第61話 白い線
東区へ入る手前で、私は足を止めずに北と西の通りを確かめた。
北へ続く大通りでは、警備隊と市の職員が住民を二列に分けて逃がしている。泣きながら親に引かれる子供も、店から持ち出した袋を抱えた商人もいたが、人の流れそのものは止まっていない。一方、西へ伸びる細い通りでは担架が行き交い、その先に白い外套を着た治癒師たちが集まっていた。
東側の脇道は途中で崩れた外壁に塞がれている。
今使えるのは、北の避難路と西の搬送路。この二本を戦闘へ巻き込めば、前でどれだけ魔物を倒しても意味がなくなる。
「アルノルト!」
大通りの奥からヴァルターの声が飛び、長槍を持った男が盾列の後ろからこちらへ手を上げた。
そのまま前へ進みながら戦場を見渡す。
石畳は二か所で割れていた。中央の亀裂は荷車が落ちても余るほど広がり、東側では商家の壁際まで地面が持ち上がっている。周囲には普通の魔物に混じり、黒い四足獣の死骸もいくつか転がっていた。
「状況は?」
「穴が二つ。最初は普通の魔物ばかりだったが、途中から黒いのが出始めた。南東から回ってきた情報と同じ奴だ」
「今いるのは?」
「見えてるのが五。倒したのが四だ。負傷者は十三、重いのが四人。死者は二人」
ヴァルターの答えを聞きながら人数を数える。
盾持ちが八人、槍が六、剣が九。左右の屋根には射手が二人ずつ上がり、その後ろには魔術師が五人いる。まだ戦闘へ入れていない予備も七人残っていた。
数だけなら足りているが、中央の亀裂へ少し人が寄りすぎている。
「中央を三人減らして東へ回してくれ。予備は残す」
「中央の方が出てくる数は多いぞ」
「今はな。東が増えてから人を抜けば、その間だけ両方が薄くなる」
ヴァルターは二つの亀裂を見比べ、すぐに頷いた。
「ヨナス!」
「はい!」
少し離れたところで中型盾を構えていた男が振り返る。
「二人連れて東へ。穴の前まで詰めなくていい」
「了解です」
ヨナスが近くの二人を連れて走っていく。
私はまだ長槍を抜かなかった。
前へ出れば、一体を倒すまでの時間は縮められる。それでも私まで一つの敵だけを見るようになれば、前衛の交代も負傷者の搬送も、新しく穴が開いた時の人員移動も遅れる。
目の前の敵を一体早く倒すことより、ここで戦い続けられる状態を残す方が重要だった。
「中央、出るぞ!」
盾持ちの声に合わせ、亀裂の縁へ黒い前脚が掛かった。
低い四足の身体を、何層にも重なった黒い外殻が覆っている。獣の形には見えるものの、頭部には目も口も見当たらず、先ほどまで出てきていた魔物とは明らかに違う。
地上へ這い上がるなり、一番近い盾持ちへ走った。
「正面で止めるな!」
南東から届いた情報は、すでに前衛まで回してある。
男は踏ん張る代わりに半歩外へ出ながら盾を斜めに構え、黒い獣の肩を滑らせた。衝撃で足は動かされたものの、真正面から受け止めなかった分だけ姿勢は残っている。
身体が横を向いたところへ左右から槍が入り、一つは外殻に弾かれたが、もう一つが前脚の付け根へ滑り込んだ。
黒い獣が前脚を大きく開いたのを見て、前衛がすぐに左右へ散る。脚が石畳へ固定された直後、杭のようなものが伸び、誰もいなくなった場所を砕いた。
飛び散った石片が盾を叩く中、屋根から放たれた矢が脚の内側へ刺さる。そこへヴァルターが間を詰め、同じ場所へ長槍を突き込むと、黒い獣の片脚が沈んだ。
剣士が左右から入り、何度か攻撃を重ねてようやく倒す。
一体を仕留めるまでに手間は掛かるが、対処できない相手ではなかった。
