型が一体混じるだけで守備線が崩れ、その穴から他の魔物まで流れ込む。そういう場所を潰しては、次の急報へ向かうことを繰り返していた。
外套の裾には泥と灰がこびりつき、剣にも細かな刃こぼれが増えている。魔力も昼頃ほど余ってはいないが、まだ戦える。だから北東で統制体が三体確認されたと聞いた時も、足を止める理由はなかった。
「この先です!」
前を走る伝令が、曲がり角の向こうを指した。
その先から人の叫び声に混じって、石や木材が砕ける音が続けて聞こえてくる。角を抜けたところで、伝令の説明を待つまでもなく状況は見えた。
北へ伸びる大通りを避難民の列が埋めている。
走れる者ばかりではない。子供の手を引く者、老人を支える者、負傷者を乗せた荷車や担架も混じり、その両脇を守備隊が囲んでいた。路面には焼けた溝がいくつも走り、横倒しになった荷車のそばでは兵士が負傷者を担架へ移している。その少し先には、頭まで布を掛けられた人間も二人いた。
南側から迫っている黒い獣は、見えるだけでも数十体。
さらにその向こう、広くなった交差路に三体の統制体が立っていた。三体は固まらず、中央と左右へ間隔を取り、それぞれ別の角度から避難路を見通せる位置にいる。
「『嵐冠』!」
盾を持った男がこちらに気づいた。肩の装備と周囲の反応を見る限り、この辺りをまとめている指揮官らしい。
「避難列がまだ後ろから続いています。黒い獣がこちらの前衛をほとんど相手にせず、住民ばかり狙っています!」
「照射も?」
「同じです。止めようとすると統制体が前へ出てきます」
男が言い終わるより先に、一頭の黒い獣が盾列の隙間を抜けた。
私との方が近い。
それでも黒い獣はこちらへ顔を向けることさえなく、避難列へ向かって走る。
横から風を叩き込むと、巨体が石畳を離れ、後続の二頭を巻き込みながら建物側へ転がった。外殻が壁へぶつかって鈍い音を立てたが、すぐに一頭が立ち上がり、また北へ向こうとする。
「避難はそのまま続けて。私が群れを道の外へ押す」
指揮官がすぐに頷き、周囲へ声を飛ばした。
「中央を空けろ! 盾は両脇へ寄せろ! 押し戻された個体だけ止めろ、追うな!」
兵士たちの配置が変わる。
私は通りの中央へ出て、黒い獣の群れを見た。
全部を倒す必要はない。避難列へ届かせなければいい。
通りを横切るように風を広げ、中央へ寄っていた群れの横腹へ叩きつける。先頭の数頭が浮き上がり、その後ろへぶつかったところへ風を重ねると、十頭近い黒い獣がまとめて左右へ押し流された。
建物へ叩きつけられた個体も、石畳を転がった個体も、それだけでは止まらない。それでも起き上がるまでの時間があれば十分だった。
守備隊が壁際へ寄った個体を槍で牽制し、中央の避難路を空ける。
その時、三体のうち右側にいた統制体が頭部を動かした。
縦の溝が白く光る。
向いている先には、負傷者を乗せた荷車があった。
「そのまま行って!」
避難民との間へ入り、剣を斜めに構える。
刃の周囲へ風を幾重にも重ね、流れを一方向へ揃えた直後、白い線が伸びた。
剣へ触れた瞬間、右腕へ強い衝撃が突き抜ける。
受け止めない。
刃をわずかに寝かせ、それに合わせて風の向きを変えると、白い線は剣身を滑るように横へ逸れ、通り脇の石壁を深く穿った。
焼けた剣身から煙が立つ。
右手の感覚を確かめる間もなく、風の流れが大きく乱れた。
中央の統制体が距離を詰めている。
黒い前腕が横から振られたので、剣で受けずに風を間へ入れて軌道を上へ逃がした。それでも完全には外れず、前腕の端が左肩をかすめ、防具越しに身体を押し飛ばす。
足元へ風を巻いて姿勢を戻し、石畳を滑りながら止まった。
肩は痛むが、左腕はまだ動く。
統制体は追撃してこなかった。
こちらを殴っておきながら、すでに頭部を避難列へ戻している。
