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第66話 左の剣

「エルンスト、右だ!」


 声が飛んできた時には、もう見えていた。正面から迫る黒い獣が右の前脚を持ち上げるのを見て懐へ踏み込み、振り下ろされるより早く右の剣で肩の継ぎ目を裂く。


 そのまま身体の横を抜ける頃には、爪が背後の石畳を砕いていた。跳ねた石片の音を聞きながら振り返り、首元へ左の剣を滑り込ませる。


 一度は外殻に止められたものの、そこで力比べをする必要はない。刃を抜く動きに合わせて外へ回り、先ほど傷をつけた肩へ反対側から斬り込むと、姿勢を崩した黒い獣の首がわずかに下がった。


 そこへもう一度刃を通すと、今度は深く入った。


 脚から力の抜けた巨体が横へ傾き始めたが、倒れるところまで眺めている暇はない。次の気配へ向き直った時には二体目がすでに間合いへ入り、横薙ぎに振られた前脚が目の前を通ろうとしていた。


 半歩下がって爪の先を外し、振り切られる前から距離を詰める。伸びきった前脚の内側を右の剣で裂き、こちらへ首を振ったところへ左の剣を滑らせたが、刃は浅いところで外殻に阻まれた。


 最初の刃が作った隙間へもう一撃を重ねると、今度は剣先が奥まで通る。獣が身体を振って逃れようとしたので距離を開けず、肩をぶつけるように詰めながら刃を横へ引くと、二体目もそのまま石畳へ沈んだ。


「二体目!」


 後ろから声が上がったので、「数えてる暇があるなら前を見ろ」と返したところで、建物沿いを別の一体が走り抜けようとしているのが見えた。


「見てる! だから言ってるんだ!」


「なら、あれも見えてるだろ!」


 黒い獣はこちらへ向かう気がないらしく、そのまま奥の避難路へ入ろうとしている。


 倒れかけた獣の背を蹴って斜めへ進路を変えた。向こうの方が先に曲がり角へ入ったものの、巨体を傾けた分だけ速度が落ちたので、そこで一気に距離を詰めて横から肩の継ぎ目を裂く。


 こちらへ首を振った動きに合わせて外側へ回り込み、後脚の付け根へ剣を入れると片脚が大きく沈んだ。倒れまいとして前脚へ体重を移したことで首の位置も下がり、左右の刃を続けて入れるには十分な隙ができる。


 一撃目で外殻を割り、二撃目をその奥へ通した。


 黒い液体を撒きながら巨体が崩れ、追いついてきた兵士が少し離れたところで足を止める。


「……速すぎるだろ」


「遅いよりいいだろ」


「そういう話じゃない」


「だったら後にしろ」


 剣についた黒い液体を振り払いながら大通りへ視線を戻すと、建物の向こうでは第1師団の本隊がまだ戦っていた。


 屋根の隙間から魔術の光が断続的に見え、その少しあとに重い衝撃が地面を伝ってくる。あの大型の人型――統制体と呼ばれ始めたものを軍が押さえ、その周囲から市街側へ漏れてくる黒い獣を、俺たちがここで止めている。


 最初に配置を聞いた時は、中途半端な役回りだと思った。本隊の戦いには加われず、かといって後ろへ下がれるほど安全でもない。


 だが実際に立ってみれば、やることは分かりやすかった。


 後ろでは北へ向かう避難列がまだ動いていて、老人も子供も、負傷者を乗せた荷車も混じっている。黒い獣を一体でもそこまで抜けば逃げ切れない人間が出る以上、ここで止めればいい。


「左の路地!」


 声に顔を向けると、大通りへ続く横道にまだ数十人ほどの避難民が固まっていた。


 北へ進む避難列が途切れず、横道から来た連中を兵士がいったん止めていたらしい。荷物を抱えた老人や子供を連れた家族が道の両側へ寄せられ、二人の兵士が大通りの流れを見ながら順番に合流させている。