東側でもヨナスたちが一体を囲み、盾で押し合わずに向きを変えさせ、槍と剣で外殻の継ぎ目を狙っている。銀級まで上がっている冒険者なら、相手の特徴さえ分かれば自分たちで戦い方を組み立てられる。
「次、二体!」
中央の亀裂から黒い獣が続けて這い上がった。
「ヴァルター、一体頼む。もう一体は右の班! 予備はまだ動かすな!」
前衛が二つに分かれ、後ろもそれに合わせて位置を変える。
魔術師には大きな術を撃たせなかった。建物が近いうえ、北側ではまだ住民の避難が続いている。敵を倒すために家を崩し、逃げ道を塞いでは何のために守っているのか分からない。
黒い獣そのものは強かったが、今のところ一体ずつ勝手に戦っていた。
近くにいる相手へ向かい、邪魔をされればそちらを攻撃する。前脚を振るうことも杭を使うこともあるが、別の個体がそれに合わせて動く様子はない。
個々には厄介でも、ばらばらなら持たせられる。
「中央の左三人、交代!」
黒い獣が倒れたところで声を掛けると、盾を持った男がこちらを見た。
「まだいけます!」
声は出ているが、肩で息をしている。
「だから今替わる。次に三体出てからじゃ遅い」
男は少しだけ不満そうな顔をしたものの、後ろにいた予備と入れ替わった。
疲れ切ってから下げても、その後しばらく使えない。まだ動けるうちに休ませれば、必要になった時にもう一度前へ戻せる。
「右の屋根、一人移れ! 同じところへ固まるな!」
射手が隣の建物へ移り、戦線は少しずつ整っていった。
警鐘が鳴り始めてから、まだ四半刻も経っていない。
北へ逃げる住民の列もかなり短くなり、西の搬送路には担架が増えているものの、今のところ詰まってはいなかった。
このままなら持つ。
「アルノルト!」
後ろから呼ばれ、振り返るとギルドの連絡員が紙を握って走ってきた。
「南東第二集合点から追加です。黒い四足は、地下から出てきた魔物を追っている個体がいるそうです。普通の魔物の中にも、人を襲わずそのまま逃げるものが多数確認されています!」
「黒いのから逃げている可能性がある?」
「南東ではそう見ているとのことです」
理由までは分からなくても、使える情報だった。
人間を狙っていない魔物まで全部ここで止めれば、その分だけ戦う相手が増える。
「ヴァルター!」
「聞いてた!」
「北と西へは行かせるな。それ以外へ抜けるなら追いすぎるな!」
「了解!」
指示が前へ伝わっていく。
その直後、東側で石畳が大きく跳ねた。
「下がって!」
ヨナスの声に合わせ、前衛がまとめて距離を取る。
穴から灰色の鱗を持つ四足の魔物が飛び出し、その後ろから二体、三体と続いた。どれもこちらへ向かう様子はなく、地上へ出た勢いのまま南へ走ろうとしている。
「通せ! 北へは入れるな!」
警備隊が片側だけ槍で塞ぐと、魔物たちは空いた通りへ殺到した。
その最後尾へ黒い獣が飛びつき、前脚を背中へ叩き込む。倒れた相手には留まらず、そのまま先を逃げる別の魔物を追っていった。
「南東と同じだな」
ヴァルターが低く言った。
「ああ」
少なくとも一つ、他の戦区と同じ動きを確認できた。
その時、大通りの中央で地面が大きく持ち上がった。
黒い獣が這い上がる時とは違い、何か大きなものが狭い場所を無理に押し広げているような揺れが続く。亀裂の縁が崩れ、内側から石が押し上げられたところへ、長い黒い腕が一本掛かった。
「穴から離れろ!」
前衛を下がらせる。
人間の腕に似た形はしているが、長さが違う。五本の指まで黒い外殻に覆われ、先端は爪のように細く尖っていた。
