第62話 群れの中心
あの人型を倒さない限り、この戦場は立て直せない。
そう判断したところで、こちらが自由に動けるわけではなかった。人型を守るように戻ってきた黒い獣が三体、その向こうでは中央の亀裂からさらに一体が地上へ這い上がろうとしている。
「ヴァルター、左の二体を引いてくれ。残りは人型へ近づけさせるな」
「分かった。お前は?」
「もう一度、あいつの懐へ入る」
私を含めて八人を前へ出したが、全員を一か所へ集めるつもりはない。ヴァルターと剣士二人が左へ回り、戻ってきた黒い獣を引き受ける。右側は二人で一体を抑え、マレーネとエミルには人型から距離を取らせた。
人型の正面だけが空く。
頭部がこちらへ向いた時には、もう横へ動き始めていた。縦の溝が白く瞬き、半歩前までいた場所の石畳に深い穴が開く。
そのまま距離を詰めると、今度は長い右腕が持ち上がった。
横薙ぎに来た前腕へ盾を斜めに差し込み、正面から止めずに軌道だけを外す。それでも肩まで強い衝撃が抜けて足を一歩持っていかれたが、姿勢を戻すより先に身体を横へ滑らせた。
長槍の穂先を膝裏の継ぎ目へ当てる。
外殻そのものを突いた時とは違い、わずかに刃が入った。人型が脚を引いたところで無理には追わず、すぐに槍を抜く。
「アルノルト、右だ!」
ヴァルターの声に合わせて身体を外へ逃がすと、黒い獣が私のいた場所へ飛び込んできた。
人型へ手を出した途端、こちらへ戻ってくる。
「やっぱり守ってるな!」
「ああ。そこは使える」
ヴァルターが迫った黒い獣の前脚を長槍で外へ流したところで、その後ろにいた一体が脚を大きく開いた。
「杭が来る!」
左右へ散った直後、石畳を砕いて杭が伸びる。
人型が現れてから前脚の打撃を多く使っていたが、杭を使えなくなったわけではない。こちらの足を止められる場面なら、迷わず杭を使ってくる。
さらに厄介なのは、その次だった。
杭を避けて左へ動いた剣士の先へ、別の黒い獣が先回りしている。男が進路を変えたところで、人型の頭部まで同じ方向へ向いた。
「止まるな、そのまま抜けろ!」
剣士も気づいたらしく、正面の黒い獣へあえて踏み込んだ。剣を外殻へ当てながら身体を横へ滑らせ、頭部の正面から外れた直後、白い線が背後を通り抜ける。
避け切ったところへ、今度は黒い獣の前脚が振られた。
剣で軌道をずらしたものの身体は大きく傾き、ヴァルターが間へ入らなければ、そのまま次の一撃を受けていただろう。
一つずつなら対処できるのに、一つを避けた先へ次の攻撃を重ねられるせいで、こちらの動きが少しずつ縛られていく。全員が目の前の相手だけを見ていては、いずれ押し切られる。
「マレーネ!」
「聞こえてる!」
「人型の足元を止められるか?」
「一瞬ならね!」
「それでいい。エミルは動いた方の足を邪魔してくれ」
「了解!」
人型の右足を中心に冷気が走り、石畳から薄い氷が這い上がった。
人型が踏み出すと氷そのものは簡単に砕けたが、その一歩がわずかに遅れる。そこへエミルが地面を隆起させ、踵の内側へ石を噛ませた。
「ヴァルター、左だ!」
「分かってる!」
人型が足を抜こうとしたところへ、左右から長槍を入れる。
私は膝の外側へ、ヴァルターは反対側から長槍を入れて押す。それまでほとんど揺らがなかった黒い身体が、初めて大きく傾いた。
「そのまま!」
近くにいた剣士が継ぎ目へ刃を差し込む。
人型の左膝が沈み、片膝が石畳についた。
周囲から声が上がったが、私は頭部から目を離せなかった。姿勢を崩しても、顔のない頭だけはこちらを追い続けている。
「待て、近づくな!」
声が届くより先に、一人の剣士が踏み込んでいた。
倒したわけではないことは分かっていたはずだ。それでも、ようやく作った隙を逃したくなかったのだろう。
人型は片膝をついたまま左腕を振った。