 その横道へ、崩れた建物の陰から黒い獣が飛び出した。


「動かせ! 早く!」


 兵士が叫ぶと、止められていた避難民が一斉に大通りへ向かい、狭い横道の中で人の流れが急に詰まった。


 その中で小さな身体が倒れ、すぐ前を歩いていた女が振り返る。


「待って!」


 男の子だった。


 母親らしい女は人の流れに逆らって戻ろうとするが、後ろから押し出されてくる避難民とぶつかって思うように進めない。一人の兵士が女を支え、もう一人が子供へ向かって走り出したものの、黒い獣の方がずっと近い。


「前を押さえろ!」


 兵士へ怒鳴りながら地面を蹴る。


 子供は自分でも立とうとしていたが、片足が崩れた石材の隙間へ挟まっている。その正面では、黒い獣が身体を沈めながら前脚を持ち上げていた。


 今から間へ入ること自体はできるが、子供の前に立つだけでは次の一撃を受けることになる。接触したところで止めるしかない。


 斜めから一気に距離を詰め、肩の継ぎ目へ右の剣を深く叩き込む。


 振り下ろされる軌道が外れ、巨大な爪が子供の少し手前で石畳を砕いた。獣がこちらへ頭を向けたところへ左から回り、首元へもう一方の剣を入れる。


 一度は外殻に弾かれたが、角度を変えて同じ場所へ入れ直すと、今度は割れ目を捉えた。そこへ反対側からも刃を重ねて傷を広げると、黒い獣の脚から力が抜けていく。


 子供の方へ倒れかけた巨体へ肩をぶつけ、わずかに向きをずらした。重さそのものを止めることはできなかったが、横へ逸れた身体は子供には触れず、そのまま石畳へ落ちた。


「動くな」


 左の剣を鞘へ戻してしゃがみ込む。


 足首が石材の隙間へ入り、その上から別の瓦礫が崩れて挟まっただけらしい。一つを手で除け、もう一つを蹴り出すと足はすぐに抜けた。


「立てるか」


「……うん」


 何度か瞬きをしてから頷く子供の向こうで、さっきの女がまだこちらを見ていた。兵士に支えられながら何度も手を伸ばしている。


「あそこまで走れるか」


 指を向けると、子供も母親を見つけたらしい。


「お母さん……」


「なら行け。もう離れるな」


 腕を掴んで立たせると、足は問題なく動いている。


「お兄ちゃんは?」


「俺は仕事中だ。早く行け」


 背中を軽く押すと、子供は迎えに来た兵士のところまで走っていった。人の流れへ入る直前に一度だけ振り返る。


「お兄ちゃん、ありがとう!」


「前見て走れ!」


 慌てて正面へ向き直った子供は兵士に手を引かれ、その先で母親に抱き寄せられた。


 そこまで確認したところで左の剣を抜き直す。


「助かった!」


 近くにいた兵士が声をかけてきたので、「無事ならいい。それより次が来る」と正面を示した。


 主戦線側の交差路から黒い影が次々と姿を現し、先頭の後ろにもまだ続いている。建物沿いに回り込んできたものまで含めれば八体ほどおり、それを見た隊長らしい男が即座に声を張った。


