第60話 追われるもの
クラウディアが東へ向かったあとも、旧水路周辺から魔物が途切れることはなかった。ただ、王国軍の兵が大通りを塞ぎ、冒険者がその前後を補う形が整い始めたことで、最初の混乱は収まりつつある。
そのさらに後ろでは、市の職員と警備隊が住民を北側へ誘導していた。店から慌てて出てきた者もいれば、荷物を抱えた商人や、親に手を引かれて走る子供もいる。街区から完全に人がいなくなるにはまだ時間がかかるため、戦列を抜けた魔物もそのままにはできなかった。
正面へ来たものは軍と冒険者で止め、横へ抜けた個体は位置と進行方向を後ろの班へ回す。警備隊も何人かを避難誘導とは別に残し、通りの先で逃げた魔物を待ち受けていた。
屋根の上ではミラが一か所に留まらず、射線の通る場所を選んで移動しながら矢を放っている。ユリウスも魔物そのものへ魔法を撃ち込むより、石畳を盛り上げたり足元を崩したりして、戦列の薄い方へ抜けさせないよう動きを絞っていた。
俺はガルドの少し後ろで剣を振りながら、さっきから魔物の動きに引っかかるものを感じていた。
「右、抜けるぞ!」
兵士の声に振り向くと、割れた石畳から出てきた四足の魔物が盾列の端へ走り、槍を向けられた途端に進路を変えた。
そのまま建物沿いへ回り込んだものの、追ってきた冒険者へ反撃する様子はない。
「追うか?」
「俺らは穴を押さえる。南へ抜けた一体、後ろに回せ!」
ガルドの声を受けて警備隊員が笛を鳴らすと、少し先の交差点にいた別の班から合図が返り、二人の冒険者が南の路地へ走っていった。
魔物はそれにも構わず、角の向こうへ消える。
似た動きを、少し前にも見ている。
次に穴から飛び出したのは、背中を硬い甲殻で覆われた魔物だった。こちらを一度見たものの襲いかかることはなく、反対側の路地へ向きを変えて、その先にいた兵士二人へ向かって走っていく。
「正面を空けて! 市場側には行かせるな!」
二人が左右へ離れながら片側を槍で塞ぐと、魔物は開いた方へ進路を変えた。剣にも槍にも目を向けず、そのまま市民の避難路とは反対側へ駆け抜けていく。
「……襲ってこない」
負傷者の手当をしていたフィアナが顔を上げた。
セレナも魔物が消えた先へ目を向け、少し考えるように眉を寄せる。
「全部じゃないけど、向かってこないのも多いわね。街を襲いにきたというより……」
「下から離れようとしてる?」
「そう見えるわ」
種類も大きさも違うのに、地下から出たあとの動きだけが妙に似ていた。
こちらへ襲いかかる個体もいるが、それも戦列に前を塞がれた時が多い。人間を狙って地上へ出てきたのではなく、進もうとした先に俺たちがいるから戦っていると考えれば、今までの動きにも筋が通る。
その時、足元がまた震えた。
何度も魔物が出てきている穴の奥から、激しく石を擦る音が近づいてくる。やがて先ほどまでより一回り大きな四足の魔物が飛び出し、こちらには目も向けず石畳を蹴った。
「脇腹!」
屋根の上からミラの声が飛ぶ。
言われて見ると、魔物の腹には深い傷が二つ開いていた。爪や牙で裂かれたものとは違い、硬いものを深く突き込まれたような穴が、ほとんど同じ高さに並んでいる。
傷ついた魔物が通りを駆け抜けた直後、その後を追うように穴の縁へ黒い前脚がかかった。
「ガルド」
「ああ。見えてる」
低い四足の身体が地上へ這い上がる。
黒い外殻に覆われた胴体と、獣に似ていながら目や口の位置すら分かりにくい頭部。見間違えるはずもない。
エルムの地下で戦った黒い獣だった。
だが、黒い獣はこちらへ向きを変えず、傷ついた魔物の後を追って駆け出した。
「待て!」
近くにいた兵士が反射的に槍を構える。
「前へ出るな!」
俺が叫んだ時には、黒い獣が兵士のすぐ前まで来ていた。突き出された槍が外殻へ当たり、甲高い音を立てて弾かれると、それまで逃げた魔物だけを追っていた黒い獣が初めて兵士へ身体を向ける。