もう片方の腕が地面へ掛かり、両手で身体を押し上げる。
頭部が現れ、肩が続き、胸が地上へ出てもなお、その下から身体が伸びてきた。
「……何だ、あれ」
誰かが呟く。
完全に立ち上がった姿を見て、その声を笑う者はいなかった。
成人を二人、縦に重ねても頭頂には届かないほど高い。
黒い人型だった。
人間に似ているのは、頭と胴、二本ずつの腕と脚を持つところくらいしかない。細長い身体を黒い外殻が何層にも覆い、肩から背中には翼とも盾ともつかない板状の構造が折り畳まれている。
長い腕を下ろすと、爪のような指先が膝より下まで届いていた。
頭部に顔はなく、滑らかな黒い面の中央を一本の細い溝だけが縦に走っている。
地上へ出ても、そいつはすぐには襲ってこなかった。
腕を垂らしたまま通りの中央へ立ち、頭部だけをゆっくりこちらへ向ける。
「射手、待て! 前は今いる黒い奴を見ろ!」
何なのか分からない相手へ不用意に全員の攻撃を集める必要はない。
その後ろから普通の黒い獣が二体這い上がり、一体はヴァルターたちのいる中央へ、もう一体は東側のヨナスたちへ走った。
「来ます!」
ヨナスが盾を構え、飛び込んできた黒い獣をいつものように外へ流そうとした。
その瞬間、人型の顔を縦に割る細い溝が白く瞬いた。
何かが飛んだようには見えなかった。
ヨナスの少し後ろで盾を構えていた男の身体が不自然に止まり、持っていた丸い鉄盾の中央には、拳を二つ並べても足りないほどの穴が開いていた。
穴の周囲は赤く焼け、溶けた金属が内側へ垂れている。その延長線上では盾を持っていた左腕と胸当てまで大きく失われ、男は一度だけ自分の盾を見下ろしたあと、力が抜けたように膝から崩れた。
遅れて焼けた金属と革の臭いが届き、それまで整っていた前衛の空気が一瞬で変わる。
「……今のは」
「人型だ。光った瞬間何かをした」
ヴァルターに答えた時には、その頭部がすでに別の方向へ向いていた。
近くにいた兵士が反射的に鉄盾を上げる。
「受けるな!」
白い溝が光り、兵士が横へ飛び退いた直後、盾の縁とその後ろの石畳を一筋に穿った。
「頭の正面から外れろ! 盾じゃ止まらない!」
今度は狙われた者たちがすぐに動いた。
人型の頭部が追い、縦の溝が白く瞬くたび、さっきまで誰かがいた場所に深い穴が残る。
撃たれてからでは間に合わない。
光を見て避ける攻撃ではなく、頭を向けられた時点で射線から外れるしかないらしい。
「全員、あいつの頭を見ろ! 前に立ち続けるな!」
指示を飛ばした直後、東側の屋根から叫び声が上がった。
先ほどまでヨナスたちと戦っていた黒い獣が前衛を離れ、商家の壁へ爪を掛けている。
「屋根へ行く!」
「射手、移れ!」
二人の射手が隣の建物へ走る。
人型の頭部もそちらへ向いた。
一人目が屋根の間を跳び、二人目も続こうとしたところで、壁を上がってきた黒い獣が着地点へ前脚を掛ける。
射手は踏み切りを止めるしかなかった。
そこで白い溝が光り、男の身体が横へ弾かれて屋根の縁へ倒れ込む。
「一人落ちた! 下へ二人回せ!」
近くにいた冒険者が走り出したところへ、西側から声が飛ぶ。
「搬送路へ一体!」
別の黒い獣が前衛を離れ、担架の行き来する路地へ向かっていた。
「予備三人、西へ! 路地へ入れるな!」
人を回した分だけ中央が薄くなり、そこへヴァルターと戦っていた二体がほぼ同時に前へ出た。一体が盾列へ食いつき、もう一体は空いた隙間を抜けて後方の魔術師へ向かう。
「魔術師、散れ!」
五人が左右へ動き、その逃げ先を追うように人型の頭部が回った。
「頭を見ろ!」