「盾を前へ! 槍は二列目! 道幅を使え、広がりすぎるな!」


 兵士たちが一斉に動き、盾が通りを塞ぐように並ぶ。その隙間から槍先が前へ出たのを確認してから、俺は先頭の二体へ目を向けた。


「正面は俺が取る!」


「二体だぞ!」


「三体でもいい」


「増やすな!」


 その返事を聞き終える前に、一体目が身体を沈めて前脚を石畳へついた。杭が来ると見て正面から外れながら踏み込み、黒い杭が伸び切るより先に肩の付け根を深く裂く。


 そこへもう一撃入れようとしたところで二体目が横から飛び込んできたので、一体目の身体へ足をかけ、そのまま斜め前へ跳んだ。


 爪が背中の後ろを抜ける。


 着地した先で二体目の懐へ入り、腹側の継ぎ目へ浅く傷をつけてからすぐ距離を外した。


「右の一体、腹に傷がある!」


「任せろ!」


 兵士たちの槍が揃うのを横目に、一体目へ戻る。


 先ほど裂いた肩から首へ刃を繋げ、外殻の隙間を抜いたところで黒い獣の身体が沈んだ。倒れるのを確認して振り返ると、腹を傷つけた二体目が盾列へぶつかり、三人の兵士をまとめて押している。


 その横へ入り、伸びきった前脚の内側を斬る。


 黒い獣がこちらへ身体を向けた瞬間、待っていた槍が腹の傷へ一本、続けてもう一本入った。獣が暴れて槍を弾く間に首側へ回り込み、左右の剣で継ぎ目を続けて崩すと、巨体が前へ沈んでいく。


「次が来る!」


 隊長の声に顔を上げると、もう別の一体が盾列へ迫り、その後ろにもまだ続いていた。


 先頭へ入り、振り下ろされた爪の外側から肩を裂く。その身体を壁にして後続の進路を狭めると、よろめいたところへ兵士たちが槍を集めた。


「右を止めろ! 真ん中はこっちで取る!」


 隊長の指示に合わせて盾兵が一体を建物側へ押し込み、俺は中央に残った個体へ入る。肩を裂いたあと、振り向いた首元へもう一方の剣を滑らせたが、外殻に止められたのでそこで押し込まず、そのまま位置を変えて後脚を斬った。


 姿勢が沈んだところへ槍が入る。


 兵士たちも動けている。


 こいつらが止めた相手を俺が崩し、俺が傷を入れた相手へこいつらが槍を通せば、この数でも押し返せる。


 右端では盾を持った二人が別の一体を受けており、前脚が振り下ろされるたびに靴底が石畳を滑っていた。


「右!」


「分かってる!」


「ならあと一回だけ耐えろ!」


「簡単に言うな!」


 言葉とは裏腹に二人は盾を揃え直し、二度目の前脚を正面から受け止めた。大きく押し下がったが倒れなかったので、その横へ入り、伸びきった脚の付け根へ左右から刃を入れる。


 外殻を割ってもう一撃入れると脚が沈んだ。


「今だ!」


 兵士たちが盾を押し返したことで首の位置が下がり、空いた継ぎ目へ剣を差し込んで横へ切ると、巨体がようやく石畳へ崩れた。


 さすがに呼吸は速くなっていたが、腕はまだ軽く動き、二本の剣にも戦えなくなるほどの欠けはない。


「何体だ!」


「知らん!」


「お前が一番倒してるだろ!」


「だから数えてない!」


 言い返しながら周囲を見渡すと、最初に押し寄せてきた群れはかなり数を減らしていた。


 兵士たちが倒したものもいるし、俺が傷だけつけて渡した奴もいる。ここまで削れば、近くの人間へ食いつく個体と、開いた場所から避難路へ抜けようとする個体に分かれてもおかしくない。