三体とも同じだった。
黒い獣は私を無視して避難民へ走り、統制体も射線が通る場所を探し続けている。私がその邪魔をした時だけ、近接で排除しようとする。
「黒い獣は私が外へ寄せる! 壁際から戻る個体だけ止めて!」
「了解! 第一列、前へ出るな! 避難の速度を落とすな!」
指揮官の命令に合わせて盾兵が下がり、槍兵がその後ろへ入る。
これなら兵士たちは黒い獣を倒すことに人数を取られず、避難路を保てる。
私は中央へ出てきた統制体へ向かった。
風を身体の後ろへ集めて踏み込むと、黒い腕が上がるより先に懐へ入る。振り下ろされた前腕を横へ流し、その勢いのまま統制体の上体へ強い横風をぶつけた。
巨体が傾く。
人間なら転ぶほどの風でも、統制体は脚を滑らせただけだったが、それで姿勢は十分に崩れた。
剣へ雷をまとわせ、外殻の重なる脇腹から胸元へ斜めに斬り上げる。
硬い。
一度では抜けない。
風を剣の進む方向へ重ね、雷を流し込むと、黒い外殻が割れた。
統制体が腕を振り返すより早く一度離れ、今度は崩れた石畳の盛り上がりを踏み台にして風で身体を持ち上げる。傾いた上体の首元へ剣を差し込み、さっき割った外殻の内側へ雷を流した。
巨体が震え、そのまま片膝をつく。
そこへさらに風を横から押し込み、首の角度が変わったところへ刃を深く通した。
統制体は石畳へ倒れた。
「一体停止!」
兵士の声が上がった直後、別の方向から怒声が重なった。
「左から来るぞ!」
残る二体の背中で板状の構造が開き、それまで中央へ寄っていた黒い獣の群れが左右へ割れた。
私は左へ大きく流れた群れへ風を向ける。
建物側から斜めに押し込むと、先頭の数頭が後続と絡み、そのまま壁際へ転がった。守備隊は追わず、中央へ戻ろうとした個体だけを槍で止める。
右側では盾列が黒い獣を受け止めていた。
前脚を固定した一頭を見て、指揮官が声を上げる。
「下がれ! 杭が来る!」
盾兵が左右へ開いた直後、白灰色の杭が石畳を抉った。
その隙へ後列の槍が伸び、前脚の付け根へ入る。
守備隊は持っている。
なら、私は統制体を見る。
残った二体のうち一体がこちらへ距離を詰め、もう一体は交差路の奥に留まっていた。
奥の個体が頭部を動かす。
狙いはまた避難列だった。
白い線が放たれる前に風を頭部へ当てるが、それだけでは向きを変えきれない。こちらへ近づいていた統制体の腕も同時に来る。
前腕を外へ流しながら身体を捻り、照準を取っている方へ風を強める。
白い線は避難民のすぐ後ろを通り、路面を焼いた。
直撃は避けたが、砕けた石が飛び、最後尾にいた兵士が一人倒れた。
「担架!」
近くの兵士がすぐに駆け寄る。
私はそちらへ行かない。
行けば次の射線を止める者がいなくなる。
黒い獣が中央へ戻ろうとしているので、広げた風をもう一度通りへ流した。何頭もまとめて押し返したところで、近づいていた統制体の前腕が再び振られる。
今度は避けるだけなら間に合った。
けれど、ここで風を切れば押し返しかけた群れが戻る。
流れを維持したまま身体を捻り、直撃だけを外した。
黒い腕が脇腹へ当たる。
防具越しでも息が止まり、身体が横へ流された。
倒れずに足を残したものの、深く息を吸うと左の脇腹が痛んだ。
それでも、黒い獣の群れは壁際へ押し込めている。
「中央を空けたまま! 倒しに行かなくていい!」
指揮官がこちらの意図をそのまま命令へ変え、兵士たちが配置を維持する。
奥の統制体が再び頭を上げた。
今度は縦の溝が、さっきより強く白くなっている。
狙われているのは、通りの中央に固まった避難民だった。
あれは剣で受けられない。
私は群れへ広げていた風を一部だけ残し、統制体へ向かって走った。
頭部へ横から風を集中させる。
巨体が踏ん張り、照準を戻そうとする。