右へ走った二人がさらに外へ離れると、白い線は間を抜けて商家の石壁を穿った。壁には向こう側が見える穴が開き、内部から砕けた石と埃が吹き出す。
射手を屋根から追い、搬送路へ回り、魔術師を散らして、その先を人型が撃つ。
さっきまでばらばらに戦っていた黒い獣の動きが、明らかに変わっていた。
「中央、三体追加!」
亀裂からさらに黒い獣が這い上がる。
「予備は?」
「西へ三、射手の回収に二!」
残っているのは二人だけだった。
「前衛を十歩下げる!」
ヴァルターがこちらを見る。
「押されるぞ!」
「いい。左右との間を詰める。今の位置に残る方がまずい!」
前衛全体を少しずつ後ろへ動かす。
黒い獣は追ってきたが、人型の前まで戻った数体がそこで一度止まった。
背中に折り畳まれていた板状の外殻がゆっくり持ち上がり、金属を擦ったような乾いた音がした。
直後、離れた位置にいた四体がほとんど同時に向きを変える。
「来るぞ!」
中央へ二体、東と西へ一体ずつ。
中央の二体も並んでは来なかった。一体が先に盾列へ飛び込み、前衛がそちらへ身体を向けたところへ、もう一体が反対側から前脚を振り抜く。
「左もいる!」
盾は間に合ったが、真正面から受けた男の身体は地面から浮き、盾を抱えたまま何歩も先まで飛ばされた。
今までなら、間合いがあれば杭を使っていた場面だった。
それが今は、こちらの姿勢が崩れた瞬間を逃さず、予備動作の小さい前脚を重ねてくる。
攻撃の選び方まで変わっていた。
「正面で止めるな! 前脚は流せ!」
別の黒い獣が剣士へ前脚を振るう。
男は剣を横にして受けたものの完全には軌道を外せず、身体ごと横へ飛ばされた。剣は折れていなかったが、着地した直後から片腕をまともに上げられていない。
「死者五、重傷八!」
後ろから報告が届いた。
人型が出る前、死者は二人だった。
大した時間は経っていない。
「治癒所が詰まり始めています!」
「西だけで受けるな。北西の路地にも分けろ! 歩ける者は担架を使うな!」
指示を出しながら前衛を数え直す。
盾そのものを失った者も出ている。射手は三人まで減り、魔術師は全員残っているものの、元の位置から追い出されて互いの距離が広がっていた。
その時、人型の頭が東側へ向いた。
「ヨナス!」
私が名前を呼ぶより早く、彼の班は左右へ散った。
白い溝は一瞬では消えず、細い光が奥に残ったまま、今までより明るさを増していく。
「全員、あいつの前から大きく外れろ!」
ヨナスたちが走る。
人型の頭部がその中の一人を追い、黒かった顔の中央が徐々に白く埋まっていった。
狙われた剣士が商家の角へ飛び込む。
「そこで止まるな! 裏まで走れ!」
男がさらに奥へ駆け込もうとした時、白い光が放たれた。
今までの細い線とは、見え方から違った。
商家の角が一瞬だけ真っ白になり、次に見えた時には大穴が壁を貫いていた。石も木も、その場所だけ削り取られたように消え、穴の向こうにある別の壁まで大きく穿たれている。
逃げ込んだ剣士の姿はなかった。
残ったのは床へ転がった剣の一部と、白い煙だけだった。
通りにいた者の動きが、一瞬止まりかける。
「見るな! 前だ!」
声を張る。
怖くないはずがない。
今までなら、どれほど強い魔物でも攻撃を見て盾を出すか、剣で逸らすか、距離を取るかのどれかができた。
あれには、その順番が通用しない。
「頭が強く光ったら遮蔽物だけに頼るな! 射線そのものから外れろ!」
そこへ東側の黒い獣が動く。
ヨナスたちが距離を取りながら迎えた二体のうち、一体はすでに前脚を傷め、黒い液体を流している。