間へ入ったガルドの大剣が肩口を捉え、四足の身体を石畳の上で横滑りさせた。
「下がれ!」
兵士が距離を取る間にも、黒い獣は四肢を踏ん張って姿勢を戻し、前脚を外へ開く。
「正面を空けろ! 前脚を地面につけたら来るぞ!」
周囲へ声を張ったが、ガルドには説明するまでもなかった。
黒い獣の前脚が石畳へ沈んだ瞬間、真正面から斜めへ大きく外れ、その直後に伸びた杭が、さっきまで立っていた場所を打ち砕く。
「やっぱり外の方がやりやすいな」
そう言った時には、ガルドはもう懐へ戻っていた。
杭が引き戻されるより早く大剣を肩口へ叩き込み、黒い獣が横へ逃げようとしても距離を取らない。振り切った大剣を引き戻しながらさらに詰め、相手が右へ回れば右へ動き、反対側へ抜けようとすれば剣の腹と肩で押し戻す。
大剣を振るうために広く間合いを取るどころか、むしろ黒い獣の懐へ入り続けていた。前脚を振られれば半歩だけ外して、戻る前に付け根へ刃を当て、突進しようと身体を沈めれば横から肩をぶつけて向きを変えてしまう。
あの大きな身体で、相手に息をつかせない。
黒い獣が強引に身体を回して離れようとしたところへ、大剣が下から前脚の付け根を捉えた。外殻の隙間から黒い液体が飛び、片脚が折れるように沈む。
ガルドはそこでも待たず、傾いた頭部へ踏み込んで大剣を叩きつけた。
石畳が鳴り、黒い獣の身体から力が抜ける。
『灰熊』という二つ名は、あの体格からついたものだと思っていたが、それだけではなかったらしい。
「次、来るぞ」
倒した相手を見下ろすこともなくガルドが穴へ向き直ると、その言葉通り二体目が這い上がってきた。
さらに離れた亀裂からも黒い前脚が現れる。
「二体!」
ミラの声が屋根から飛んだ。
「右は私が!」
「ユリウス、ミラの方を頼む!」
「分かった!」
二人が離れた方の個体へ向かったことで、穴から出てきたもう一体が俺の正面に残った。ガルドはすでに別の黒い獣へ走っている。
助けを呼ぶ必要はなかった。
剣先を少し下げたまま間を詰めると、黒い獣もこちらへ身体を向けた。前脚の杭も外殻の硬さも知っているうえ、ここなら左右へ動く余裕もある。
黒い獣が走り出すのに合わせて俺も前へ出た。正面からぶつかる寸前、前脚がわずかに外へ開くのを見てもすぐには避けず、もう一歩だけ間合いを詰める。
前脚が石畳へ沈んだところで右へ踏み出すように身体を傾けると、黒い獣の正面もこちらを追ってずれた。
そこで踏み込んだ足を止め、風で身体を押しながら左へ切り返す。
杭が右後方の石畳を砕いた時には、もう黒い獣の側面へ入っていた。前脚の付け根へ剣を走らせると、硬い手応えのあとで刃先が外殻の境目へわずかに食い込む。
欲張らずに剣を引いて離れた直後、振り向きざまの前脚が目の前を通り過ぎた。
黒い獣がこちらへ向き直るのに合わせ、俺も正面へ戻る。
一度で倒す必要はない。硬い外殻を無理に斬ろうとするより、通る場所へ繰り返し刃を入れた方がいい。
再び距離を詰めてきた黒い獣は、今度はさっきより早く前脚を開いた。同じ方向へ逃げるのを待っているように見えたので、右へ踏み込んで相手を誘いながら、横へは跳ばずその場で足を止める。
こちらを追った前脚が右へ向いたまま石畳へ固定され、杭が走った。
今度は大きく外へ逃げず、その内側へ踏み込む。
首元へ振った剣は外殻に弾かれたが、無理に押し込まず、続けて振られた前脚を半歩下がってかわした。相手の足が戻る前に距離を詰め直し、肩口へ剣を当てる。
傷は浅かったものの、黒い獣が身体を振って俺を離そうとしたことで、さっき傷をつけた前脚がこちらへ出た。
その動きに合わせて横へ回り、同じ場所へ二度目の刃を入れる。
今度は深かった。
黒い液体が散り、傷ついた前脚へ体重をかけられなくなった黒い獣の身体が傾く。そこではじめて首元へ踏み込み、重なった外殻の隙間へ剣を突き込んだ。