 これまでは、そうなっていた。


 ところが残った黒い獣たちは距離を詰めず、通りの左右へ間を取りながら静かに位置を変え始めた。


「……何だ?」


 兵士の一人も異変に気づいたらしい。


 一体が盾列へ顔を向け、別の一体は建物側へ寄っていく。残る個体は一定の距離を保ったまま、こちらが先に動くのを待っているように見えた。


「来ないな」


「待て。追うな」


 片手を上げると、兵士たちも踏み出しかけた足を止めた。


 遠くではまだ統制体との戦闘が続いている。建物の向こうで魔術の光が上がり、重い衝撃が少し遅れて届いた。


 それを合図にしたように、黒い獣たちが一斉に動く。


 二体が兵士側へ向かい、俺の正面には一体が入った。残る個体も左右へ広がり、盾列から俺を切り離すように位置を変えていく。


「盾を崩すな!」


 兵士たちへ叫びながら、目の前の一体へ踏み込んだ。


 左の剣で肩を裂く。


 いつもなら身を引くか身体を振って刃を外そうとするところで、黒い獣は逆にこちらへ身体を押しつけてきた。深く入った刃を割れた外殻が噛み、左の剣が抜けなくなる。


 引けば外せると判断した時には、右から二体目が入っていた。


 左の剣から手を離して身体を右へ流し、前脚を脇へ通す。そのまま背後へ回ろうとしたが、逃げる先にはすでに三体目がいた。


 逆へ切り返せば最初の一体がそこを塞ぎ、手放した左の剣もまだそいつの外殻へ噛んだままだ。


「こいつら……」


 兵士側で金属音が重なったが、そちらを見る余裕はない。


 正面から来た爪を右の剣で外へ流して横へ抜けようとすると、その先へ別の個体が寄ってくる。ならば懐へ入ると腹側へ斬り込んだが、追撃に移ろうとした瞬間にはもう別方向から前脚が伸びてきた。


 身体を沈めて避け、そのまま反対側へ抜けても、そこへまた別の一体が入る。


 一度なら偶然、二度なら警戒で済むが、ここまで続けば考えるまでもない。


 こいつらは、俺が避ける先へ回っている。


「エルンスト、囲まれてるぞ!」


「見れば分かる!」


 俺の周囲に四体、兵士側へもう一体が回り、盾列との間も切られていた。


 面倒な形ではあるが、まだ抜けられる。四体全部を相手にする必要はなく、首へ傷を入れている奴を一体落とせば穴が開く。


 そいつへ踏み込み、右の剣を傷口へ入れた。一撃目で割れ目が広がり、二撃目で刃が深く沈む。


 横から一体が寄ってきたが、先に首を切り開いてしまえば構わない。身体の向きを変えながら剣を引くと黒い液体が噴き、巨体が沈んだので、空いた場所へそのまま身体を滑り込ませた。


 ところが倒れた個体の向こうから別の一体がすぐに回り込み、逃げ道へ先に身体を入れてくる。肩へ右の剣を叩き込み、身体ごとぶつかって半歩だけ押し退けた。


 開いた隙間へ入ろうとすると、今度は反対側から前脚が来た。軌道を外し、その勢いのまま首へ傷をつけて前へ踏み込む。


 まだ出られる。


 一体ずつ崩していけば、いつまでも囲いを維持できるはずがない。


 そう思っていたが、こちらが一体を退かせるたび、別の個体が空いた場所へ入り込んでくる。それも何度か繰り返すうちに、こちらの切り返しへ合わせるまでの時間が明らかに短くなっていた。


 首を裂かれた奴も、肩を割られた奴も下がらず、自分から身体を寄せ、傷を増やしてでも進路を塞いでくる。


 近くの兵士にも、後ろの避難路にも目を向けない。


 今は俺を先に潰す気だ。


 そこまで分かると、むしろ迷う理由がなくなった。


「上等だ。だったら来い」


 右の剣を構え直す。


 正面から踏み込んできた一体の前脚を外へ流し、その肩へ剣を入れる。横から来た二体目は身体を沈めてかわし、立ち上がる勢いのまま脇へ斬り込んだ。


 さらに背後から爪が来る。


 足を踏み替えて背中のすぐ外へ通し、正面へ戻りながら最初の一体へもう一撃を入れると、深く裂かれた肩が沈んだ。


 そこへ別の個体が身体ごとぶつかってきたので外へ逃れ、一瞬だけ開いた前へ踏み込もうとする。


 また塞がれた。


 さっきより速い。


 右前脚を傷つけた個体が見えたので、あれを崩せばもう一度道が開くと首へ剣を入れる。最初の一撃は外殻に弾かれたが、二撃目で割れ目を作り、その奥へもう一度通そうとしたところで背後から爪が来た。