「右の奴、もう少しです!」
「追うな!」
ヨナスは踏み込みかけた足を止めた。
傷ついた黒い獣が後ろへ下がり、代わりに無傷の一体が前へ出る。ヨナスが盾をそちらへ向けたところで、傷ついた方もまた距離を詰めてきた。
「下がるぞ!」
班全体で斜め後ろへ移り、壁際へ追い込まれないよう逃げ道を残す。
判断は間違っていない。
それでも、二体の動きが噛み合っていた。
無傷の個体が左へ回り、傷ついた一体は正面から距離を詰める。ヨナスが盾を正面へ向けた瞬間、左の個体が速度を上げた。
「左!」
盾を返したところへ前脚が入り、ヨナスの身体が横へ流れる。
そこへ正面の一体が間を置かず身体をぶつけ、二度目の衝撃で足が浮いた。それでもヨナスは盾を石畳へつき、どうにか姿勢を戻した。
その時、中央から回ってきていた三体目が背後へ入る。
「ヨナス、後ろ!」
隣の剣士が間へ入った。
前脚を剣で受けた瞬間、男は武器ごと横へ吹き飛ばされ、商家の壁へ背中から叩きつけられた。そのまま壁際へ崩れ、動かない。
「二人、東へ!」
残っていた予備を全部出す。
これで後ろに残す人間はいなくなった。
ヨナスは三体を相手にしながら、それでも前へ出なかった。一体を盾で流し、別の個体を仲間が牽制して、少しずつこちらへ下がってくる。
人型の頭部がヨナスへ向いた。
「頭!」
ヨナスも見ていた。
盾を捨てるように身体を横へ投げる。
白い線は放り出された盾の中央を貫き、そのまま後ろの石畳へ穴を開けた。
避けた先へ、黒い獣が回っていた。
長い前脚が横から振り抜かれる。
ヨナスは咄嗟に片手剣と腕を重ねて受けたものの、身体ごと持ち上げられ、数歩先の石畳へ転がった。
「ヨナス!」
二人の仲間が救助へ向かう。
「全員行くな! 二人だけだ!」
救助に入った二人が黒い獣を牽制しながら距離を詰めると、ヨナスも片腕を押さえたまま起き上がろうとしていた。
傷ついた黒い獣が近づき、救助に入った一人がそちらへ剣を向ける。
その瞬間、もう一体が横へ回った。
「後ろだ!」
盾を向けたが、前脚をまともに受けて身体が大きく開く。
黒い獣はその男を追わず、空いた場所からヨナスへ向かった。
こちらを倒すことより、ヨナスへ届く方を選んだ。
ヨナスが片手剣を上げるものの、先ほどの一撃を受けた腕では十分に動かせない。
前脚が振り下ろされ、鈍い音とともに身体が石畳へ倒れた。
「引け! ヨナスを引け!」
もう一人が割って入り、どうにか黒い獣を止める。その間に盾を弾かれた男が戻り、二人でヨナスの身体を引きずり出した。
胸当ては大きく歪み、片腕も力なく落ちている。
「治癒師!」
後ろから二人が走ってくる。
ヨナスは目を開けなかった。
私はそれ以上見続けず、中央へ視線を戻した。
「中央!」
ヴァルターの声とほぼ同時に盾列の一角が崩れ、その後ろから黒い人型が初めてこちらへ歩き始めていた。
長い脚が一歩進むたび、重いものを落としたように石畳が鳴る。
「前を空けろ!」
人型の右腕が持ち上がった。
盾を構えていた二人のうち、一人はすぐに身体を引いたが、もう一人は受けた。
前腕が盾へ叩きつけられた瞬間、男の身体は盾ごと通りを横切るように飛ばされ、何度も石畳を転がって別の冒険者の足元へぶつかった。
人型は追わず、殴り飛ばした相手には目も向けないまま、頭部を後方の魔術師へ向ける。
「散れ!」
白い線が走る。
一人は避けたが、もう一人は杖を構えたまま動くのがわずかに遅れた。杖の上半分と肩口が同じ線上で失われ、そのまま石畳へ倒れる。