黒い獣が激しく身を捩ったため、剣を持っていかれる前に抜いて距離を取る。反撃の前脚が空を切ったものの、まだ相手は倒れない。
片脚を傷めた分だけ動きは鈍くなっていた。
もう一度正面へ入り、残った前脚が開くのを待つ。
杭を撃つために身体が止まった瞬間、傷めた側へ大きく踏み込み、傾いた身体の内側へ入った。さっき剣を通した首元へもう一度刃を押し込み、そのまま傷を深く広げると、黒い獣は身体を大きく震わせて石畳へ崩れ落ちる。
動きが止まったのを確認してから剣を抜いた。
一人でも倒せた。
前脚を地面へ固定してから杭が出ることは、エルムで見ている。そこへ、ここ数日繰り返してきた制動と切り返しを合わせれば、相手の正面へ入って向きを誘い、杭が出た直後に側面へ回れる。
訓練場で何度もやり直した足運びが、今は剣を振るところまで途切れずにつながっていた。
その感触を確かめる間もなく、右側から魔法が弾ける音が聞こえた。
見ると、ミラとユリウスが相手をしていた黒い獣が石畳の隆起を乗り越え、北側の通りへ抜けようとしている。その先には負傷者の搬送路があり、さらに向こうでは市の職員が住民を誘導していた。
「ユリウス、止められるか!」
「完全には無理!」
「じゃあ左へ寄せて!」
走りながら叫ぶと、ユリウスが黒い獣の右前方へ低い隆起を斜めに作った。身体ごと止めるほどの高さはないが、走ったまま避けようとしたことで進路が左へずれる。
「ミラ!」
「見えてる!」
すぐに矢が飛び、走っている黒い獣の前脚、その付け根へ斜めから刺さった。致命傷にはならなくても、足運びが乱れた一瞬で追いつける。
正面から身体を張って止める必要はない。左後ろから前脚の付け根へ剣を当てると、傷そのものは浅かったものの、黒い獣が走るのをやめて俺へ身体を向けた。
「こっちだ!」
搬送路から意識が外れたのを確認し、前脚が開くのを見て今度は大きく距離を取る。杭が石畳を砕いた直後には、別の屋根へ移っていたミラの矢が先ほどと同じ付け根を捉えた。
「左、塞ぐ!」
ユリウスの声とともに横道の入口が盛り上がり、黒い獣は開いている右側へ向きを変えた。
そこへ俺が入り、前脚の付け根へ一撃を当てて離れる。黒い獣がこちらを追った瞬間、別の屋根へ移っていたミラの矢が横から刺さった。
今度はミラへ顔を向けたところでユリウスが足元を持ち上げる。わずかに体勢が崩れた隙へ踏み込み、さっきの傷へもう一度刃を入れた。
誰かが次を指示しなくても、三人とも互いの動きを見ていた。
「今!」
ユリウスの声に合わせて首元の継ぎ目へ剣を突き込むと、身体を起こそうとした黒い獣へ別方向からミラの矢が深く入った。
刃を抜いて離れたあと、黒い獣は二、三歩よろめき、そのまま石畳へ倒れた。
「搬送路は?」
「もう抜けた!」
ユリウスが後ろを見る。
負傷者の姿はすでになく、そのさらに奥でも警備隊が住民を北側へ流していた。戦っている間にフィアナたちが搬送を進め、市の職員も避難の列を別の通りへ移したらしい。
「アレン!」
そのフィアナが少し離れたところから声を上げた。
「腕、血が出てる!」
見れば、杭で砕けた石が当たったらしく外套の袖が裂けていたが、腕は普通に動く。
「かすっただけ。後で頼む!」
「絶対あとで見せて!」
「ああ!」
返事をしながら周囲へ目を戻すと、ガルドはすでに別の黒い獣を相手にしていた。
俺が一体を倒し、そのままミラたちに合流してもう一体を仕留める間にも、ガルドは途切れず現れる黒い獣を引き受けていた。今も突進を横へ流し、懐へ入ったまま大剣を振るっている。
少し離れた場所では、兵士と冒険者が別の一体を囲んでいた。
「正面に集まらないでください!」
そちらへ走りながら声を飛ばす。
「前脚を地面につけたら正面から離れて! 外側は硬い。脚の付け根か、殻の継ぎ目を狙ってください!」
「知ってるのか!」
「前に戦ってます!」
それだけで前衛の動きが変わった。