 身体を捻ってかわし、そのまま前へ抜けると、目の前にも一体いた。


 剣を振るだけの間がないので肩からぶつかり、相手の方が圧倒的に重い身体を半歩だけずらす。


 隙間はできた。


 そこへ身体を入れた瞬間、首を傷つけた個体が横から身体を押しつけてくる。普通なら戦い続ける方がおかしい傷なのに、それでも退かない。


 押された右肩が流れ、わずかに姿勢を崩したところへ正面から別の個体が入ってきた。


 右へ逃げれば、その先にもいる。


 今度は間に合わない。


 黒い獣が振り上げた前脚の先にあるのは、俺の胸だった。


 まともに入れば終わる。後ろへ下がる場所はなく、左右も塞がれているが、それでも頭と胸だけなら外せる。


 左手を伸ばし、すぐ近くまで寄ってきていた黒い獣の外殻へ噛んだままの剣、その柄を掴んだ。力任せに引くと刃が途中で引っかかったが、身体ごともう一度引いたところでようやく外れる。


 そのまま左の剣と腕を身体の前へ入れ、上体を捻った。


 前脚が剣へぶつかる。


 金属が押し潰されるような音とともに、左肩から身体の奥まで凄まじい衝撃が突き抜けた。何かが折れた感触だけが一瞬遅れて伝わり、身体ごと石畳から浮き上がる。


 空と建物が視界の中で入れ替わった。


 肩から地面へ落ち、そのまま背中まで強く打ちつけられる。肺の中の空気を全部押し出され、しばらく息を吸うことさえできなかった。


 それでも意識はあり、右手には剣が残っていた。


 左腕へ力を入れようとした瞬間、肩の奥で激痛が弾ける。


 その先は動かない。


 潰れた防具の下で腕が途中から不自然な向きへ折れ、血が流れている。それなのに、指先から肘にかけては痛みさえほとんど返ってこなかった。


 確認している間にも、さっき肩と首を裂いた黒い獣がこちらへ近づいてくる。


 まだ死んでいないなら、先に殺す。


 右手を石畳につき、身体を起こそうとする。左へわずかに体重がかかっただけで肩から脇腹まで痛みが走り、視界が暗くなったが、立てなくても膝まで起こせれば剣は届く。


 黒い獣が前脚を持ち上げたことで首が下がった。


 落ちてくる爪の外へ身体を倒しながら、右の剣を傷口へ突き込む。


 刃は途中で止まり、黒い獣が首を振ったせいで右腕ごと持っていかれそうになったが、柄を握り直して身体そのものを前へ寄せた。


「舐めるな!」


 両手で押せないなら、残った身体を使えばいい。


 刃が少しずつ奥へ入り、最後に横へ引くと傷が大きく開いた。顔へ黒い液体が飛び、力を失った巨体がこちらへ傾いてくる。


 右へ身体を転がして下敷きになるのを避けたところで左肩が石畳へ触れ、息が詰まったが、それでも一体は仕留めた。


「エルンスト!」


 兵士がこちらへ来ようとしたので、すぐに止める。


「来るな! そっちを見ろ!」


 一体が兵士の横へ回っている。


 男が慌てて盾を向けたところへ、さらに外側からもう一体が来た。


「右にもいる!」


 兵士が向きを変え、盾で一体目を受けながら隣の男が槍を二体目へ向ける。


 立てないなら、見えているものを使わせればいい。


「前のやつ、左前脚の内側に傷がある! 盾の右から槍を入れろ!」


「ここか!」


「もっと内側だ!」


 二本目の槍が深く入り、黒い獣の姿勢が崩れる。


「今だ、押せ!」


 兵士たちが盾を前へ出したことで一体は止まったが、もう一体はこちらへ顔を向けた。