白い光がさらに強くなる。
風だけでは足りない。
肩の継ぎ目へ剣を突き込み、雷を流した。
上体がわずかに揺れたところへ、頭部へ当てていた風を一気に強める。
発射された光は避難列から外れ、通り沿いの建物へ突き刺さった。外壁を抜き、奥まで石と木材を吹き飛ばしていく。
その破壊を確認した瞬間、背後から来た衝撃で身体が浮いた。
もう一体の統制体が追いついていた。
風を挟んだものの、左肩から胸の上へ前腕を受け、石畳へ叩き落とされる。
路面へ背中が当たる直前に風を回したが、衝撃までは消えない。
左肩に鋭い痛みが走り、腕を上げようとしても途中で止まった。
「クラウディアさん!」
兵士がこちらへ向きかける。
「列を見て!」
声を返しながら右手で剣を支え、立ち上がる。
私を倒した統制体は、やはり追撃していない。
避難民の方へ頭部を向けている。
こちらを仕留めるより、後ろの人間を殺す方を優先しているなら、その間は私にも動く時間がある。
黒い獣の群れがまた中央へ集まり始めた。
風を一方向から押しつけるのではなく、左右から挟む。
前列の個体同士がぶつかり、脚を絡ませて崩れたところへ後続が重なった。
「荷車を使え!」
指揮官が叫び、兵士たちが横倒しになっていた荷車を押し出した。
折り重なった黒い獣の後ろへ斜めに差し込み、中央へ戻る道を狭くする。
これで少し時間ができる。
私は充填照射を外した統制体へ向かった。
肩の継ぎ目には、さっき剣を入れた傷が残っている。
統制体は避難列へ頭を向けたまま、こちらへ片腕だけを振る。
風で軌道を外へ流し、その内側へ潜り込む。
傷口へ剣を差し込み、雷を流しながら風を外殻の内側へ入れた。
黒い板が浮き上がる。
そこへさらに刃を押し込み、開いた箇所から首元へ斬り上げた。
統制体がようやく身体ごとこちらへ向き直る。
それより早く、横倒しになった荷車の車体へ一度足を掛け、風で身体を上へ運ぶ。
高さを稼いだところから首の継ぎ目へ刃を叩き込み、雷を流した。
黒い外殻が割れる。
着地と同時に風を横から当てると、統制体の上体が傾き、そのまま建物側へ倒れ込んだ。
二体目が止まったところで、残る一体の背部が大きく開いた。
同時に、黒い獣の動きが変わった。
左右へ散っていた個体が一斉に中央へ戻ろうとする。
私は通り全体へ風を広げ、殺到する群れの横腹へ叩きつけた。
十頭以上がまとめて押し流され、後続も前へ出られなくなる。
その代わり、魔力が大きく減った。
昼から何度も大型を相手にしてきた疲労も、今になって身体の奥から重く返ってくる。
それでも目の前の一体だけなら、まだ問題はない。
問題なのは後ろだった。
「避難はどこまで?」
「あと少しです!」
指揮官が列の後方を確認する。
「負傷者の荷車が二台、その後ろに市職員と守備隊! そこまで抜ければ終わります!」
「列を止めないで」
残る統制体が前へ出てくる。
頭部は避難列へ向いたまま、腕だけで私をどかそうとする。
前腕の軌道を風で外しながら、その脇を抜ける。
白い線が来る。
射線の先には担架を運ぶ兵士がいた。
私はその間へ入った。
剣へ風をまとわせ、照射を斜めに受ける。
最初より強い衝撃が右腕へ抜け、刃の一部が弾け飛んだ。
それでも風を切らさず、剣の角度を少しずつ変える。
白い線は横へ滑り、最後には石畳へ落ちて深い溝を残した。
右手から肘まで痺れている。
剣身も何か所か焼け、根元近くまで細い亀裂が入っていた。
もう同じ受け方は何度もできない。
黒い獣が右側から抜けようとするので、風で建物側へ寄せる。左では盾兵が並び、中央へ戻ろうとした個体だけを槍で止めていた。
避難列の最後に近い荷車が、瓦礫へ車輪を取られて止まる。
「押せ!」
兵士と市職員が車体へ集まった。
黒い獣が五頭ほど進路を変える。