剣士は盾を斜めに出して受け流そうとしたが、立っている時より低い位置から振り上げられた前腕が盾の下へ入り込む。男の身体はそのまま浮き、盾ごと後ろへ投げ出されて石畳へ落ちた。
「下がれ! 姿勢を崩しただけだ!」
人型の頭が、今度はマレーネへ向いた。
彼女もすぐに走り出したが、縦の溝に残った光は消えず、次第に強くなっていく。
「マレーネ、そのまま走れ!」
通常の照射ではない。
マレーネは建物の陰へ逃げ込まず、大通りを横切るように進路を取った。壁で止まるような攻撃ではないことは、もう全員が見ている。
その前へ黒い獣が一体回り込んだ。
前脚を振り上げた相手を避けるため、マレーネが一瞬だけ速度を落とす。
人型の頭部が、その動きを追った。
「ヴァルター、獣をどかせ!」
「やってる!」
長槍が黒い獣の肩へ入り、進路をわずかに外す。
それでも間に合わない。
白い溝がほとんど光で埋まっていた。
私は人型へ踏み込んだ。
「こっちだ!」
頭部の付け根へ槍を叩きつける。
一度叩いただけでは、こちらを向かない。
もう一度、外殻の隙間へ穂先を入れて身体ごと押し込むと、人型の頭がわずかにこちらへ動いた。
それだけで射線もずれる。
「そのまま走れ!」
マレーネが黒い獣の横を抜けた。
充填された頭部が今度は私を追ってくる。
そこから離れれば避けられる。そう判断して足を動かしたところで、人型の右腕が下から跳ね上がった。
頭部の光ばかり見ていた。
盾を差し込んだものの姿勢が悪く、前腕の軌道を完全には外せない。
衝撃と同時に盾が大きく歪み、左腕が肩ごと後ろへ持っていかれた。身体が地面から浮き、背中から石畳へ叩きつけられる。
息が止まった。
「アルノルト!」
声が聞こえる。
起きなければと思って肘をついた途端、左肩から胸まで激痛が走った。
腕が上がらない。
深く息を吸おうとしても、左の脇腹が内側から刺されるように痛む。盾は半分に折れ曲がり、留め具の一つが千切れていた。
「来るぞ!」
ヴァルターの声で顔を上げる。
人型の頭部には、まだ強い光が残っていた。
倒れた私へ向いている。
「右へ引け!」
転がるように射線から外れると、次の瞬間、白い光が通りを走った。さっきまでいた場所から背後の建物まで一直線に大きく抉られ、吹きつけた熱で頬が焼ける。
少し遅ければ、盾どころか何も残らなかった。
右腕と両脚は動く。
だが、左腕には力が入らず、息をするだけで胸が痛んだ。
槍を拾って前へ戻ろうとしたところで、自分から足を止める。
今の身体で出れば、誰かが私を守るために動く。
「アルノルト、大丈夫か!」
ヴァルターが黒い獣を牽制しながら叫ぶ。
「戦うのは無理だ!」
認めるしかない。
「でも指示は出せる。私を見るな、前を見ろ!」
ヴァルターが一瞬だけこちらを見たが、すぐに人型へ向き直った。
「マレーネ、人型の左足をもう一度! エミルも同じ方へ重ねろ!」
「左ね!」
「了解!」
二人が動く。
人型はまだ片膝をついたままだが、黒い獣が三体、その周囲へ戻ってきていた。
「全部止めようとするな! 人型へ近い二体だけだ。残りは前衛に任せろ!」
少し距離ができたことで、渦中では拾えなかった動きまで見えてきた。
人型が頭部を動かしても、肩や胴まで同じ速さで追ってくるわけではない。前腕を大きく振った後にも、次の動きへ入るまでわずかな間がある。
何より、脚を崩してから黒い獣が人型の周囲へ集まりすぎていた。
守ろうとしているなら、その動き自体を利用できる。
「ヴァルター、人型の右を空けろ!」
「右?」
「黒い奴をそっちへ寄せる。押すな、行ける場所だけ絞れ!」
ヴァルターが意図を理解した。
「聞いたな! 右の二人、倒そうとするな! 左を塞げ!」
黒い獣へ正面から攻めず、進める方向だけを残す。
誘導された一体が人型の右側へ寄り、もう一体もそこへ続いた。
同時にマレーネの氷が左足へ絡み、エミルが内側から石を盛り上げる。
