第58話 王都非常防衛令
王城へ着いた頃には、夜もかなり更けていた。
普段なら人影も減っている時間だが、廊下では呼び出されたらしい文官や近衛が行き交い、開け放たれた部屋では官吏たちが机を囲んでいる。中庭にも鞍を載せた馬が何頭か待たされていた。
神殿から報告が届いた時点で、必要な人間を集め始めたらしい。
俺たちは近衛の案内で奥へ進んだ。
隣を歩くフィアナは、神殿を出てからほとんど口を開いていない。着替える時間もなかったため、外套の下には夕食の時と同じ服が見え、顔色もまだ悪かった。
「大丈夫か」
声を落として聞くと、フィアナは少し間を置いて頷いた。
「……うん。ちゃんと話す」
それ以上は聞かなかった。
食卓で突然動きを止めたあと、フィアナから聞いたのは、王都の石畳が割れ、建物が崩れ、人々が逃げる光景だった。鐘が鳴り続け、その中を黒い何かが動いていたという。
異変は一か所ではなく、中央市場の近くが壊れているのと同時に、離れた場所でも地面や建物が崩れていたらしい。
いつのことなのかは分からない。それが本当に起きるのかさえ、フィアナには判断できなかった。
それでも最後に口にした言葉には迷いがなかった。
王様に伝えないと。
神殿から王城へ報告が上がり、半刻もせず迎えが来た。
「こちらです」
近衛が大きな扉を開く。
中は謁見の間ではなく、王城の奥にある会議室だった。
中央の長卓には王都の地図が広げられ、軍人や文官、神殿関係者が席を埋めている。エミリアも呼ばれており、その向かいには王都冒険者ギルドの支部長が座っていた。
最奥のレオポルト・アルノーの斜め後ろには、白銀の実戦鎧を身につけたディートリヒが立っている。
「来たか」
レオポルト王の視線がフィアナで止まった。
「聖女殿、座ってくれ。今夜は形式はいらん」
用意された椅子へフィアナが腰を下ろし、俺たちはその後ろに立つ。
王は水を運ばせ、フィアナが一口飲むのを待った。
「見た通りに話してくれ。分からないところは、そのままでいい」
「……はい」
フィアナは杯を両手で包んだまま、ゆっくり話し始めた。
中央市場が見えたこと。神殿の塔もあったこと。見覚えのある街並みで人々が逃げ、地面が割れ、建物が崩れていたこと。そして、その中を黒いものが動いていたこと。
「それが、一つじゃなかったんです」
フィアナが地図を見る。
「市場の近くで起きていたのに、別の場所でも地面が壊れていました。もっと離れたところにも……」
「同時だったか?」
「そう見えました。でも、そこまでははっきり……」
「他に場所は分かるか」
少し考えてから、フィアナは首を振った。
「中央市場と神殿は分かりました。他は見覚えがある気はするんですけど、どこかまでは」
「いつの光景かは?」
「分かりません」
「原因は?」
「それも……」
そこでフィアナの指に力が入った。
「ただ、地面が壊れたから中のものが出てきた、という感じじゃなかったです」
「つまり?」
フィアナはしばらく言葉を探した。
「……先に、下で何かが目を覚ましたように感じたんです。ひとつじゃなくて、いくつも」
会議室から声が消えた。
レオポルト王が卓上の地図へ目を落とす。
最初に口を開いたのは、右手側に座っていた年嵩の文官だった。
「陛下。王都全域への避難命令には反対いたします。時期も場所も定まらぬまま民を動かせば、街路も城門も混乱し、軍や救助部門まで動けなくなります」
「中央市場を止めることも難しいでしょう」
別の文官が続く。
「期限を決められません。物流を止めれば、異変が起きる前に王都の方が立ち行かなくなります」
「警戒はすべきだろう」
軍人の一人が返した。
「兵を集めておくだけでも違う。何か起きてからでは遅い」
「軍だけならまだしも、神殿やギルド、市の各部門まで動かせば、市民もただ事ではないと気づきます」