私はそちらへ風を集中させ、先頭の数頭をまとめて横へ押し流した。残る個体へ守備隊が槍を入れている間に、荷車の車輪の下へ風を差し込み、瓦礫を越える瞬間だけ軽く持ち上げる。
車体が動き出した。
その時、統制体の頭部が強く光った。
狙いは荷車だった。
剣では止められない。
統制体へ走りながら頭部へ横風を集中させる。
巨体が踏ん張り、照準を戻そうとした。
白い光が増していく。
肩の継ぎ目へ剣を入れ、上体ごと引くように風をぶつける。
発射された光は荷車の後ろを抜け、建物の角を大きく削った。
崩れた石材が路面へ落ちる頃には、荷車はすでに角を曲がっていた。
「最後尾、抜けます!」
守備隊の声が飛ぶ。
市職員が走り、負傷した兵士を二人が支えている。その後ろを盾兵が下がりながら追い、最後の一人が北側の曲がり角へ消えた。
「全員抜けたか!」
「確認しました! 避難列は北側へ入りました!」
指揮官の声を聞いた直後、残る統制体の頭部が北を向く。
縦の溝が白く光った。
私は動かなかった。
白い線が大通りを抜け、もう誰もいない石畳と建物の壁を穿つ。
今までなら、その間へ入っていた。
今回は入る必要がない。
照射が通り過ぎる間に、通り全体へ広げていた風を身体の周囲へ戻した。
統制体との距離を一気に詰める。
横から振られた前腕は身体を沈めて外し、続くもう一方も風でわずかに軌道を持ち上げるだけで抜けられた。後ろの誰かへ当たる心配がなければ、受け止める必要も、射線へ割り込む必要もない。
次の照射も避けた。
白い線が背後の建物を穿つ間に側面へ回り、風で統制体の上体を大きく傾ける。
膝を狙って細かく崩す必要もなかった。
使える風を全部こちらへ回せるなら、姿勢ごと奪えばいい。
統制体が踏ん張ろうとした側へさらに風を重ね、反対側から雷をまとわせた剣を外殻の継ぎ目へ叩き込む。
巨体が大きく傾いた。
近くに積み上がった瓦礫へ足を掛け、風で身体を押し上げる。
欠けた剣を首元へ深く差し込み、雷を流しながら外殻の隙間へ風を集中させた。
黒い板が割れ、内部で何かが弾ける。
統制体は数歩よろめき、こちらへ腕を伸ばしかけたところで力を失い、石畳へ倒れた。
その直後まで北へ殺到していた黒い獣の動きが崩れる。
互いに進路を空ける動きが消え、近くの兵士へ向きを変える個体もいれば、北へ走り続けようとして盾列にぶつかる個体もいた。
「連携が切れた! 追いすぎるな! 二人以上で当たれ!」
指揮官の命令に兵士たちが応じ、通りの左右で盾と槍の列が組み直される。
私も残った黒い獣へ向かおうとしたが、一歩踏み出したところで左肩から脇腹まで痛みが走り、身体が思ったほど前へ出なかった。
「クラウディアさん、残りは我々で押さえます」
指揮官がこちらへ来る。
通りを見ると、統制を失った黒い獣を守備隊が数頭ずつ切り分け始めていた。負傷者の回収にも人が回り、中央の避難路を守る必要ももうない。
「分かった。任せる」
剣を下ろしたところで、近くにいた治療師が駆け寄ってきた。
「座ってください。左肩を見ます」
壁際まで歩き、背を預ける。
右手に残った剣は何か所も欠け、照射を逸らした部分は黒く焼けていた。左腕は肩より上へ上がらず、脇腹も深く息を吸えば痛む。
治療師が防具を外せる箇所から確認している間、指揮官は伝令を一人呼び止めた。
「中央へ。北東で確認された統制体三体はすべて停止。黒い獣は残っているが連携は崩れた。避難列は北側へ抜けたと伝えろ」
「はっ!」
伝令が薄暗くなった通りを走っていく。
その背中の向こうでは、まだ兵士たちが黒い獣と戦っていた。
金属のぶつかる音も、負傷者を呼ぶ声も続いている。
それでも、三体の統制体が狙い続けていた北への道には、もう避難民の姿は残っていなかった。