「近づいてもあれか」
ヴァルターが長槍を握り直した。
「正面で力比べするな」
「見れば分かる」
人型の前腕が今度はヴァルターへ振られる。
彼は槍の柄を斜めに当て、真正面から止めずに腕の軌道を外へずらした。それでも一歩、二歩と足を持っていかれる。
「重いな……!」
力で押し返さず受け流して、それでもこれだけ動かされる。
金級以下が悪い角度で受ければ、まともに立ってはいられない。
「負傷者二十五! 死亡確認七!」
後方から声が届いた。
ヨナスたちのところで倒れた者を含めれば、まだ増えるだろう。
人型が出る前、死者は二人だった。
それまで持っていた戦線が、短い間に別物へ変わっている。
「アルノルト!」
今度は連絡員が走ってきた。
「西区の第二連絡所からです! こちらと同じような大型の人型が出現、黒い四足も多数! 『銀隼』の班がすでに対応に入っています!」
「その報告、いつ出た?」
「こちらで人型が出たのと、ほとんど同じ頃です!」
西にもいる。
しかも、この報告が今になって届いたということは、レナードたちは私たちが人型の性質を掴み始めるより前から、同じ相手と戦っていることになる。
今から情報を送っても、どこまで間に合うか分からない。
「他は?」
「まだ確認できません!」
「中央へ回せ。人型は一体とは限らない。それから西へ戻る伝令を一人残せ」
「はい!」
連絡員が返事をした直後、人型の頭がこちらへ動いた。
私ではない。
紙を抱えている連絡員へ向いている。
「走れ! 建物の裏まで抜けろ!」
男が反応し、商家の角へ飛び込む。
白い線が追い、石壁へ大穴を開けたものの、連絡員はその直前に角を曲がっていた。
偶然ではない。
こいつは、戦線を支えているところから潰している。
「紙を出せ!」
別の連絡員が駆け寄る。
「今から言うことを西と中央、それから軍へ回す。西はもう戦ってるから急げ」
前ではヴァルターたちが黒い獣を押さえている。
「大型人型の頭部から白い攻撃。通常の発射でも鉄盾を貫通して、その後ろまで届く。盾で受けるな。発射を見てから避けるのも間に合わない。頭部を向けられた時点で射線から外れる」
連絡員の手が紙の上を走る。
「頭の溝が長く強く光った時は威力がさらに上がる。建物の壁ごと抜く。近距離では前腕の打撃も強い。受け止めようとせず、角度を外すか流せ」
「はい」
「黒い四足は、大型が現れてから複数で連携する動きが出ている。杭より前脚を使う場面も増えた。攻撃の選び方まで変わった可能性がある」
「大型が指示してるんですか?」
「そう見える。ただし、まだ確定とは書くな」
「分かりました」
「行け」
連絡員が走り出す。
西へ着くまでには時間が掛かる。
ここから連絡所へ戻し、そこからさらに西まで走ることになる。途中の道が塞がれていれば、もっと遅れる。
レナードたちが今どうなっているのか、こちらから知る方法はない。
考えている暇もなかった。
人型の背中で板状の構造が開き、乾いた音が一つ鳴る。
黒い獣が一斉に動いた。
三体が中央へ入り、残りが東西へ分かれる。正面の三体も並んでは来ず、一体が盾列へ飛び込み、二体が左右から遅れて回る。
「前を残せ! 全部同じ方を見るな!」
こちらが一体へ反応すれば、その次に空いた場所へ別の一体が入ってくる。
人型の頭部も同時に動いた。
「ヴァルター、右!」
「ああ!」
ヴァルターが長槍を横から入れ、魔術師へ抜けようとした一体の向きを変える。
そのまま押し合わずに身を引いた直後、白い線が彼の横を抜けた。
避けた先には別の黒い獣がいる。