 まだ俺を狙っている。


 右の剣を握り直し、膝立ちのまま迎える位置を探していたところで、背後から声が飛んだ。


「伏せろ!」


 聞き覚えがあったので、考えるより先に身体を低くする。


 頭上を黒い爪が抜けるのとほぼ同時に、横から入った剣が前脚へ斜めに触れ、こちらへ落ちるはずだった軌道を外へ流した。


 爪が石畳へ食い込む。


 その内側へ黒髪の男が入った。


 左上腕には血が滲み、右肩の防具も傷んでいる。踏み込むたびに左脚の動きがわずかに鈍るのが見えたが、それでもアレンは止まらなかった。


「左の脚を頼む! 倒しきらなくていい!」


 後ろから来た兵士と冒険者が応じ、槍が二本、黒い獣の脚へ向かう。アレンは肩へ一撃入れただけで深追いせず、別の個体が寄ればすぐに位置を変えた。


「そっちは止めてくれ!」


 別の冒険者が回る。


 アレンは一体目へ戻り、兵士が崩した脚の横から首元へ剣を入れた。


「アレン……」


 ようやく声を出すと、本人が一瞬だけこちらを見る。


「喋れるなら大丈夫だな」


「どこを見て言ってやがる」


「顔」


「腕を見ろ」


「見えてる」


 それだけ言って前へ向き直るのが、妙に腹立たしかった。


「エルンストを下げろ! 二人!」


「まだ動く!」


 右の剣を石畳へつき、身体を起こそうとする。


 膝までは立ったが、そこから右足へ体重を移した瞬間に左肩から背中まで痛みが走り、脚から力が抜けた。


 倒れる前に兵士が脇へ入る。


「動いてないじゃないですか!」


「右は動くだろ!」


 アレンが黒い獣の前脚を外しながら、一瞬だけこちらを見た。


「立ててから言え」


「てめえ……!」


「立てるなら勝手に来い!」


 こちらへ手を貸すつもりはないらしく、そのまま敵へ向き直った。


 余計に腹が立ったので、もう一度右足へ力を入れてみたが、少し身体が浮いたところで左へ傾き、結局兵士の肩へ体重を預けることになった。


「ほら」


「前向け!」


「向いてる!」


 アレンの剣が黒い獣の肩へ入り、その横から槍が伸びる。別の冒険者も反対側へ回り、残った個体を兵士の列へ近づけさせていない。


 俺を支えている兵士は二人いる。


 こいつらまでここへ残しておく方がまずい。


「分かった。下がる」


「最初からそうしてください!」


「うるさい。右は使える」


「歩けないでしょう!」


「お前、あとで覚えとけよ」


「生きてからにしてください!」


 言い返そうとしたところで、大通りの向こうから大きな衝撃が届いた。


 建物の窓が震え、壁から細かな石が落ちるほど地面が揺れ、何か重いものが倒れたような音が長く響く。


 少し遅れて、人の声が上がった。


 最初は遠くて聞き取れなかったものが、いくつも重なるうちにはっきりした言葉になる。


「倒した!」


「統制体が落ちたぞ!」


「第1師団がやった!」


 兵士たちの顔が変わった。


 歓声を上げる余裕まではない。


 目の前にはまだ黒い獣がいる。


 ただ、その動きは明らかに変わっていた。


 アレンを左右から挟もうとしていた二体のうち、一体が急に近くの兵士へ向きを変え、もう一体はそのまま正面へ出る。互いの空いた場所を埋めることもなく、それぞれ近い相手へ食いついていった。