「それでも、備えない理由にはならん」
「だからこそ、どこまで動かすかを決める必要があるのです」
議論は避難の是非から、準備の範囲へ移っていった。
兵は市街へ出さず兵営で待機させ、不要不急の地下工事は止める。治癒師は一か所へ集めず所在だけを確認し、冒険者にも高位の者から連絡を回す。
それなら市民生活への影響を抑えられるという意見が出れば、それでは初動が遅れるという声も上がった。
「高位冒険者への待機要請までは、今の権限でできます」
文官の一人がギルド支部長へ向く。
「しかし、王国が作戦指揮まで取るとなれば、王都防衛条項を使うことになる」
「そうなります」
支部長が答えた。
「発動条件は、王都に重大な危機が認められた場合です」
「今がそこまでの状態だと?」
「決めるのは私ではありません。発動されれば、王都支部は従います」
「一度使えば前例になるぞ」
「使わずに被害が出た場合も、前例にはなるでしょうな」
再び声が重なりかけたところで、王が口を開いた。
「静かにせよ」
大声ではなかったが、それで室内は静まった。
レオポルト王は卓上の報告書を何枚か見直してから顔を上げる。
「避難は命じない。市場も閉じず、城門も封鎖しない」
何人かの文官が小さく息を吐いた。
「だが、備えはする」
王は軍務を担当する将官を見る。
「第一、第二師団を市街へ出さず、即応態勢へ移せるか」
「可能です。今夜から帰営をかければ、夜明けまでには主力の大半を揃えられます」
「装備も整えろ。近衛は王城と主要施設の警備を増やす」
「はっ」
次に神殿側へ目を向ける。
「治癒師は集めなくていい。所在と連絡手段を確認しておけ」
「承知しました」
「消防、救助、技術部門は資材と人員を確認。夜番も増やせ」
市の担当者が頷いた。
最後にギルド支部長を見る。
「王都にいる冒険者の所在を洗っておけ。戦闘だけで分けるな。治癒、索敵、救助、運搬、土木も必要になる」
「承知しました」
「それと、本部にも今夜中に第一報を入れろ。コンラートまで通しておいてくれ」
「ギルドマスターのコンラート・ヴァイゼルへ、ですね」
「ああ。王都だけで済む保証がない。何か起きてから知らせるのでは遅い」
支部長の表情が引き締まった。
「最優先で回します」
方針が固まりかけたところで、最初に発言した年嵩の文官がもう一度口を開いた。
「陛下。そこまで動かせば費用も出ます。何も起きなかった場合には――」
「私が責められるだけだ」
王が遮った。
「それで済むなら安い」
男が黙る。
「ルミエルでは神託の後に崩落が起きた。エルムとセレスでは古代施設が動き、王都の地下からは今の図面にない人工物まで出ている。史料院では、百八十年ほど前にも地下で複数の異常が起きた可能性が見つかった」
王はフィアナを一度見た。
「その上で、今度は王都そのものが壊れる光景を見たという」
卓を囲む者たちへ視線を戻す。
「何も起きなければ、待機を解けばいい。死者が出てからでは遅い」
それで議論は終わった。
レオポルト王が書記官へ向き直る。
「王令だ。王都非常防衛令を発動する」
書記官がすぐに紙を広げた。
俺も、その名は知っていた。
冒険者として登録した際に説明を受けている。王都に重大な危機が認められた場合、防衛や救助に関する冒険者の作戦指揮を一時的に王国側へまとめる制度で、ギルドそのものが王国の組織になるわけではない。
実際に使われるとは思っていなかった。
「……本当に使うんだ」
ミラが小さく呟く。
「登録の時は、昔の決まりが残ってるだけだと思ってた」
ユリウスも地図を見たままだった。
「俺も初めてだ」
ガルドの言葉に、思わずそちらを見る。
長く白金級として活動してきたガルドですら、発動を見るのは初めてらしい。