前脚が振られ、ヴァルターは槍で受け流したものの、足を大きく滑らせた。
人型の頭部が追いついてくる。
今度は溝の光が消えない。
「ヴァルター、走れ!」
ヴァルターは後ろへ下がらず、目の前の黒い獣へ向かって踏み込み、その身体の横を抜けるようにして建物沿いへ走った。
人型の頭が追う。
縦の溝が白く埋まり始める。
「曲がれ!」
ヴァルターが脇道へ飛び込んだ直後、眩しい光が通りを横切った。
商家の壁を大きく穿ち、内部まで抜けた光の跡から粉塵が噴き出す。
ぎりぎりで外した。
粉塵の向こうからヴァルターが戻ってくる。
「生きてるぞ」
「見れば分かる」
「もう少し心配してくれてもいいだろ」
そんなことを言えるなら、まだ動ける。
私は背中の長槍へ手を掛けた。
ここまで前へ出ずに全体を見てきたが、もう人を動かすだけでは足りない。
あの人型がいる限り、前衛を替えても射手を移しても、そのたびに別の弱い場所を狙われる。距離を取れば白い線が飛び、近づけば黒い獣に囲まれ、その先には人間の力ではまともに押し合えない腕が待っている。
放っておけば、こちらから先に削り切られる。
「ヴァルター」
「何人だ?」
聞く内容まで分かっていたらしい。
「私を入れて七人」
「少なくないか?」
「残りは前を維持する。あれ一体のために避難路まで捨てる気はない」
ヴァルターは北の大通りへ一度だけ目を向けた。
住民の姿は減ったが、まだ全員ではない。西では治癒師が負傷者を受け入れ続けている。
「俺も行く」
「途中まで頼む。黒い獣を人型から離したい」
「近づいた時に戻ってくるかを見るのか」
「ああ」
もし周囲の個体が人型を守るために動けば、今まで見てきたものがさらに繋がる。
「前衛は下がりながら持たせろ! 人型へ行くのは七人だけだ!」
長槍を抜き、中型盾を左腕へ通す。
白い線を盾で受けるつもりはない。
あの腕が来た時、まともに押し合わず軌道をずらすために使う。
「射手は二人だけ人型を見る。残りは黒い獣だ! 魔術師も全部こちらへ寄せるな!」
返事がいくつも重なる。
誰も怖くない顔などしていなかった。
倒れた仲間も、穴の開いた盾も、抉られた建物も目に入っている。それでも持ち場を離れる者はいない。
「行くぞ!」
ヴァルターが左へ走り、黒い獣二体の注意を引いた。
私は反対側から人型へ距離を詰める。
頭部がすぐにこちらを向いた。
正面を横切るように身体をずらした直後、白い線が肩の脇を通って背後の石畳を穿つ。
止まらず進み、二射目も頭部の向きから先に外れたところで、人型まで十歩ほどに迫った。
長い右腕が持ち上がる。
横薙ぎだった。
盾を正面へ出さず、前腕へ斜めに当てて軌道を外す。
それでも、ぶつかった瞬間に左腕から肩まで痺れ、身体ごと二歩持っていかれた。
正面から受け止めていれば立っていられなかっただろう。
踏み直しながら槍を脇へ滑らせ、肘にあたる外殻の継ぎ目へ穂先を突き込む。
硬い手応えが返り、刃は浅く入っただけだった。
無理に押し込まず、すぐに抜く。
人型がこちらへ身体ごと向き直った。
「アルノルト!」
ヴァルターの声に横を見る。
引き離したはずの黒い獣が二体、こちらへ戻ってきていた。別の一体も前衛との戦いをやめ、人型の側面へ回っている。
守りに来た。
人型の背中にある板が大きく開き、乾いた音が通りに響く。
その瞬間、戻ってきた三体が一斉に速度を上げた。
私は槍を構え直した。
ここまで見れば、もう偶然では片づけられない。
あの人型を倒さない限り、この戦場は立て直せない。