 さっきまで俺の逃げ道を塞ぎ続けていた動きが消えている。


「連携が切れた! 押せ!」


 盾が前へ出て、その隙間から槍が続く。


 アレンも一体へ入り、肩へ傷をつけたところですぐに離れた。その横から兵士が槍を入れ、さらに冒険者が首へ斬り込む。


 もう群れとしては動いていない。


 それなら、この人数で押し返せる。


 兵士に支えられたまま通りを見渡すと、倒れた黒い獣がいくつも転がっていた。誰が最後を入れたのか分からないものもあれば、俺が傷をつけたあと兵士に任せたものもある。


 その間に、折れた剣が落ちているのが見えた。


「待て。あれを拾ってくれ」


「剣ですか?」


「ああ」


「折れてますよ」


「見れば分かる。置いていくな」


 兵士は一瞬だけ俺の顔を見たものの、何も言わず別の男へ声を飛ばした。


 左の剣は途中から刃がなくなり、鍔の近くまで黒い液体と自分の血がついている。


 右手には、もう一本が残っていた。こちらも細かな欠けはあるが、まだ折れてはいない。


「治療師!」


 誰かが呼ぶと、二人が通りの奥から走ってきた。


 一人は俺の左側へ回り、潰れた防具を見たところで手を止める。


「その腕には触らないでください。支えている方も、今の位置から動かさないで」


「防具は外さないのか」


「ここでは外しません。ずれれば出血が増えるかもしれません」


 治療師は肩の周囲を確認しながら血の出ている場所へ布を当て、もう一人が添え木と紐を準備している。


 手際は速かったが、顔つきだけが気になった。


「骨は?」


「今は聞かないでください」


「聞いてるんだが」


「答えられる状態じゃないという意味です」


 肩の付け根を強く押さえられると、そこには確かな痛みがあるのに、その先からは何も返ってこない。


 左手を見る。


 指は血と黒い液体で汚れているものの、形は残っていた。


 動かそうと力を入れてみるが、肩の奥が痛んだだけだった。もう一度試しても、指先は少しも動かない。


「これ、戻るか」


 治療師の手が一瞬だけ止まり、すぐに布を締め直した。


「まず止血します」


「答えになってない」


「ここでは判断できません」


「分からないのか」


 少し間を置いてから、治療師は誤魔化さずに答えた。


「……分かりません」


 それ以上は聞かなかった。


 担架が運ばれてくる。


「乗せます」


「歩ける」


「さっき立てませんでしたよね」


 治療師は相手にせず、兵士たちへ合図した。


 身体を持ち上げられた時、左肩がわずかに揺れただけで、奥歯を噛まなければ声が出そうになった。


 担架へ背中を預けると、折れた左の剣を拾った兵士が近づいてくる。


「これでいいですか」


「ああ。横に置いてくれ」


 刃先のなくなった剣が担架の脇へ置かれたが、右の剣だけはまだ手放さなかった。


「そっちも預かります」


「これはいい」


「治療所で邪魔になりますよ」


「着くまで持つ」


 兵士は俺の顔を見てから、「分かりました」と諦めた。


 担架が持ち上がる。


 通りの向こうではまだ戦闘が続いているが、聞こえてくる音はさっきまでと違っていた。黒い獣同士が噛み合うように動く気配は消え、兵士たちの号令がはっきり通っている。


 アレンもその中にいた。


 一体の前脚を外しながら兵士へ何か叫び、その横から別の冒険者が入る。


 訓練場で一度、俺が倒した男だった。


 今は、そいつに命を拾われた。


 どう受け止めればいいのかはまだ分からないが、少なくとも借りを作ったことだけは間違いない。


 担架が避難路へ曲がると、さっき家族連れが足止めされていた横道が見えた。


 もう避難民の姿はなく、あの子供が母親のところまで戻ったのは自分の目で見ている。それなら今は、あとのことを考える必要もない。


 視線を戻す。


 左腕はまだ肩から繋がり、折れた左の剣も担架の脇に置かれていた。


 それでも治療所へ着くまで、左の指先が動くことも、感覚が戻ることもなかった。


挿絵(By みてみん)

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