人型は立ち上がろうとして身体を右へ傾けたが、そこには自分を守りに来た黒い獣がいる。大きな身体同士がぶつかり、立ち上がりが遅れた。
「今だ! 首の付け根を狙え!」
さっき槍を入れた場所だ。
ヴァルターが走り、二人の剣士も続く。
人型の頭がそちらを向く。
「固まるな! 頭を向けられた奴だけ外れろ、残りはそのまま行け!」
全員が逃げれば、また最初からやり直しになる。
狙われた剣士だけが横へ外れ、白い線がその後ろを抜ける。その間にヴァルターが首元へ槍を突き込み、穂先が隙間へ入った。
「押すな、捻れ! 外殻を開けろ!」
ヴァルターが柄を倒す。
黒い板が一枚浮いた。
そこへ別の剣士が刃を差し込む。
人型の右腕が上がった。
「ヴァルター、腕!」
ヴァルターは槍から手を離さず、身体だけを外へずらす。
前腕は肩のすぐ横を通り、鎧の端を叩いた。ヴァルターが片膝をついたものの、槍は抜けていない。
「そのまま持て!」
今度は黒い獣がヴァルターへ向かう。
「左の二人、獣!」
剣士たちが間へ入り、前脚を受け流して進路を外す。
その間にマレーネがさらに氷を重ねた。
「エミル、足元を崩せ!」
「崩します!」
人型の左足を支えていた石畳が沈み、片膝をついた身体がさらに傾く。
首元へ入ったヴァルターの槍に、人型自身の重さが掛かった。
黒い外殻が鈍い音を立てて開く。
「そこだ! もう一人!」
剣士が開いた隙間へ両手で剣を押し込んだ。
人型の頭部が大きく傾き、縦の溝が一度だけ強く光る。
「離れろ!」
今度は全員が散った。
白い線が斜めに空へ抜け、向かいの建物の上部を穿つ。
頭部が戻ろうとする。
「まだだ! 戻る前にもう一度!」
ヴァルターが立ち上がる。
肩を打たれたせいで片方の腕が鈍っている。それでも槍を両手で握り直し、先ほど開いた首の隙間へもう一度突き込んだ。
剣士も反対側から刃を押し込む。
人型の背中で板状の構造が一斉に開き、乾いた音が響いた。
周囲の黒い獣が同時に向きを変える。
「来るぞ! あと少しだ、前を空けるな!」
私は壁に右手をつきながら声を張った。
三方向から黒い獣が戻ってくる。
一体をヴァルターの横にいた剣士が止め、もう一体はエミルが地面を持ち上げて進路をずらした。
三体目が抜ける。
「右から一体!」
ヴァルターは振り返らなかった。
「任せた!」
近くの盾持ちが前へ出る。
黒い獣の前脚を真正面では受けず、盾を傾けながら身体ごと横へ流す。完全には逸らせず膝をついたが、それでもヴァルターへ届くまでの一瞬は稼げた。
「押せ!」
ヴァルターと剣士が同時に力を掛ける。
首元の外殻がさらに開き、その奥で何かが砕ける音がした。
人型の右腕が途中まで上がったところで止まる。
頭部の白い溝が弱く明滅し、背中の板も開いたまま動かなくなった。
それでも誰も手を止めない。
「もう一度だ! 完全に止まるまで離れるな!」
ヴァルターが槍を深く押し込み、剣士が開いた外殻をさらにこじ開ける。
黒い上半身がゆっくり傾き、今度は腕も上がらないまま石畳へ横倒しになった。
地面が揺れる。
その直後、周囲の黒い獣の動きがばらけた。
ヴァルターへ向かっていた一体が急に近くの盾持ちへ向きを変え、人型を守るために戻ってきた別の個体も、その場で一番近い相手へ飛びかかっている。
強さそのものは変わっていないが、互いの動きを補う様子は消えていた。
「黒い奴は残ってる! いつものやり方へ戻せ! 一体ずつ囲め!」
声を出した途端、胸の奥に痛みが走った。
息を詰めながら身体を起こすと、左腕は身体の横へ垂れたまま動かない。
「座ってろ!」
ヴァルターが怒鳴る。
「まだ終わってない」
「指示なら座ったまま出せ!」
「終わったらな!」
言い返して二歩ほど動いたところで脇腹が強く痛み、さすがに足を止めた。
もう前へ出る必要はない。
連携が消えた黒い獣なら、残っている連中だけで持たせられる。