正面に固まっていた兵と冒険者が左右へ広がり、黒い獣が杭を撃った直後、側面へ回った槍が脚の付け根を狙う。一撃目は外殻に弾かれたものの、反対側から入った冒険者の剣が脚の内側を捉えた。
後方にいた弓兵も、胴体へ矢を重ねるのをやめ、次からは外殻の継ぎ目や脚の付け根へ狙いを変えていく。
対処の仕方が伝わるにつれて、周囲の動きも目に見えて揃ってきた。さらに何体か黒い獣が出てきても南東区の戦線は崩れず、ガルドが前で強い個体を引き受け、俺たちが抜けようとするものを止める間に、兵士や冒険者もそれぞれの持ち場で仕留めていく。
少なくとも、この数ならまだ押さえられる。
「アレン!」
集合点からギルドの連絡員が手を上げた。
「そいつらの情報、分かるだけくれ!」
ガルドを見ると、黒い獣を大剣で押し返しながらこちらへ一度だけ頷いた。
「ああ。回しとけ」
俺は集合点へ戻り、分かっていることをできるだけ短く伝える。
「黒い外殻はかなり硬いです。狙うなら脚の付け根か、殻の継ぎ目。前脚を地面へ固定したら、正面に強い攻撃が来ます」
「どのくらい離れればいい?」
「前に見た時は十歩くらいでも危なかったです。できるだけ正面を空けた方がいい」
そこへ黒い獣を仕留めたガルドが戻り、続けて口を挟んだ。
「撃ったあとは隙ができる。広い場所なら左右へ散って囲め。正面で受ける必要はねえ」
連絡員はそれを紙へ書き取りながら、さらに顔を上げる。
「他には?」
「前に戦った個体同士は、連携して動いてはいませんでした。ただ、今回も同じとは限りません」
「分かった。東と西へ回す」
書き終えた紙を受け取った伝令がすぐに走り出した。
入れ替わるように南側から騎馬の伝令が入り、馬を止めるなり声を張る。
「東区から報告! 黒い四足の魔物を確認!」
「ここと同じ特徴か?」
「黒い殻で、武器が通りにくいそうです!」
「今、対処法を回した。東の連絡所へ急がせろ!」
別の伝令が紙を受け取り、そのまま駆け出していく。
ほどなく西側からも、同じ特徴の個体が現れたという報告が入った。
「王都の下、どこまで繋がってるんだ……」
ユリウスが割れた石畳を見る。
「分からないわ。でも、旧水路だけの話じゃないのは確かね」
セレナが穴へ視線を落とした時、その奥から今までとは違う音が響いてきた。
一体ずつ登ってくる時のものではない。いくつもの足音が重なり、何かの群れが一斉にこちらへ向かってくる。
「構えろ!」
兵士たちがすぐに盾を並べる。
最初に飛び出してきたのは角を持つ四足の魔物で、その後ろから鱗のあるものが二体、さらに小型の魔物まで続き、十体を超える群れが地上へ溢れてきた。
俺も剣を構えたが、魔物たちは戦列へ突っ込んでこない。盾の手前で左右へ分かれ、人の少ない道を探すように走っている。
「右を開けろ! 避難路には入れるな!」
兵の一部が位置をずらし、市民のいない側へ通り道を作った。同時に後方へ笛が鳴り、その先を受け持つ警備隊と冒険者にも魔物が向かったことが伝えられる。
魔物たちは開いた道へ殺到した。互いにぶつかり、転びそうになりながらも足を止めず、とにかく穴から遠ざかろうとしている。
その最後尾へ黒い影が飛びかかった。
黒い獣が魔物の背へ乗り、前脚を深く突き込む。獲物が倒れると、その場には留まらず次の魔物を追って走り出し、すぐそばにいる兵士には目も向けなかった。
さらに穴から二体、三体と黒い獣が這い上がり、それぞれ逃げていく魔物の後を追っていく。
「……追ってる」
フィアナの声を聞いた瞬間、さっきから引っかかっていたものがつながった。
種類の違う魔物が同じように地上へ飛び出し、人間がいても戦おうとせず、ひたすら地下から離れようとしていたのは、王都を襲うためじゃない。
黒い獣から逃げていたのだ。
魔物と黒い獣が次々に這い上がる穴の中は暗く、その先までは見えない。それでも、あれだけの魔物を地上へ追い出すものが、王都の地下で動き始めていることだけは分かった。