ギルド支部長が立ち上がった。
「確認します。本令と同時に、王都防衛条項も適用されるのですね」
「ああ。ただし王都内の防衛、救助、避難支援に限る。通常のギルド運営には触れない」
「対象は、現在王都にいる登録冒険者で?」
「そうだ。所属支部は問わん。王都外の者を呼び戻す必要もない。低位の者まで一律に戦闘へ出すな」
「軍との混成は?」
「必要なら認める。ただし、普段から組んでいるパーティーを理由なく崩すな。軍と冒険者を同じように扱う必要もない」
王は地図へ目を落とした。
「必要な時に、別々の戦力を同じ方向へ動かせればいい」
「承知しました」
書記官の羽根ペンが走る。
「ヴェルセリア王国国王、レオポルト・アルノーの名において、王都レーヴェンハルトに王都非常防衛令を発する」
軍、近衛、神殿、市の各部門、冒険者ギルドへの命令が読み上げられ、ディートリヒが一礼した。
「近衛は任せる」
「承知しました」
「軍とギルドから連絡員を出せ。夜明けまでに指揮経路を決めておけ」
「はっ」
最後に、王はフィアナを見る。
「聖女殿」
「はい」
「伝えてくれて感謝する」
フィアナは少し戸惑ったように王を見た。
「でも……本当に起きるかは」
「分からないのだろう」
「……はい」
「なら、それでいい。何も起きなければ一番だ」
◇
その夜から、王都の内側で人の動きが変わった。
第一、第二師団では王都内にいる兵に対する呼集がかかり、兵営で装備と物資の確認が始まった。近衛は王城と主要施設の警備を増やし、冒険者ギルドでも夜通し、王都にいる冒険者の所在と得意分野が整理された。
翌朝には、俺たちにも待機場所と連絡方法が伝えられた。
軍が市街へ展開したわけではなく、神殿の治癒師も普段の仕事を続け、市場もいつも通り開いている。ただ、地下で予定されていた工事の一部は止まり、消防や救助を担当する者たちは資材と器具を確認していた。ギルドも通常の依頼を続けながら遠方へ出る人数を抑え、高位冒険者には王都を離れないよう連絡を回している。
一日目は何事もなく過ぎた。
二日目になると、軍とギルドの連絡員が常駐する場所や報告経路が決まり、市の救助部門では担当区域が振り分けられた。神殿側も、招集がかかった場合にどの治癒師がどこへ向かうかまで整理している。
万全ではない。それでも、異変が起きた瞬間に全員が顔を見合わせる状態ではなくなっていた。
その間、王都では何も起きなかった。新しい神託もなく、地面も割れず、黒い獣が姿を現すこともない。
二日目の午後には、ギルドの空気にも待ち疲れが混じり始めていた。
俺たちは遠くへ出ず、呼び出しがあればすぐ動けるよう装備を近くに置いていたが、実際には何もせず待つ時間の方が長い。
窓際にいたユリウスが、通りを見下ろしながら口を開いた。
「……本当に来るのかな」
「来ないなら、それでいいでしょ」
ミラが答える。
「分かってるけどさ。こうやって待ってると、何もない気もしてくる」
通りには荷車が行き交い、店先では客と商人が値段を交渉している。遠くから聞こえる鐘も、いつもの時刻を知らせるものだった。
俺にも、その感覚は分かった。
フィアナが見たものが必ず起きるとは限らないし、警告を受けて動いたことで、あの光景そのものが遠ざかった可能性だってある。
それなら、それでいいと思った。
その時、足元から低い音が響いた。
通りを大きな荷車でも通ったのかと思ったが、卓の上に置かれた杯の水面が細かく震えている。
「今の……」
ミラが顔を上げる。
次の揺れは、さっきより長かった。
階下で何かが倒れる音がし、廊下を走る足音が近づいてくる。
扉が勢いよく開いた。
「南東区から急報!」
息を切らしたギルド職員が室内を見回した。
「旧水路沿いで、路面が持ち上がっています!」