「中央を三歩戻せ! 東は追わなくていい、北と西だけ塞げ! 負傷者を先に搬送しろ!」
前衛が形を戻していく。
杭の予兆が出れば正面を空け、前脚が来れば横へ流す。さっきまで通用しなくなっていた戦い方が、もう一度機能し始めていた。
ほどなくして、後ろから治癒師が走ってくる。
「アルノルトさん、その腕を――」
「先にヨナスは?」
治癒師の表情が止まった。
それだけで分かった。
「……間に合いませんでした」
私は一度だけ東側へ目を向けた。
ヨナスは指示通りに退き、壁際へも寄らなかった。救助に入った連中も無茶をしたわけではない。
それでも間に合わなかった。
「他の負傷者を先に見てくれ。私は立って話せる」
「左腕、動いてませんよ」
「見れば分かる。今すぐ死ぬ怪我じゃない。後でいい」
「それはあなたが決めることじゃないです」
言い返され、さすがに黙った。
治癒師が左肩へ触れた瞬間、思わず息が止まる。
「肩をやってます。肋骨も何本か。これ以上動かないでください」
「分かった。走らないし槍も持たない」
「立ってるのも本当は止めたいんですけど」
「それは無理だ」
治癒師が諦めたように息を吐いたところで、別の連絡員がこちらへ走ってきた。
「アルノルト! 西区第二連絡所からです!」
「なんだ」
「こちらと同じ特徴の大型人型が出ています。黒い四足も多数。『銀隼』の班が対応中です。それと、中央から呼称を統一するよう連絡が来ています」
「呼び方が決まったのか」
「大型人型は『統制体』。以後の報告では、それで統一すると」
倒れた黒い人型へ目を向ける。さっきまで周囲の黒い獣を動かしていた様子を思えば、「統制体」という呼び方に違和感はなかった。
「分かった。西の統制体が確認されたのはいつだ?」
「こちらで確認されたのと、ほとんど同じ頃です!」
西でも、ほぼ同じ時刻に出ていたことになる。こちらから何かを伝えるより前に、レナードたちは同じ相手との戦闘に入っている。
「他は?」
「中央でも複数の報告をまとめている最中です。正確な数はまだ」
「分かった。紙を出せ」
連絡員が板を構える。
「東区の統制体は撃破した。倒れた後、周囲の黒い四足から連携した動きが消えた。統制体が周囲を指揮していた可能性が高い」
「はい」
「通常の白い攻撃でも鉄盾を貫通する。発射を見てから避けるのは間に合わないから、頭を向けられた時点で射線から外れろ。頭部が長く強く光った時は、壁ごと抜く威力になる」
連絡員の手が紙の上を走る。
「近距離の前腕も危険だ。まともに受け止めるな。脚の関節と首の付け根には刃が入ったが、弱点と断定はしない」
「黒い四足については?」
「統制体がいる間は、複数で追い込みと防御をする。攻撃の選び方まで変わる。統制体を攻めると守りへ戻る動きも確認した」
そこまで言ったところで、胸がまた痛んだ。
一度息を整える。
「西を最優先で回せ。中央と軍にも同じものを送る」
「了解!」
連絡員が走り出す。
西まで一直線に行けるわけではない。途中の連絡所を経由し、塞がれた道があれば迂回も必要になる。
今送った情報が届く頃、西でどこまで戦いが進んでいるのかは分からなかった。
ヴァルターが倒れた統制体の向こうから歩いてくる。
「終わったぞ。残りの黒いのも押さえた」
「死傷者は?」
「まだ数えてる。お前はもう黙って治療されろ」
「その前に前衛の再編を――」
「俺がやる」
即答された。
少しだけ考え、頷く。
「北の避難路と西の搬送路は残せ。予備がいないから、動ける連中を一度数え直してくれ」
「最初からそのつもりだ」
「なら任せる」
そこで初めて、壁際へ腰を下ろした。
左肩から胸にかけて痛みが広がり、もう槍を振れる状態ではない。それでも前では、ヴァルターたちが人を動かし始めている。
その向こうを、西へ向かう伝令が走っていった。
こちらで掴んだ情報は送った。西で何が起きているのかは、次の報告を待つしかない。




